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堕落の王【Web版】  作者: 槻影
Chapter6.嫉妬(インヴィディア)

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第三話:貴方になりたい

 理性が許しても感情が許せない。

 それは悪魔が持つ性というものだ。


 故に、ハードが傲慢(スペルヴィア)故に見下し、レイジィ様が怠惰(アケディア)故に怠け、リーゼが憤怒(イーラ)故に怒り、デジが強欲(アワリティア)故に求め、ゼブルが暴食(グラ)故に喰らっても何らおかしくない。


 ローナが色欲(ルクセリア)故にレイジィ様に欲情を抱いてもおかしくは――ない。

 そして、それを私が嫉妬(インヴィディア)故に嫉妬しても。


 力を入れすぎて噛みきった唇――血の味が口の中いっぱいに広がる。鼻の奥に感じる強い刺激臭。

 見たくもない光景、聞きたくもない言葉。

 鮮烈な憤怒のそれとは異なる、『嫉妬』の濁った炎が湧き出すように脳内を舐める


 『覗き眼エンヴィー・ヴィジョン


 嫉妬のツリーのスキル。嫉妬した相手の動向を探る力。風景だけでなく、声までも聞くことが可能。

 まるで目の前で繰り広げられているかのように、視界は鮮明で聴覚はローナの柔らかい声を捉えている。


 決して、レイジィ様に劣情を抱いているわけではなく、私はただただ羨ましい。


 自身の主に性欲を抱けるローナが。

 強欲に従いただ欲を求道するデジが。

 暴食の王をも見下す程の自信に溢れるハードが。


 今まで、嫉妬のスキルは自室でのみ使用していた。

 表はあくまで『色欲(ルクセリア)

 才色兼備、一つの軍の頂点に立つ、色欲を司る一人の女。


 曾て存在していた色欲(ルクセリア)の魔王であるリリス・ルクセリアハートを嫉妬し、手に入れたスキルは大抵の色欲の悪魔のスキルを凌駕していた。


 それ故の――ミディア・ルクセリアハート


 姿見に映る私の姿は、醜い嫉妬の感情に表情を染め、その眼からは血の涙が流れている。

 精神を黒く塗りつぶすような鮮烈な、醜悪な感情。

 感情とは裏腹に、私は順調に嫉妬の系統樹を進めつつある。


「はぁはぁ……」


 一歩も動いていないはずなのに、胸が苦しい。

 吐き出される息は熱く、湿っていた。


 デジの言葉を思い返す。

 やっぱりだめだ。ここで嫉妬を遂げない限り、私に未来はない。


 例えハード・ローダーが私を殺そうとしていたとしても――


 誰にも……私の嫉妬は邪魔させない。

 処分しようとしてくるのならば、返り討ちにするまで。


 デジを嫉妬して手に入れた強欲(アワリティア)のスキル。

 色欲の魔王、リリスを嫉妬して手に入れた色欲(ルクセリア)のスキル。

 私自身が進める嫉妬(インヴィディア)のスキル。

 潰れたゼブルの死骸から手に入れた暴食(グラ)のスキル。


 仮にも将軍級の力を持つ私に嫉妬できる数は、デジの片腕だった探求のリベルよりも遥かに多い。

 だが、そんなものは副次的なものにすぎない。


 私の嫉妬は――嫉妬を抱くきっかけ、根源になった物は、他にあるはずだった。


 妬ましい

 羨ましい

 私も――貴方になりたい。


『レイジィ様、お食事の時間です』


 ローナが穏やかな表情でレイジィ様に声をかける。

 古くから仕えるレイジィ様の側仕え。最もレイジィ様に接する時間の多いメイドで、同時に私を救った悪魔でもある。

 容姿、性格、技術、忠誠心。その何もかもが羨ましい。


 ――貴方がいなければ、私がそこにいたはずなのに


 そしてまた、頭の中が黒い熱に炙られる。

 何故、どうして、私が欲しいものは後一歩で手に入らないのだろうか。

 誰が悪いのか。何が悪いのか。


 ゼブルさえ上手く討滅できれば、手柄さえ立てることができれば、今まで通りの日常が続いていたはずなのに……


 何よりもないのは時間だった。ハードはまず間違いなく私を殺そうとするだろう。彼は、そういう悪魔だ。

 遠くから嫉妬しているだけでは間に合わない。私の生が意味を失ってしまう。何もなくなってしまう。

 今まで出来るだけ抑えてきたその感情はもはや私の力で制御できる域を越えていた。

 腕が、脚が、寒くもないのに震える。


『レイジィ様、御髪が乱れております』

 

『……そうか』


 いつもベッドに潜っているのだから乱れていないことがあるわけがない。

 半ば言いがかりに近い言いようで、ローナがレイジィ様の漆黒の髪に触れる。レイジィ様は目をつぶって黙ったままだ。

 触れた瞬間に、ローナの頬が薄っすらと朱に染まったのが見えた。


 何も言っていない。何も言っていないが、ただただ羨ましい。

 風の噂で聞いた。レイジィ様がローナの名前を記憶されたらしい。今までずっと分相応に下がって奉仕し続けてきたローナが少し前に出ているのもそれが原因だろう。


 ――私はまだ名前を覚えてもらっていないのに


 だめだ。もうだめだ。絶対にだめだ。

 荒い息を整えつつ、ハンカチで眼を拭う。白かったそれは、たった一回目元を吹いただけで黒に限りなく近い朱色に染まっていた。


 ああ、貴方が――ただただ妬ましい。


 意味のないことだとはわかっている。

 だけど、私が、私が魔王だったら、ローナの姿をそのまま模倣することができたのに!

 そんな意味のない思考が脳内をぐるぐると渦巻いていた


 何度拭っても次から次へと流れ出る血の涙は止まる気配がない。嫉妬を吸ったハンカチの重さが憎い。


 時間がない。ハードに勝てるかどうか、正直私にはわからない。

 デジの忠告を考えると、確率はかなり低いのだろう。何を隠し持っているのかわからない得体の識れない男だ。

 ならば、その前に渇望を遂げる。


 涙を拭うのは諦めた。

 鍵を開けて部屋を出る。

 震える脚、壁に手をつけ身体を支えながら、レイジィ様の部屋に向かう。途中で部下とすれ違った。

 部下は私に挨拶をかけようとしたが、私の表情を見てぎょっとしたように目を見開いた。


 気にする必要はない。私の渇望は貴方に向いていない。


 そう言おうと、なんとか表情を変えて笑みを浮かべてみせると、顔を青褪めさせて逃げてしまった。


 ああ……私がローナのように笑えていたら、逃げなかっただろうか?


 だが、それもまたどうでもいいことだ。

 今までいくらでも時間があったのに、結局時間がなくなってから嫉妬を強くする私は無様な悪魔に違いないだろう。

 渇望を諦めた悪魔など腐る程いるのに、一度マイナスを味わった私にはとてもじゃないけど、諦められない。

 歯を食いしばる。


「……だめだ、絶対に……」


「くすくすくす……何がダメなんですかぁ?」


 それはただの独り言だったはずだ。

 通路の角から、一人の影が現れた。

 金髪、碧眼。ローナの装いよりも丈の短いメイド服を着た悪魔。

 ヒイロ。ローナの妹。レイジィ様に仕える家系のナンバー2。

 癇に障るくすくす笑い。ローナに似た容姿を持ちながら異なる雰囲気を纏う少女。


 同時に、ハードと同じく傲慢(スペルヴィア)を司り、それでいて戦いに参加しない特殊な悪魔でもある。

 何だって傲慢はこうも癇に障るような声を挙げるのだろうか。その表情、声色、全てが私を苛つかせる。


「お姉ちゃんに追い出されちゃったけど、代わりに面白い物見つけちゃいましたぁ」


「……貴方に用はない」


「くすくすくす、ミディアさん、猫が剥がれていますよ?」


 その言葉に今更気づいた。

 嫉妬のスキルでいつも模倣していた『色欲(ルクセリア)』の空気が解除されている。

 深呼吸をして、スキルを使い色欲を纏う。


 ヒイロが面白そうな眼で私を見ていた。


「……なるほど、ずっと思ってたんですよ。いくらなんでも色欲にしては『薄い』なあって。くすくすくす……」


 余計なお世話だ。

 もう隠す意味などない。もともと私は、ヒイロになんか興味もない。

 私がもともと隠したかったのは――レイジィ様に対してだけなのだから。


 ヒイロがハンカチで私の流れる涙を拭き取る。真っ黒に染まった布を見て、にやりと笑った。

 そのまま、汚れるのも気にせずに拭きとったハンカチをポケットに仕舞う。


「それで、どうするつもりなんですか? そんな姿で」


「……余計なお世話」


「くすくすくす、釣れないですね。どうしようかな……止めたらお姉ちゃんも褒めてくれるかな?」


 こいつ……やりあうつもりか。

 将軍級の私を相手に。

 確かに嫉妬のスキルそのものの攻撃力は決して高くない。だが、私には今まで嫉妬したスキルがある。

 勝てるだろう。凡百の悪魔を相手にして敗北するほど私は弱くない。


 だが、私の殺意を受けてすら、ヒイロは無邪気な表情で笑っていた。


「……冗談ですよ。冗談! そんなおっかない顔しないでください、ただの冗談じゃないですか。くすくす、いいですよ、通してあげます。お姉ちゃんも……まだ部屋にいますが、すぐにいなくなるはずです。全く、まどろっこしいんだから……」


「……何が目的だ」


 この少女が何を考えているのかわからない。

 長く生きているわけでもないのに、それほど傲慢の系統樹を進めているわけでもないはずなのに、その表情には種類は違ってもハードと同じ傲慢が見て取れた。

 馬鹿にしているとかではなく、自然と見下す態度。

 そして、その表情には見合わぬ賢しさ。


「べーつーに? 目的なんてありませんよ。どうせミディアさん、もう殺されちゃうし最後くらい想いを遂げたいかなって思っただけです」


 ねぇ、ミディアさんもそう思ったんでしょ?


 と、ヒイロが声をあげて笑った。

 頭がずきずき痛む。納めたはずの嫉妬の炎がぶり返す。


「ま、好きにしたらいいと思いますよ。レイジィ様も……くすくす、気にも留めないと思いますし?」


「…………」


 だめだ、時間がない。

 こいつを討滅するのにかかる時間はいくつだ? 一分? 十分? それともそれ以上?

 ヒイロにかまっている時間が勿体無い。


 道をあけるヒイロにたった一度だけ視線を向け、そのまま前を見る。

 血がぽたぽたと絨毯に染みを作る。


「くすくす。あ、お姉ちゃんを殺したら教えてくれますか? 次は私の番なので」


「…………」


 相手にしていられない。

 ヒイロがいなくなった後も、そのクスクス笑いが耳に付いている。

 何がおかしいのか。何が面白いのか。


 ……もはやどうでもいい。


 ここに残る未練はたった一つだけだ。


 レイジィ様の部屋が見えてきた。ローナはもう既に部屋の外に出ている。

 もともとローナを殺すつもり何かない。邪魔をされたらどうかわからないが、彼女は並の軍人よりよほど忙しかったし、レイジィ様の目の前では奥ゆかしかった。夜は驚くほど激しいくせに。


 分厚い扉を一度ノックして、躊躇いなく開ける。

 肉眼で見たレイジィ様の部屋は、数回リーゼに燃やされたせいでかつて入った部屋とは変わっていたが、空気だけはかつて感じたそれと一緒だった。

 嫉妬とも強欲とも憤怒とも暴食とも異なる強い怠惰(アケディア)の空気


「失礼……します……レイジィ様」


 私の声に、レイジィ様は応えない。既知の事実だ。

 後ろ手に扉の鍵を閉めて、レイジィ様の寝転がるベッドに近づく。

 まるで死んだように眼をつぶっているそのご尊顔には何の表情もなく、起きているかどうかすら定かではない。

 目の前にしても、ほとんど何の感情も抱かない。嫉妬のしようのない怠惰の王。まるで彫刻のように……というよりは、死体のように身動き一つしない堕落の王。


 手に入れられない物をこそ嫉妬するに足るというのに、レイジィ様の事は何も羨ましくない。

 当たり前だ。私が羨ましかったのはレイジィ様ご本人ではなく、その周囲なのだから。


 手の平でレイジィ様の頬に触れる。生きている。

 醜い血の涙がぽたぽたとその頬を汚した。


「レイジィ様……一体、私は……何が妬ましいんでしょうか……何故、私は満たされないんでしょうか……」


「…………」


 レイジィ様は薄っすら眼を見て、見下しの感情すら篭っていない透明な視線で私を見た。

 だが、何も言わない。それがただ無性に悲しかった。


 手がかりはただ一つ。

 今まで私が認識している中で、記憶の中で一番嫉妬したのはローナだった。


 ――だからこそ、そのローナができないことをすれば私の嫉妬も少しは埋められるはずだ。


「レイジィ様……私の名前を覚えてますか?」


「……ああ」


「え? 本当ですか!? 言ってみてもらっていいですか?」


「…………」


 眼が誰だろう? といっていた。


 ……なんでレイジィ様はこう、脊髄反射で生きているのだろう。

 血の涙を流す私を見ても、頬が汚れても全く動じた様子がない。私では、レイジィ様の心を動かせない。

 既にわかっていたことだ。


 ローブの裾を持ち上げ、丁寧にお辞儀をする。


 ならば、最後だけでも有終の美を飾らんことを。


「レイジィ様……ミディア・ルクセリアハートといいます。司る罪は『色欲(ルクセリア)』。以後、お見知り置きを」


「……そうか」


 レイジィ様は鬱屈そうに声を出した。


 魂核はうるさい程に鼓動している。

 だが、おかしい。ご本人を前にして尚、嫉妬が満たされる気配がない。私は――何を見落としているのだろうか。

 どちらにせよ、時間はない。


「レイジィ様――」


 ローブの首元を結わえていたリボンを解き、サイドテーブルに真っ赤なそれを置く。

 木製のボタンを一つ一つ、震える手で丁寧にはずしていく。

 腕を抜き、ローブを足元に落とす。むき出しになった二の腕が、外気に触れてひんやりとした感覚を脳に伝えてくる。

 身体を護るのは薄手のワンピースとその中に着ている下着だけだ。戦闘服ですらない。私を護るものは何もない

 ゼブルに脱がされるのではない、自ら脱ぐという行為は想定していたよりも遥かに恥ずかしかった。色欲の悪魔って凄い。

 唇が震える。震える声でレイジィ様に宣言する。


「……今から私は……レイジィ様を犯します」


「……そうか」


「……つまり、レイジィ様の意志を無視して、無理やりセックスするということです」


「……そうか」


 そこまで宣言しても、レイジィ様の顔は、表情は全く変わらず、眉一つ動かない。

 喜怒哀楽の一切がない。羞恥も恐れも何もない。欠伸をしながら、ぼんやりと動く視線は私を見ているのかすら定かではない。


 私は、流れる涙が強くなったことを自覚しながらも、震える手でワンピースの一番上のボタンをぷちりと外した。

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