第十六話 絶望と小さな希望
「あ、これ……違う。おかしいな、さっき見たと思ったんだけど……こっちかな」
「何を一人でぶつぶつ言ってんのよあんたは」
入り口から聴こえた声に、僕は開いていた本が閉じないように手で押さえたまま振り返る。紅髪の少女が、物凄く呆れた表情で立っていた。
「……声、出てました?」
「ええ、思いっきりね。何してたわけ?」
リザさんは僕の返事も待たずつかつかとこちらに歩いてくると、僕の手の下に羅列する文字を見て僅かに顔を顰める。続いて机の上に積まれた本に視線を移すと、彼女は目を細め、嘆息した。
「アネモス語ね」
「はい。……少し、気になることがあって」
開いていたページに目を通しながら、リザさんに対して頷く。やがて僕は、思った通りだ、と唇を噛んだ。やっぱり、先生の教えてくれたことに、無駄なことなんて一つもない。……ないけれど、これは。
「どうかしたの?」
「あ、……えっと」
首を傾げるリザさんに、たった今知ってしまったことを話すべきか、少しだけ悩む。だけど僕だけで抱え込んだところで、現状は何も変わらないか、むしろ悪化するかのどちらかだろう。リオネルがいるときに話そうかとも思ったが、それまで僕が耐えていられるかと訊かれると、少し不安が残った。
「……ウィクトリアが襲っているのは、つまり先生が選んでいるのは、全て『遺跡の町』です。アネモス語が使われていた頃の遺跡を覆い隠す、決して大きくはない町。それは、リザさんもご存知ですよね」
だから、嘆息交じりにぽつりと呟く。リザさんは訝しげな表情のまま、軽く頷いた。
「ええ、あんたが言ったんでしょ。何も知らない人間からすれば小さな町ばかりでも、知っている人間にとってはかなり大きな被害よね」
「はい。……それぞれがアネモス語での意味を持つ、とも話しました。だけどそれとは別に、それぞれの遺跡同士の関係とか、合図を送る――この場合は襲う、になりますが、その順番だとか、当時はそういうものによって連絡を取り合っていたんです。暗号、みたいなものですね」
「……待ちなさい、まさか」
僕の言いたいことに気づいたのか、リザさんが一瞬目を見開き、すぐに眉を顰める。
「多分、リザさんの考えている通りだと思います。……ウィクトリアの帝都が、定期的に、あるいはもしかしたら不定期に、場所を変えているという噂はご存知ですか?」
「知ってるわ。噂じゃなくて、事実ね」
実際にウィクトリアの人間と戦った騎士たちでさえあり得ないと顔を顰める言葉に、しかしリザさんはあっさりと頷いた。
「正しくは、王城だけが不定期に場所を移動するんだったかしら。王城が現れた場所が帝都になる、って聞いたわ。だから帝都の場所は王城に『選ばれた』街の人間や行商人くらいしか知らないし、そこを目指すにも色々な街で噂を集めなきゃいけない」
一応商人の娘だもの、と付け足された言葉に納得する。ああ、そういえば。道理で詳しいわけだ。
「騎士たちも帝都が分からないから攻め込めないんでしょ。ウィクトリア兵がこっちに攻めてくるのは、何とか阻止してるみたいだけど」
「アネモスの騎士は優秀ですから、人数が少なくなった今でも何とか戦っていられますけど……これ以上減ると、厳しいでしょうね」
だから、父上は一ヶ月前、キースさんを呼んだのだ。騎士たちを戦線に戻すために。
「じゃあ、ジルが伝えてきたのは帝都の場所、ってわけ?」
「はい。正しくは、戦争が始まってから頻繁に場所を変えている城が、次に現れる場所、でしょうか。それを父に伝えれば、恐らく一気にアネモスが優位に立てると思います。ウィクトリアに情報が漏れるより前に攻め込む、父上ならそれくらいはするでしょうから。……でも、それは」
「そんなの最初から分かってたはずよ、シリル」
俯いた僕の言葉を、リザさんは厳しい口調で否定する。
「いざとなったら陛下はジルを見捨てる。それが分かっていたから、あたしたちは集まったのよ。ジルだってそうだわ、彼が伝えてきてるのはつまり、自分を助けるなってことでしょう。自分を見捨てて、攻めろって。……予想は、出来てたわ。ジルがそんな性格だってことは、嫌になるくらいよく知ってるもの」
疲れたように嘆息するリザさんに、かける言葉は見つからなかった。先生が自分を疎かにしがちなのは、僕だって知っている。けれど、リザさんの言葉には、僕が賛同してはいけない気がして。
迷っていると、リザさんは唐突に顔を上げ、僕を睨むように見た。
「次にウィクトリアの帝都が変わるのは、いつ? ジルはそこまで伝えてきた?」
「は、はい。多分、一ヶ月後……冬の二に入ってから、だと思います」
「そう。……長いわね」
けどそれだけあれば手は打てるか、と呟き、リザさんは僕に背を向けて、扉の方へ歩いていく。扉に手をかけたところで、彼女はくるりと僕を振り返り、僅かに目を細めた。
「ウィクトリアの王城のこと……は、流石に無理ね。とにかく、調べられることは全部調べといて」
「……ええと、リザさんまさか」
ついていく気ですか、と訊ねようとした僕を遮り、彼女はそっと笑みを浮かべる。
「もう、ね。何も出来ないのは、嫌なのよ」
痛々しいほどに綺麗な微笑み。……出ていく彼女に、また、何も言えなかった。
◆◇◆
目覚めると同時に、突き刺すような寒さに顔を顰める。まだ冬の一の月が始まったばかりだが、ウィクトリアは元々冬が長く厳しい国だ。あと一ヶ月もすれば、恐らく故郷では絶対に訪れないほどの寒さに襲われることだろう。……アネモスなら、と思い出しかけて、僕は慌てて首を振った。
「……忘れるな、ジル=エヴラール」
そっと、自分に言い聞かせる。僕は、アネモスを裏切ったのだ。たとえこの城を出られたとしても、あの国に戻ることなんて出来やしない。そんなこと、許されない。いや、そもそもこの城から逃げ出すことすら、僕には出来ないだろうけれど。
……そんなことを考えている場合ではない、か。王女が来ない今の時間が、チャンスなのだから。僕は寝台の上に体を起こし、ゆっくりを息を吐いた。毒に蝕まれた体はそれだけで既に辛いと訴えていたが、そんなことは無視して右手を上げる。そっと宙に魔法陣を描きながら、廊下に聴こえないように呪文を呟いた。長い、長い、アネモスの古語。同時に、この部屋にかけられた王女の魔法を打ち消す魔法も使っておく。それが彼女に知られたらどうなるか分からないから、絶対に彼女が勘づかないように、一言紡ぐたびに限界まで神経を張りつめて。
やがて魔法陣が放った青い光に、僕はそっと微笑んだ。無理やり魔法を使ったせいで体調は悪化していたが、それは無理やり意識の端に追いやる。
「……良かった。成功、したみたいだね」
「はい、主様」
魔法陣を描き終わって差し出した右手に、とすんと軽い衝撃。光が消えるとそこには、小さな――前世であれば妖精などと呼ばれていそうな、透き通った羽を持つ身長十五センチ前後の少女がいた。いや、少女というには、少し幼すぎるだろうか。僕よりいくらか明るい青色の髪に、同じ色の瞳。顔立ちはリザ曰く僕に似ているらしいけれど、それは僕には確かめようが無い。
魔力を用いて魂を切り離す、禁じられた風の国の魔法。彼女は僕自身であり、僕の魔力の塊でもあり、同時に僕を主と慕う、使い魔のようなものでもあった。
「顔色が悪いです、マスター。大丈夫ですか?」
「その答えは、君が一番よく分かっているはずだよ」
「出来ればそんな時にわたしを呼んでほしくはなかったです」
本当に幼い子供のように頬を膨らませる少女に、苦笑交じりにごめんね、と呟く。僅かに表情を引き締めて僕を見上げた彼女に、僕は囁いた。
「頼みがあるんだ、ソフィア」
「はい、分かっています。……本当に、それで良いのですか?」
「……君を犠牲にしてしまうことは、すまないと」
「そうじゃありません!」
僕の言葉に、少女はもどかしそうに首を振る。直後、自分が叫んでしまったことに気づいて慌てて口を押さえ、扉に一度視線を走らせてから、ソフィアはいくらか抑えた声で続けた。
「わたしはマスター自身ですから、喜んでマスターの意志に従います。でも、王女に知られたら、マスターは……」
「ああ、酷い目に遭うだろうね。大丈夫、死にはしないよ」
あの王女のことだ、僕を殺しはしないだろう。死ぬほど酷い目には遭うかもしれないけれど、死ななければどうにかなる。どうにかアネモスに危害が及ばないように出来れば、それで十分だ。
「僕一人が耐えれば良いのなら、耐えるよ。大丈夫」
「でも……」
反論しかけたソフィアだったが、言っても無駄だと分かったのだろう。諦めたように嘆息すると、こくりと頷いた。……大丈夫、言われなくても分かっているよ。僕が間違っていることくらい、前世から知っている。
「宝物庫から色々と盗んで、アネモスに行けばいいんですね?」
「うん。そうだね、城の見取り図と内部の情報が書かれた紙は、まとめて宝物庫に置かれているはずだ。それと……そうだな、城内の人間の様子だと、重要な部屋の鍵の複製も同じ場所にあるはず。出来ればそれも、持って行ってくれるかな。シリル様に渡すのが確実だと思う」
「はい、了解です」
素直に頷くソフィアに、僕はふと思い出す。
「ああ、それとリザに。……ごめんね、って、伝えてもらえるかな」
「……マスター、それは」
目を見開く少女に微笑を返し、そっと手のひらから彼女を降ろした。戸惑うように振り返ったソフィアに、扉の近くを指差してみせる。家具も何もないけれど、彼女が隠れられる隙間はいくつかあった。
「あの辺りに隠れていて。もうすぐ王女が来るはずだ、彼女が部屋にいる間なら、この部屋にかけられている魔法は効かない。すんなり部屋を出られるから。宝物庫の場所は分かるね?」
「……はい、マスターの記憶に在りましたから」
何か言いたげに眉を下げ、それでも何も言わずに、彼女は寝台を飛び下りる。ソフィアが姿を隠したのを見届けたところで、僕は深く息を吐いた。少し休みたかったが、そこで唐突に扉が開く。
「あら、起きているなんて珍しいですわね? ジル」
「……おはようございます」
彼女が普段より早く来たことに内心危なかったと安堵しつつ、一方で警戒を緩めないまま、僕はそっと微笑んだ。悟られてはいけない。人の心を掌握するのが誰よりも上手いこの王女に対して、今は嘘を吐き通さなければいけないのだ。
「今日は随分早いですね、カタリナ」
「ええ、寒かったものですから」
寒さなど微塵も感じていないような笑顔で頷き、彼女は僕の元に歩み寄る。普段は絡みついてくる腕は、けれど指先で僕の頬に触れたところで止まった。不思議に思った僕の目の前に、艶やかな笑みが迫る。固まる僕に対して、彼女はにい、と血のように紅い唇を歪ませた。
「愛しているわ、ジル」
「っ!」
それは恐怖か、嫌悪か、それとも他の感情か。彼女が放った言葉に、僕は凍りつく。一目惚れという言葉は『嫌い』だが、大好きだとか、愛しているだとか、そんな単語には恐怖すら覚えた。……その言葉自体は、たくさん言われたけれど。その度に前世の僕は、お前は独りなのだという声を聴いていたのだから。だって誰も、僕自身を見てはくれなかった。小さい頃から一緒にいたはずの、幼馴染たちですら。
僕が愛という言葉を嫌がるのを知ってから、王女はたまにこうして、僕の耳元で愛を囁いてきた。ああ、恐らくそれが余計に、僕の恐怖心や嫌悪を煽っているのだろう。
顔を歪めた僕を見て、王女は楽しそうに声を上げた。
「あら、どうかなさいましたの? 顔色が悪いわ、ジル」
「…………いいえ」
湧きあがった色々な感情を押し殺し、無理やり微笑む。心の中で、いけ、と叫んだ。視界の端、外に飛び出た小さな青い影を確認して、王女に気づかれないように息を吐く。
……蛇というより、蜘蛛かな、と。じわじわと心に絡みつく王女の言葉に、そんなことを考えた。
こんばんは、高良です。まずは更新が遅れてごめんなさい。文化部を兼部していると文化祭前って忙しすぎて死にますね、とここまで言い訳。
さて、前半はリザとシリル君。少年王子が見つけた事実は、彼にとって残酷な真実も一緒に伝えてきました。
後半は久々に主人公のターン。自分のために動くことを知らない彼は、大切な人々のために、ようやく動き出しました。それがますます彼の立場を悪くすると、分かっていても。
次回から少しずつR15タグが働き始めますが、それを超えると第三部もクライマックスに向かっていきますので、もうしばしおつきあいくださいませ。
では、また次回。




