第五話 青年は救いを信じず
この部屋に窓は無く、鳥の鳴き声なんかも全く聞こえない。そのせいか、不意に目が覚めたものの、今が朝なのか夜なのか判別することは出来なかった。
「……リザは」
彼女は、無事に逃げ切れただろうか。ぽつりと呟き、僕は再び目を閉じる。
あの後――リザを逃がしたあと、僕が連れて来られたのがこの部屋だった。狭くはないものの息が詰まる、城の最奥に位置する部屋。置かれている家具はたった今まで横たわっていた寝台とテーブル、そして椅子だけ。それらはいずれも豪華な装飾がなされていて高級なものではあったけれど、この広い部屋にそれだけがぽつんと置かれている様はどこか異様で、余計に気が滅入るものだった。
扉は二つ。一つは恐らく昨日も通った、部屋の外に出るためのものだろう。その扉に大きく描かれた魔法陣を見て、僕は思わず苦い笑みを浮かべた。
「鍵の代わり、か。……徹底しているなぁ」
もちろん、ちゃんとした鍵もかけられていることだろう。しかしそれ以前に、中にいる人間を決して外に出さないための魔法がしっかり自分に働きかけていることは、少し意識すれば感じ取れた。同時に魔法の妨害もしてくるようで、この部屋の中で僕が魔法を使うのはかなりの重労働だろう。死ぬ気で頑張れば使えるかもしれないけれど、そう簡単に挑戦するのは避けた方が良さそうだ。
この魔法は確か対象を指定しなければいけないもので、つまり魔法が使えないのは僕だけ。他の人間が入ってきたとしても、彼もしくは彼女は難なく魔法を使えるだろう。その事実に、僅かな恐怖を覚える。……だって、つまり。あの王女や他の誰かが魔法を使ったとしても、僕に対抗手段は無いということなのだから。
「あら、どうかなさいましたの?」
「っ!」
不意に聴こえた声に、僕は思わず体を強張らせた。入り口近くに立つ黒髪の女性を見やり、ぎこちない微笑を浮かべる。……いつの間に入ってきたのか。扉が開く音にすら気付けないとは、この状況は僕にとって想像以上に堪えているらしい。
「王女殿下……」
リザはどうなったのか、という問いを何とか呑みこむ。訊ねたところで、彼女が本当のことを答えるわけがないだろう。一瞬だけ僅かに不機嫌そうだった王女の表情から察するに、リザを捕らえ留めておくという彼女の目論見は失敗に終わったはず。そう思わなければ、やっていられない。
「殿下こそ、どうなさったのです? 貴方がたに従うとは言いましたが、あくまでも知識を貸す程度。それで、国王陛下も納得なさったでしょう? それ以外のときはこの部屋にいろ、そう言われたと思ったのですが」
「ええもちろん、当分この部屋から出てはいけません。貴方が逃げ出さない保証は無いもの。そんなことより、その呼び方は気に食わないわ」
楽しそうな笑顔で、歌うように言葉を紡ぎながら、彼女は軽い足取りで僕の傍に近づいてきた。寝台に座っていた僕の隣に腰を下ろすと、王女は抱き着くように僕の首に腕を絡めた。
「私の名を、覚えていないわけではないのでしょう?」
「……ええ、カタリナ様」
彼女の問いに、僕は再び微笑む。少しずつ、無理やり笑顔を作る術が戻ってきた。昔は頻繁に浮かべていたのに、リザと再会してからは殆ど使わなくなっていた笑顔。
カタリナ=オディール=ユーベルヴェーク=ウィクトリア。それが、今目の前にいる、この帝国の第一王女の名だった。年は確か僕と同じ、今年で十九のはず。この国の正妃は既に亡く、国王の嫡子は彼女ただ一人。女王になるのか婿を取るのかは分からないが、将来この国を継ぐのが彼女であることは間違いない。ゆえに他国からは警戒されている彼女だけれど、同時にもう一つ、有名な話があった。
ウィクトリアの人間は、人の心を掻き乱すことが得意だと聞く。単なる心理戦の面でもそうだが、魔法もまた……精神に働きかけたり、攻撃したり、操ったり、そんな魔法を好むという。それらの魔法を広めたのがこの王女だ、という噂が、まことしやかに囁かれていた。もちろん精神干渉の魔法自体は昔から存在していたけれど、それをウィクトリアの人間に使いやすいよう改良したのもまた彼女であると。
既存の魔法を作り直すというのは、魔法を使うこと以上に膨大な魔力と知識のいる行為。つまりその噂は暗に、王女が僕やリザとも張り合えるほどの魔力の持ち主だと語っていた。だからこそ、何かされれば何も出来ないこの状況に、僕は恐怖すらしているわけで。
僕の答えを聴いて、王女は不満そうに目を細めた。
「ええ、正解ですわ。ですが、貴方は分かっていないようね? 敬称をつけるな、と言っているのですけれど」
「……それは」
この城の謁見の間で、彼女が言っていた言葉が蘇る。あまり本気には見えなかったけれど、一目惚れと、そう言ったはず。……嫌いな言葉だ。
「あの少女、リザと言ったかしら? あれは、貴方にとっての何ですの? 妹ではないでしょうし、恋人、かしら? それとも――」
「違う」
王女の言葉に、僕は咄嗟に首を振っていた。
この国に来る前に聴いてしまったリザの想い、恐らくあれは嘘偽りなどまるで無い、彼女の本心だったのだろう。柚希だった頃からずっと、僕のことを好きでいてくれたのだと。けれど、それを信じるのは恐ろしくて、彼女を傷つけてしまった。リザは珍しく自分を責めていたけれど、彼女の様子がおかしかったのは、間違いなく僕のせいなのだ。
「違います。リザは……恋人でも、何でもない」
「そう」
そちらが本題では無かったのか、王女は僕の言葉を深く追及することなく、その瞳と同じく血のように赤い唇を歪める。気付けば、艶やかな笑みが目の前に迫っていた。
「だったら『これ』は、罪ではないわね? ジル」
そのまま重なる唇を、諦め混じりに受け入れて目を閉じる。
これで大切なものを護れるのならば、構わない。自分を殺して、本心を殺して、そうやって生きることなど慣れている。そう、自分に言い聞かせた。
◆◇◆
「……ぅ」
「大丈夫ですか? リザ様」
目を開いた瞬間、聞き慣れた柔らかい声が耳に届いた。飛び込んできた眩しさに顔を顰めながら見ると、寝台の横に座っていたのは予想通りの、萌葱色の瞳の女性。
「マリルーシャ、さん?」
「はい」
呟いた言葉に、彼女は嬉しそうに微笑む。アネモスの王城で会ったときには頭の上でまとめられていた亜麻色の髪は、今は下ろされていた。纏っているのも侍女の服ではなく、シンプルだけど高級そうな服で、そのせいか今の彼女はどこからどう見ても貴族の令嬢である。
「リザ様? 言いたいことは何となく分かりますが、そのような目で見られても困りますわ。それより、怪我は大丈夫ですか? わたくしたちにはリザ様の傷を治すことは出来ませんから、簡単な手当てしか出来なかったのですけれど」
彼女の問いに、あたしは首肯する。軽傷とは言い難い傷だったせいか完治には程遠いが、それでも痛みはいくらか治まっていた。元々痛みへの耐性はあるのだ、この程度なら何でもない。
「大丈夫です。知ってるかもしれないけど、傷が治る早さは普通の人間に比べて早いから。……あの、ここは」
「トゥルヌミール家の別邸ですわ」
「別邸?」
「ええ、公爵家が所有する領地の一つです。位置としては、カルネ領の隣ですわね」
「カルネ領? ……それって確か」
「わたくしの実家です」
彼女の微笑に、あたしは息を吐く。つまり転移の魔法は期待以上の働きをしてくれた、ということか。それなりに離れたところにある帝国から、アネモスまであたしを飛ばしてくれたのだから。
……ああ、忘れるところだった。
「そういえば、結婚おめでとうございます、マリルーシャさん。先月でしたっけ」
「まぁ、ご存知だったんですね。ありがとうございます」
幸せそうに微笑む彼女に、あたしも思わず笑みを漏らす。マリルーシャさんとリオ様のことはジルから聴いていた。恐れていた嫉妬は姿を見せなかったことに、こっそり安堵する。
その時、不意にノックの音が響いた。あたしは思わず体を強張らせるが、マリルーシャさんは柔らかい笑みを浮かべたまま、扉に視線を向ける。
「どうぞ。開いていますわ、リオ様」
「この部屋の主は君ではないがな、マリルーシャ」
苦笑交じりに入ってきた青年は、起き上がっているあたしを見て僅かに驚いたように目を見開く。しかし彼はすぐに柔らかい笑みを浮かべ、マリルーシャさんの隣に腰をかけた。……普段はジルに比べて生真面目そうな表情の多いリオ様だが、こういう顔をしていると本当によく似ている。
「目が覚めたのか、リザ。怪我は大丈夫か?」
「はい。……あの、助けてくれて、ありがとうございました。それと、ご結婚おめでとうございます」
「気にしなくていい。あそこを通りかかったのも偶然だ。……ありがとう、マリルーシャに聴いたのか?」
「いえ、ジルに」
「そうか」
首を振ると、リオ様は首肯し、その表情を引き締めてあたしを見た。
「リザ。もしかしたら、訊ねるのは酷なことかもしれないが……何があった? ジルは一緒ではないのか?」
「リオ様」
彼を咎めるように、マリルーシャさんがリオ様を見る。あたしはそんな彼女に対し、そっと首を振った。
「いえ、元々話すつもりでしたから。話さなきゃいけないことなんです」
「ですが、今すぐに話すことも無いでしょう。確かに怪我が治るのは早いかもしれませんが、血だってたくさん失ったはずですわ。リザ様ならお分かりでしょう」
「……でも」
確かに貧血気味ではあるが、そんなことは言っていられないのだ。唇を噛むと、リオ様がどこか呆れたように苦笑を浮かべた。
「まったく……似た者同士、か。ではこうしよう、リザ。俺とマリルーシャは三日後に王都に戻るつもりだった。だからそれまでに出来るだけ体調を戻して、共に王都に来ればいい。話は移動中に聞こう。それでどうだ?」
王都。ついていけば、国王に直接事情を説明することも出来るだろう。国同士の戦争なのだから、よく考えればそれが一番早いはず。王城には会いたくないのも二人ほどいるだろうが、その程度は無視出来る。
大きく息を吐き、あたしは静かにリオ様を見据えた。
「連れて行ってくれるなら、それで」
「ではそうしよう。それまでは体力の回復に専念することだ。暇なときはマリルーシャを呼べばいいだろう。普段この屋敷に住んで管理している使用人たちもたくさんいる。退屈はしないはずだ」
「あら、お話相手ならわたくしが致しますわ。リザ様とでしたら、喜んで」
「……ありがとうございます」
二人に向かって軽く頭を下げると、マリルーシャさんがふわりと笑う。
「それと、実は前に会ったときから思っていたのですけれど。敬語、苦手なのでしょう? わたくしに対しては、使わなくてもよろしいのですよ。名前だって、呼び捨てしてくださっていいのです」
「ああ、それは俺も思っていた。身分など、気にする必要はないだろう」
「……でも」
僅かに眉を顰めると、二人は顔を見合わせ、悪戯っぽく笑った。
「どうせ、いずれ義理の兄妹になるだろうからな」
「ええ、義妹に遠慮なんて、されたくはありませんわ」
「なっ」
二人の言葉に、思わず目を見開く。……いや、あの、それは流石に予想外というか。
そんなあたしを見て、リオ様が面白そうに訊ねてきた。
「違うのか?」
「ちっ……違わない、けど」
でも、と口ごもる。想いを告げたとき、彼はあたしを拒絶したのだ。そう、あれは確かに拒絶だった。何が何でも奪い取ろうと前世から決めてはいたけれど、だけど本当にそれは可能なのだろうか。
あたしの様子がおかしいのに気付いたのか、二人は驚いたように目を見開く、少しして、マリルーシャさんが突然ふわりと抱き締めてきた。
「っ」
怖い。人に触れられるのは、怖い。それが鋭い刃に変わることを、あたしは知っている。そんな、魂に刻まれた恐怖に、あたしは思わず目を見開き、体を強張らせた。発狂しなかったのは相手が知り合い、それも割と親しい人間であったからか。
それに気付いているのかどうかは分からない。けれどマリルーシャさんはあたしを安心させるように、そっとあたしの頭を撫でる。
「大丈夫。わたくしもリオ様も、貴女の味方で、ジルの味方ですもの。それで貴女たちが幸せになれるならば、何だって協力致しますわ。ね、リオ様?」
「そうだな。ジルにはたくさん迷惑をかけたし、君にも世話になっている。出来ることなら、何でもしよう」
そんな二人の言葉に、あたしは目を閉じた。あたしも、ジルも、一人じゃないのだ。前世なんて関係なしに、今世のあたしたちに力を貸してくれる人がいる。一人で頑張る必要なんて、無い。
「……ありがとう、二人とも」
ジル一人に背負わせたりしない。絶対に、彼を助け出す。
そんな決意を込めて、あたしはそっと囁いた。
こんばんは、高良です。……あああ間に合わなかった。
そんなわけで第五話です。
前半は軟禁されたジルとウィクトリアの王女。逃げられないジルを、王女は確実に糸に絡め取っていきます。何やら色々と怪しい雰囲気。
後半はリオネルに助けられたリザ。一難去って束の間の休息、でしょうか。また一難、が来なければいいのですが……
そうそう、お知らせ。七月は私、〆切や部活が重なってかなり忙しいので、一時的に五日おき更新になるかもしれません。もちろん書き上がれば早く登校しますが、恐らく少しペースが落ちるかと思います。更新自体はとめたりしませんので、のんびりお楽しみください。
では、また次回。




