番外編・五 差し伸べられた手
「きゃっ」
響いた音に驚いたようにクレア様が声を上げ、首を竦める。割れた食器を一瞬呆然と見つめた後、わたくしは慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、クレア様。すぐ片付けますわ。危ないですから、触れないでくださいね」
「う、うん。……マリルーシャ、大丈夫? 今日は様子が変だわ」
「変、ですか?」
首を傾げると、彼女は強く頷く。
「そう! 何してても上の空な感じだし、わたしが何してもいつもみたいに容赦なく叱ったりしないし、今だってそう。普段のマリルーシャだったらこんなミスしないもの。絶対おかしいわ、熱でもあるんじゃ……」
「ありがとうございます」
心配そうに訊ねてくる少女に、わたくしは苦笑を浮かべた。
「ですが、熱などは無いはずですわ。もしそうなら流石のわたくしも仕事を休みます、クレア様にうつすわけにはいきませんもの」
「じゃあ、何かあったの?」
「……」
なおも心配そうな表情を消さないクレア様に、沈黙を返す。少女は少し黙り込んだ後、「よし!」と勢いよく立ち上がった。
「クレア様? いけませんわ、女性がそのように大声で叫んでは」
「特別よ、マリルーシャ。特別に、マリルーシャが元気になるまで大人しくしていてあげる」
「え?」
首を傾げるわたくしに、彼女は得意げに言い放つ。
「他の使用人やシリルの言うことだって、ちゃんと聴くわ。だから、マリルーシャはしばらく仕事を休んでゆっくりして、ね? マリルーシャが元に戻るまでは、良い子にしてるから」
「……いえ、良い子に出来るのならわたくしがいるときもそうして頂きたいのですが」
「と、とにかく!」
呟いた言葉を遮るようにクレア様は叫び、わたくしの手を引いた。
「マリルーシャはしばらく休みなの! ちゃんとシリルや他の人にも言っておくから、今日は……まぁどっちにしてもそろそろ夜だけど、とにかくもう帰る! 命令っ!」
「シリル様と違って命令の仕方が下手ですわね、クレア様」
「うるさーい! 余計なお世話!」
そんな少女に苦笑を返し、嘆息する。
「そう、ですね……では、お言葉に甘えさせていただきますわ、クレア様。申し訳ありません」
「いいの、マリルーシャには元気でいてほしいもん」
こんなときだけ物分かりが良い少女に微笑み、わたくしは「失礼します」と頭を下げて部屋を出た。何も考えないように廊下を歩き、階段を降りる。自室まで辿り着き、中に入って扉を閉めたところで、ようやく必死に浮かべていた笑顔を崩した。
代わりに浮かんだのは、恐らく泣きそうな表情。まさかシリル様ではなくクレア様に気づかれるとは思わなかったけれど、休めという彼女の言葉は正直ありがたかった。あのまま仕事を続けていたら、そのうち泣き出していたかもしれない。昔ならともかく、今のわたくしがそのような失態を晒すわけにはいかなかった。特に、クレア様の前では。
脱力するように椅子に全体重を預け、わたくしはそっと目を閉じた。
「……リオ、様」
震える声で紡ぐのは、懐かしい響き。彼のことを愛称で呼んだのは、一体何年ぶりだろうか。けれど記憶を辿ろうとしたところで、思い出せるのは冷たい嘲笑か、睨みつけてくるような無表情だった。脳裏に蘇った昨日の光景に、わたくしは思わず肩を震わせる。まるで今、目の前に彼がいるかのように。
「貴方にあんな顔をさせてしまったのは、わたくしなのですね」
彼と別れたときから、それだけが茨のように心に絡みついて離れなかった。婚約していた頃の優しい笑顔とはまるで違う、憎悪や敵意すら含む表情。彼がそんな顔をするのはわたくしだけだという事実が、ただ苦しかった。
けれど、そう訴えることすら、許されないのだ。婚約を破棄するきっかけとなった大喧嘩に関しては、どちらも悪かったのだろう。それでも、あの直後であれば、きっと引き返せたのだ。正式に婚約を破棄するには、少なくともどちらかの屋敷に帰る必要があったのだから。喧嘩なんてしたことが無かったから戸惑っただけで、互いに謝って、それで済むはずだった。
けれど、わたくしは――
「開けるよ、マリルーシャ」
響いたノックの音に、慌てて零れる寸前だった涙を拭う。同時に聴こえた声は、クレア様とよく似た少年の声だった。……そういえば、今日は朝以来お姿を見ていないけれど。
「シリル様?」
返事をする間も無く扉を開いた彼を、わたくしは呆れ混じりに叱りつける。
「いくら王族とはいえ、部屋に入るときには中にいる人間の返事を待ってからにしてくださいませ。同性間でも良くはありませんが、女性の部屋に男性が気安く入るなど――」
「悪いかなとは思ったんだけど、ちょっと聴きたいことがあったから」
全く悪いとは思っていなさそうな笑顔を浮かべ、シリル様はわたくしに歩み寄ってじっと見てくる。
「クレアから聴いて心配していたんだけど、風邪とかじゃないみたいだね」
「え、ええ。申し訳ありません、なるべく早く――」
「リオネルと、何かあった?」
何でも無さそうに放たれた言葉に、息が止まった。
慌てて否定しようとシリル様を見ると、彼は苦笑。
「ごめん、もう全部父上に聴いて、知ってるんだ。ついでに今日はドミニク……トゥルヌミール公爵とカルネ侯爵も城に呼んで、その辺り詳しく教えてもらったし」
「……何故」
呟いた言葉が聴こえたのか、シリル様は申し訳無さそうに、困ったような笑顔でわたくしを見る。
「リオネルと何かあったのなら、多分僕のせいかも。昨日ちょっと、何ていうか……その辺りのことをリオネルに訊いちゃって、それで様子がちょっとおかしかったから。その後でリオネルに会ったのなら」
「いいえ」
シリル様の言葉に、わたくしは僅かに笑みを浮かべて首を横に振る。
「確かにシリル様のお言葉もきっかけにはなったかもしれませんが、直接の原因はわたくしとリオ様が互いに意地を張り合ったことですわ。シリル様が気に病む必要はございません」
そう言うと、シリル様は「そっか」と頷き、表情を引き締めてこちらを見る。
「それじゃ、本題に入るね。さっきも言ったけど、いくつか訊きたいことがあって」
「わたくしに答えられることなら、答えますが……」
「じゃあ遠慮なく」
躊躇いがちに頷くと、彼は一瞬笑顔を浮かべ、すぐに真面目な表情に戻った。
「まず一つ目。リオネルとの関係って、今はどうなってるの? 大喧嘩した割に、普段は仲良さそうに見えたけど」
「……一般程度には仲の良い幼馴染同士、ということになっていますわ」
確信すら浮かぶシリル様の問いに、わたくしは嘆息する。今の少年の表情は、彼がよく見せる、少年らしからぬ賢いもの。ということは、恐らく全てを知った上で訊ねてきているのだろう。彼の質問に素直に答えるしかない、そう悟って、静かに頷いた。
「ジルがシリル様とクレア様の教育係になったのと同時期に、リオ様もよく城を訪れるようになったでしょう。それから間もない頃に、ばったり出会ってしまいまして……体裁と言うものもございますし、せめて人の目があるところでは、と話し合ったのですわ」
そこまで話したところで、再び昨日の冷たい表情が蘇る。
「人目の無いところでは、今でも険悪なままですけれど」
「そっか」
わたくしの言葉に首肯を返し、シリル様は少しだけ笑顔を浮かべた。
「マリルーシャは今でもリオネルのこと――なんて、訊くまでもないか」
「え?」
「気づいていなかったの? 呼び方、さっきからずっと『リオ様』って。いつもは『リオネル様』だよね」
「っ!」
思わず口を押さえたわたくしを見て、彼はおかしそうに笑い声を上げた。
「だから隠さなくていいのに、全部知ってるんだから」
「シリル様は察しが良すぎますわ」
諦めて嘆息。本当に、城に来たばかりのジルのよう。昔のシリル様の影など微塵も無いその姿に、厄介な教え子だけを残していった少年を恨む。そんなわたくしを見てしばらく笑った後、シリル様は再び表情を引き締めた。
「次の質問。婚約破棄してから、マリルーシャの方は恐ろしい勢いで浮名を流しまくった、って聴いたんだけど。それは、リオネルへの復讐のため? それとも何か、別な目的があったの?」
「……本当に、察しが良すぎますわ」
今まで訊ねられることの無かったその問いに、わたくしは再び嘆息する。
「復讐のため、というのもあったのでしょうね。ですが、いつの間にか分からなくなってしまいました。……シリル様は、運命と言うものを信じますか?」
「僕は……分からない、かな。最近周りにそういう人が多いし、あるんだろうとは思うけど」
「正直ですわね」
戸惑うように首を傾げる少年に微笑み、わたくしは続ける。
「リオ様と初めてお会いしたとき、わたくしたちは互いに、相手が運命の相手であると直感致しました。瞬く間に婚約者同士になって、相手を想わない日などありませんでしたわ。けれどそれすら、たった数分で容易く反転してしまった。……分からなく、なってしまったのです。愛とは何なのか、何だったのか。あんなにも愛しかった相手が、今は憎くて堪らない。それが、恐ろしかったのです」
「だから……色々な人に、声をかけた?」
納得の色が浮かぶシリル様の声に、わたくしは苦笑交じりに頷いた。本当に、この方の賢さときたら。確かにジルには劣るけれど、それでも常人からしてみれば信じられないほど聡い方だ。
「幼い頃に感じた『運命』すら、恐ろしく思えたのですわ。だから、同じくらい愛しく思える相手を探そうとしたのです。そう思える相手が他にもいるのなら、運命を感じる相手がリオ様だけではないのなら、それは移り変わる感情のうちの一つでしかないでしょう」
「……だけど、いなかった?」
「ええ」
遠慮がちな少年の問いに、自嘲気味に微笑む。恋心、ならばたくさん抱いたけれど。愛情を抱いたのは、この身を捧げても良いと思えるほど愛したのは、リオ様だけだった。
「それに気付き始めた頃に……流石に愛想を尽かしたのでしょうね、父に呼び出されまして。わたくしも当時はまだ傷が癒えていませんでしたから、リオ様との喧嘩に劣らぬほどの大喧嘩を致しましたわ」
「で、怒った侯爵に追い出されたわけだ」
「ええ、そこから先は以前お話したことと変わりませんわ」
悪戯っぽい笑みを交わすと、シリル様は唐突に別な種類の笑みを浮かべた。
「それじゃマリルーシャは、ずっとリオネルのことが好きなんだね?」
「……はい」
否定はしない。しても無駄なのは、今までの会話からもよく分かっているから。
「ですが、リオ様は……リオネル様は、恐らくわたくしを許しはしないでしょうね」
「そうだろうね」
予想に反し、シリル様は首肯した。自分から放った言葉だというのに、ずきんと胸が痛む。しかし、彼はなおも言葉を紡いだ。
「リオネルはきっと、君はもうリオネルのことを愛してなんかいないんだって、そう思っている。だから、今のリオネルにはマリルーシャの声は届かない」
口を開きかけたわたくしを遮るように、シリル様は立ち上がり、扉に向かって歩いていく。扉に手をかけ、開いたところで彼はようやく振り返った。
「大丈夫。今は、って言っただろう? 君の声が届くように、背中を押すくらいは僕にも出来るから」
「し、シリル様?」
「あっ、明日はちゃんと部屋でゆっくりしているんだよ? おやすみ、マリルーシャ」
訊き返す暇――どころか答える暇すらも与えず、シリル様は部屋を出ていく。
呆然と扉を見つめながら、わたくしは少年の放った言葉を心の中で繰り返した。
こんばんは、高良です。
マリルーシャ回と見せかけてシリル君かい。ジルがうつったんじゃないかと疑うレベル。ある意味間違いじゃないかもしれないのが恐ろしいところ。相変わらずジル盲信ですが、それが今回はいい方向に働くことでしょう。
そのために何とかしなきゃいけない人が、もう一人いますよね。
そうそう、番外編のタイトル表記を少しだけ変更させて頂きました。話数があった方が分かりやすいと思うので。
では、また次回!




