第七話 始まりの終わりに祈るは
あれはいつだっただろうか、歌姫が僕に向けて、人間らしくなったと言ったことがあった。今でも彼女は時折、安堵した表情でそう繰り返す。そんな彼女に、それは本当に良いことなのかと問うことは出来なかった。
けれど、今ならはっきりと言える。彼らは心など得てはいけなかったのだ。停滞を望むのなら、愛など知るべきではなかった。そんな余計なものはすぐに切り捨ててしまっていれば、きっとこんなことにはならなかった……と、気付けなかった僕がそう悔いたところで、もう意味などないのだけれど。
崩壊は始まってしまった。僕が真実を知ったときに。あるいはそれより随分と前、騎士に反転の兆しが見えたときに。もしかしたら、歌姫が愛という感情を知った、そのときに。踏みとどまる機会は何度もあったのに、見過ごしたのは僕たちだ。たとえそこに神の悪意が介入していた結果だとしても、愚かにもそれを信じた。今更何を言ったところで、待ち受ける運命は変わりはしない。出来ることはただ、……未来を信じて、託すことだけ。
「皮肉なものだね。最後に愛を知った僕だけが、変化を望んだのだから」
深い藍色の表紙に、黄金で刻まれた文字。僕を象徴するその色彩をそっと撫でて手を離せば、支えを失った本は地面に落ちることなく、淡い金の光を纏ってふわりと浮かぶ。僕の領域に繋がるこの洞窟ならば入ってこられる人間は限られているだろうけれど、領域そのものではないから、全くいないというわけではない。だからこそ、目の前の本には細工をしてあった。
遠い未来、ここに辿り着いたのが僕の魂を受け継いだ人間であれば、ある魔法を使わせるように。あの神がいつまでも人間を守ってくれる保証などない。今は普通に使えているこの魔法も、いつ使えなくなるかも分からない。それでも、この魂を持って生まれたのであれば、全く使えなくなるということはないだろう。そう信じて、僕の知識の全てを『読める』ように。
僕以外の……例えばついさっき大まかな事情だけを説明して逃がした、僕の知識を受け継ぐ子供たちの魂では、その知識量に耐えられない。その場合は魔法は発動せず、本は単なる本として、彼らの前に現れるだろう。それでも、何が起きたのかは伝えられるはずだ。魔法で生み出されたそれは、どれだけの時が経とうと朽ちることも褪せることもなく、ただここで訪れる人間を待っている。僕の、……遺志と共に。
魔法が問題なく動いていることを確認して、本に背を向け、洞窟の出口へと向かう。洞窟を離れてしばらく歩いたところで、僕を待ち受けるかのように佇む赤い影に、思わず頬を緩めた。
「珍しいね、姫が出歩くなんて」
「そんな悠長なことを言っている場合じゃないでしょう、アルヴィース! 貴方、一体何を……あの子たちをここから出すなんて!」
「うん、ここにいては巻き込まれるかもしれないから。大丈夫、飛ばした先は何度も行って安全だと判断した場所だよ。あの子たちに対処できない獣の類は駆除してあるし、不慮の事態が起きても、彼らならどうにかできるだろう。それだけの知識は与えてあるからね」
僕の言葉に、彼女は戸惑うように黄金の目を瞬く。その傍に歩み寄って、「ごめんね」と囁いた。
「姫やリトと穏やかに過ごす日々は心地よくて、それを壊したくなかったから、姫の想いに気付いていながら何もしなかったのだけれど。……結局、全て壊してしまうのは、僕のようだから」
「ヴィー? 何を……」
「停滞した世界を、変えたかったんだ」
このままではいずれ、新しい知識など無くなってしまう。帰り子たちの話を聞くたびに、余計にそう感じていた。彼らの生まれ育った世界は変化し先に進んでいるのに、僕たちは停滞したままなのだから。全て知り尽くして、代わり映えの無い日々を淡々と過ごす未来など、受け入れられなかった。だから未知に手を伸ばして、……禁忌に手を伸ばして、知るべきではなかったはずのことまで知ってしまった。
「ねえ姫、永遠を与えると、神はそう仰ったね。けれど今の僕たちの魂は、本当にそれを受け止められるのかな」
「どういう、……貴方まさか、インウィディアの命令に逆らうつもり?」
「そんなことはどうだっていいんだ。ねえ、僕も姫も、もちろんリトも、もう数百年前の僕たちではないんだよ」
生み出されたばかりの、ただ自分の役目に従っていたまっさらな頃とは違う。愛を知り、心を得て、慣れ親しんだ世界が少しずつ色づいていく様を見守ってきた。
「僕ですらそうなのだから、君やリトは余計に影響を受けるはずなんだ」
「何が言いたいの?」
「僕たちが得た『心』は、永遠というものの重みに耐えられるようには出来ていない」
僕は知らなければ良かったのだ。愛も、心も得ずにいれば、永遠を拒もうなどとは思わなかったのに。心さえ無ければ、神の真実を知っても目を背けて、ただ淡々と神の道具でいられたはずなのに。
僕の言いたいことを察したのだろう、小さく目を見開く姫に、僅かに微笑んでみせる。
「たとえ姫やリトが隣にいるのだとしても……子供たちが廻り続けるのを、自分は変わることなく見守り続けるのは、もう耐えられないな。僕はずっと変わらない明日ではなくて、その先にある未来が見たいんだ」
「……賢者は、未知を追い求めるように作られたものね。でも、だったらインウィディアはどうしてあんなことを? 私たちをお作りになった神が、貴方の本質を知らないわけがないのに」
「姫、……違うんだ。インウィディアではないんだよ」
果たして彼女に伝えてもいいものかと、躊躇ったのはほんの一瞬だった。僕のいなくなった後の世界に、誰かが伝えなければならない。訝しげに目を瞬く彼女に、「違うんだ」と苦い顔で繰り返す。
「この世界を創造し、僕たちを生み出した神は、インウィディアではない。あの方は創られて間もなかったこの世界を、本来の創造神から奪った、言わば略奪者だ」
「なっ――どうしてそんな、はやく、リトにも伝えないと!」
長い時間を共に過ごした僕の言葉であるからか、歌姫は微塵もその真偽を疑わなかった。慌てたように駆けて行こうとする彼女の手を引いて、小さく首を振る。
「今の彼に、僕たちの言葉は届かないよ」
「そんなこと、話してみないと分からないでしょう!」
「分かるよ。騎士は、僕の半身だから」
「……どういう、こと?」
淡々と言葉を紡げば、姫は振り返って眉をひそめた。
「言葉の通りだよ。僕とリトは、互いに対となる存在として生み出された。……随分前に、リトの様子がおかしいように見えると、そう言っていたね」
「貴方はそれを肯定した上で、信じろと言ったわね」
「インウィディアが馬鹿げた提案をしなければ、彼はずっと耐え切っていられたと思うよ。……ああ、ではやはり、僕のせいなのかな」
だって神を裏切ろうとしているのは僕なのだから、と自嘲混じりに付け足す。
「天秤の片方の皿が沈めば、もう片方は浮かび上がるのと同じだよ。それほど強制力のある縛りではないけれど、どちらかが変化してしまえばもう片方も変質を免れない。だから、僕が心を得て人としてまともな考え方をするようになった代わりに、リトはふとした瞬間に狂気に苛まれるようになった。僕たちがそれを知ったのはほんの百年ほど前のことで、気付いたときにはもう手遅れだった」
「狂気って、……貴方の対ということは、『外』の獣がたまに突然暴れ出すような類の、荒っぽいものじゃないのよね? ずっと昔のヴィーのように、たまに思いやりに欠けた言動をするくらいの……些細な、ことなのよね?」
「よく覚えているね」
場違いだと分かりつつも思わず苦笑すれば、姫は「ほら、そういうところ」と嘆息した。それはもう性質云々でなくて僕の性格だと言い返したいところだけれど、昔の僕については姫の言葉も当たっているから、否定はせず曖昧に微笑む。
「僕にとっては当たり前のことだったから、苦でも何でもなかったのだけれど……リトは元々お人好しで情の深いところがあるから、気を抜くと心の奥底から冷たいものが湧き上がってくる状態は辛いのだろうね。姫や僕の前では、なおさら」
「どうにかできないの?」
「その繋がりは細く弱い糸のようなものだから、恐らく転生には耐えられないと思う。片方でも死んで生まれ変われば、それだけでどうにか出来るはずだ」
絶対と言い切ることは出来ないけれど、と付け足せば、姫は「それじゃあ」と目を見開いた。
「だから、あんなことを?」
「永遠を受け入れてしまえば、もうその機会は決して訪れないから。……リト自身に相談出来れば良かったのだけれど、必死で正気を保とうとしている今の彼に対して余計な考え事を増やすような真似をしても、リトの負担が増えるだけだ」
「神に逆らうなんて、ただでさえリトの正義に背くようなことだものね」
「そう。僕が死んだら、彼は元に戻れるはずだから――」
そうしたらリトに事情を説明して説得してほしい、と続けようとする。けれど僕の言葉を遮るように、聞き慣れた足音が響いた。顔を上げればちょうど話題に上っていた張本人が、その手に抜身の剣を携え、苦痛を堪えるような表情で僕たちを見据えている。リト、と姫が呟いたのが聞こえたのか、彼の背後に浮かぶ神が静かに嗤ったように見えた。
その歪んだ唇が、「殺せ」と言葉を紡ぐ。それはいつものように人ならざる荘厳な響きを孕んで、決して大声ではないのに、不思議と辺りに響いた。けれど、そこには普段ならないはずの冷たい……そしてどこか楽しむような色がある。同じことに気付いたのだろう、姫が小さく息を呑んで、不安げに僕とリトを見た。歌姫の視線を受けた彼は、そこから目を逸らすように僕を見る。
「インウィディアが、お前は……永遠を拒み神を裏切ったのだと、許されない罪を犯したのだと仰った。だから、殺せと。俺が説得すると庇っても、聞いてくださらなかった」
「……そう」
そうだろうと分かっていたから、ずっと信じてきた神にあっさり捨てられたのだと知っても、動揺はしなかった。静かに微笑んだ僕を見て、神が囁く。
「ほらご覧、リティエル。愚かな賢者は半身を裏切ってなお、ああして笑っていられる人でなしだ。お前が庇ってやる価値もない。さあ、早く殺してしまえ」
その言葉にリトは一瞬だけ躊躇うような表情を見せたものの、すぐにそれを押し殺すように歯を食いしばって、剣先を僕に向けた。
「やめなさい、リト! 話を――」
「いいんだ、姫。さっき話したでしょう。……とはいえ、大人しく殺されることも出来ないかな」
歌姫を庇うように前に出て、さてどうしようか、と目を細める。あまり長引かせたくはないし、姫に僕たちが争うところを長々と見せるのも良くない。けれどそれ以上に、姫やリトにまでインウィディアの疑いの目が向けられるようなことは避けなければならなかった。だから、僕はとことん裏切り者に徹するべきだ。……そう、どうせならリトが正気に戻ったとき、僕を殺したことで罪の意識に駆られることのないくらいに。
振り下ろされた剣から身を守るように、魔法で防壁を張る。普段の手合わせとは比べ物にならないその重さに、思わず小さく苦笑した。
こんばんは、高良です。
最初から最後まで原初の話、というのは初ですね。というわけで、今回は原初の終わりのお話。
ここから現在に至るまでの経緯は、次以降で関係者たちが徐々に語ってくれることでしょう。
では、また次回。




