第十一話 背負い続けた痛み
微妙にエグい描写あり、かもしれないです。
もう夜も遅いから自室に戻った方が良い、とジルが促せば、ニナはあっさりと部屋を出て行く。正直、ありがたかった。今のあたしは目の前の恐怖に抗うのに必死で、途中から話に集中出来なかったから。
部屋の入口でニナを見送り、ジルがゆっくりと振り返る。目が合った瞬間、あたしは弾かれたように椅子から立ち上がり、封筒を胸に抱いたまま床にしゃがみ込んだ。普段のあたしなら絶対に考えられない行動だろうけれど、そんなことを気にする余裕もない。ジルへの宣言通り、ニナの前では強がっていられたのが救いだった。
「リザ? 大丈夫?」
「……ジ、ル」
すぐに駆け寄ってきてあたしの傍に膝をついたジルを見上げ、どこか呆然と呟く。
「あたし、……どうすれば、いいの」
「どうしたいの?」
返ってきたのは静かな問いと、同じように落ち着き払った眼差しだった。あたしは肩を震わせ、視線を彷徨わせる。本音を言ってしまえば、こんなもの燃やしてしまいたかった。捨ててしまえばいいのに、手を離してしまえばいいのに、それすらどうしても出来ない。何も知りたくない。何も見たくない。怖い。向き合うのが怖い。ああでも、……でも、あたしは。
「……一緒に、背負ってくれるって」
「言ったね。傍にいるとも言った。大丈夫だよ、嘘は吐かない」
迷うことなく言い切る彼に、ほんの少しだけ微笑を向ける。少し前のジルがそう言ったとしたら、あたしはその言葉を信じはしなかっただろう。この封筒の中に入っている写真がどれだけ酷いものなのか、写真そのものを見たことはなくてもよく分かっている。人の痛みを理解してしまうジルは、それを見て何を思うだろうか。それでも、賭けてみたかったのだ。あたしを裏切るようなことはしたくない、という彼の言葉に。
床に膝をついたまま、糊付けされていた封筒を破るようにして開ける。裏返しの状態で出てきた写真を震える手でひっくり返せば、予想通り凄惨な光景が写っていた。あたしの背中に手を置いたまま、ジルが小さく息を呑む。
血の海、という言葉を連想せずにはいられない、夥しい紅。無事なところなんて一つとして見当たらない、破壊されたとしか言いようのない肉塊。言われなければ誰も、それが宝城柚希だったとは分からないだろう。両目が抉られている上、顔も体も血だらけで判別しようがない。手足は無造作に周りに投げ捨てられていて、その一つに至っては力任せに秘部に突っ込まれていた。……ああ、確かこの辺りまでは、生きてたっけ。
「……っ、ぁ」
「リザ」
無意識に自分の体を抱き締め、小さく首を振る。ジルが心配そうに覗きこんでくるのが分かったが、手を離れて床に滑り落ちた写真から目を離すことは出来なかった。切り刻まれた腹からは体を覆うように内臓が撒き散らされていて、けれどそれも血に紛れて、よく見なければ分からない。リザとして生まれてからずっと繰り返されてきた痛みは、簡単に蘇る。
不意に、頭の中に狂ったような笑い声が響いた。毎晩、夢の中で嫌というほど聞いている声。思わず耳を塞いでも、それはどんどん大きくなって、酷い姿だとあたしを嗤う。うるさい、黙れ、お前がやったくせに!
酷い姿だろう、とは分かっていた。けれど、こんなに酷いなんて思わなかった。
怖い。痛い。
息が、出来ない。
「リザ!」
遠のきかけていた意識を、そんな声が引き戻した。
「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するんだ。大丈夫だから」
ジルは優しくあたしの背を撫でながら、落ち着いた表情と声で言い聞かせてくる。……どうやら、過呼吸に陥っていたらしい。言われた通りに息を整え、あたしはゆっくりとジルを見上げた。苦しさからか、他の何かによるものなのか、じわりと浮かんだ涙が視界を滲ませる。
「ジル、……あたし」
彼は、何を、思ったのだろう。その穏やかな笑顔からは、何も読み取れなかった。それでも言わずにはいられなくて、震える声で呟く。
「あたし……アタシは、頑張った、のよ」
助けてと言いたかった。けれど、柚希を助けられる唯一の人は、もうあの世界にはいなかった。もうやめてと、許してと叫びたかった。けれど自分は許しを乞うべきことなど何もしていないと、こんなやつに頭を下げてたまるかと、必死で意地を張り続けた。強いアタシであろうとした。ずっと慎の傍にいた、ニナが憧れてくれた、宝城柚希でありたかった。
その結果が、これなのか。
「うん、知っているよ。柚希はずっと頑張っていた」
「……だったら、なんで」
あたしを想って発せられたのであろう優しい言葉ですら、弱った心には鋭く突き刺さった。八つ当たりだと分かっていても、彼を傷つけるかもしれないと知っていても、続く言葉は止められない。
「どうして、助けに来てくれなかったの?」
「っ」
視界が涙でぼやけていても、夜空の瞳が動揺に揺れたのははっきりと分かった。ああ、やはり、傷つけただろうか。でも、……でも。
「ああやって人の心の奥に入り込んだくせに、どうしてあたしを置いて、自分だけ独りで逝ったのよ! 慎がいてくれたらって、慎がいなくなったときに一緒に死ねたら良かったのにって、何度も――」
そこまで言ったところで、不意に強く抱き締められた。当然、言葉はそこで途切れてしまう。まるであたしを守るように、離したくないとばかりに腕に力を込めて、ジルは震える声で囁く。
「ごめん、リザ。守れなくて、傍にいてあげられなくて、ごめん。もうあんなことはしないよ、約束は守る。……だから、それ以上は言っちゃ駄目だ」
お願いだから、と付け足されてしまえば、もう何も言えなかった。黙って頷き、ジルに体重を預ければ、それまでどうにか堪えていた涙がぼろぼろと溢れ出す。嗚咽を漏らすあたしを宥めるように、優しい手がずっと背中を撫でていた。
◆◇◆
声が聞こえなくなったことに気付いて見下ろせば、少女は僕の腕の中で、小さく寝息を立てていた。泣き疲れて眠ったのか、と理解するのに時間はかからない。まるで子供のようだと小さく笑ったところで、『リザ』はまだ十三歳であることを思い出した。それでも、僕にとって彼女はずっと同い年の友人で、数少ない理解者だったのだ。
「……だけど、僕はどれだけの無理を、君に強いてきたんだろうね」
傍らに落ちた写真を取り上げ、見ないようにしてそっと封筒に戻す。これだけのことを平気でするような人間を相手に、かつての僕が何か出来たとも思えない。それでもリザの言った通り、どうして助けに行けなかったのだろうかと、後悔に似た何かが胸を過った。
前世の自分の愚かさを悔いはしても、リザが背負うものの重さに気付きはしない。結局のところ、愚かなのは一度死んでも変わらなくて、それが彼女を苦しめた。今だってそうだ、リザの想いを知っていながら、保身に走るばかり。本当の愛を返したいから、なんて綺麗事を並べたところで、奥底にあるのは自分にそれが出来るのかという不安と恐怖で、応えないのは怖いからだ。よく彼女が離れて行かないものだと自嘲し、涙に濡れたリザの顔を眺める。普段は強気な光を灯している深紫の瞳は今は閉じていて、そうしていると彼女は酷く儚げに見えた。
守りたいと思った。泣きそうな顔で震える彼女を離したくないと、離れたくないと、そう思った。僕の傍で笑っていてほしい。ずっと一緒にいたい。けれど誰にも抱いたことのないその感情を愛と呼ぶのか、僕にはまだ分からないのだ。
苦い思いを振り払うように首を振り、リザを抱いて立ち上がる。そういう体質なのだと彼女自身から聞いてはいても、それでも不安になってしまうほどに軽かった。リザを知らない人間がこれだけを見れば、誰もこの少女が内に秘めた、驚くほどの強さには気付かないだろう。
「それでも、君が強いばかりじゃなくて、少し安心したよ」
眠る彼女に、そっと囁きかける。リザが起きて聞いていたら怒られそうだけれど、それもまた偽らざる本音だった。もちろん、彼女にも弱い部分はあることは、前世からよく知っている。それでも、彼女が僕に無理をするなというように、僕だってリザにこれ以上無理をしてほしくはなかったのだ。
この部屋に寝台は一つしかない。普段は自分が使っているそれにリザを横たえると、僕はふと思いついて、彼女の額に魔法陣を描いた。古い言葉を落とすように呟けば、それは薄く光を放つ。
「おやすみ、リザ」
せめて今夜くらいは、君がよく眠れるように。
そう囁いて、僕は彼女の額にそっと口付けた。
◆◇◆
「ん……」
何となく違和感を覚えて、重い瞼を持ち上げる。眩しさに顔を顰めはしても、何故だろう、心は妙に軽かった。一拍遅れてその理由に気付き、跳ね起きる。
「っ!」
「ああ、目が覚めたんだね」
次の瞬間、柔らかな微笑を浮かべる藍髪の青年の姿が視界に入って、あたしは思わず硬直した。慌てて周りを見ればその景色は昨日の夜とまるで変わっていなくて、あのままジルの部屋で寝てしまったのだ、とすぐに気付く。机で読書していたらしいジルは本を置いて立ち上がると、あたしの傍に歩いてきた。
「おはよう、リザ。気分はどう?」
「……夢を、見なかったわ」
あんな話をしたのだから、きっといつも以上に悪夢に苦しめられるのだろうと、そう思っていたのに。前世のことどころか、何も見なかった。そんなのリザとして生まれてからは初めてのことで、だから違和感があったのだろう。どこか呆然としたまま呟いた言葉に、ジルは頷く。
「夢も見ないくらい深く眠れる魔法をかけたからね。効果が強すぎるからあまり頻繁に使うのは良くないんだけど、たまに使う分には大丈夫だと思って。ゆっくり休めたのなら良かった」
「あ……その、ごめんジル。寝てない、のよね」
一つしかない寝台をあたしが使っていたのだから、そういうことになるだろう。一晩中同じ部屋にいた事実に気付いて、気恥ずかしさに顔が熱くなる。野宿のときはすぐ傍で寝ているし、宿でも同じ部屋を取ることが多いのに、今更なのは分かっていた。それでも、これは何かが違う気がする。そんなあたしを見て考えていることを察したのか、彼は面白そうに微笑み、首を横に振った。
「気にしないで。元々あまり眠らなくても平気だし……君が僕にしてくれたことに比べたら、これくらい」
それにしても甘やかしすぎじゃないのか、とは思う。けれどそう言ったところで、ジルは同じ言葉を繰り返すのだろう。そう判断して、あたしは「そう」と頷いた。それは間違いではなかったようで、彼は心なしか満足気に笑みを強める。
「強い魔法だし、まだ少し眠いだろう? 今日一日は部屋で休んでいた方が良いと思う。治癒の塔に戻るのが面倒なら、この部屋を使っても良いし」
「なら、……あたし、ここにいても、良い?」
「分かった」
躊躇いがちに訊ねれば、ジルはあっさりと頷いた。その態度に、あたしは逆に面食らう。
「待っ、そんな簡単にっ」
「リザが言ったんでしょう」
「言ったけど――」
「塔の人たちや城の皆には僕から言っておくから、大丈夫だよ。……一人になるのが怖いなら、部屋自体こっちに移ってきても良いし」
言われた意味が分からず、思わず一瞬固まった。少し前のジルなら、絶対に言わなかっただろう言葉だ。少し遅れてその意味に気付くと、あたしは慌てて「でも」と反論する。
「そんなことしたら、変な噂が立つんじゃないの? 誤解を受けるのは良くないって、いつも……」
旅の途中ならともかく、この平和な城の中で同じ部屋で寝たりすれば、『そういう関係』なのだという噂はあっという間に広まってしまうだろう。ジルがそれを避けようとしているのは、嫌というほどよく分かっていた。昨日の夜、あまり遅くなるのは良くないとあたしやニナを諭したのも、そのせいなのだろう。あたしの言葉に、ジルは苦笑を返してくる。
「それは、そうなんだけどね。でも、僕も夜の間、色々と考えていたんだ。……今は、まだ君に何も応えられない。それでも、リザを愛したいと言ったのは、あの言葉は嘘でも何でもないんだ。いつかそういう関係になるのなら、噂が立ったとしても、それは誤解とは呼ばないんじゃないかって……どうしたの?」
視線に気付いたのだろう、彼は途中で言葉を切ると、訝しげに首を傾げた。そんなジルを見つめたまま、あたしはぽつりと呟く。
「驚いたわ。人って、変わるのね」
「……僕も、そう思うよ」
苦い顔で頷いたジルを見て、思わず吹き出した。そんな反応は予想していたのだろう、ジルは何も言わず、困ったように微笑んでいる。その彼を見上げ、あたしは笑顔のまま囁いた。
「でも、ありがと。ジル」
同情からの提案だったら、断っていただろう。あの写真を見て、あたしに同情してここにいて良いと言い出したのなら、きっとあたしは怒ったに違いない。そうじゃないのは、彼の顔を見れば分かった。
ジルは本心からあたしとの距離を縮めるつもりで……今までの自分に背いてでもあたしに歩み寄ろうとして、あんなことを言ったのだ。その事実が、何よりも嬉しかった。
こんばんは、高良です。
今回は第四部では語られなかった裏側のお話。リザがずっと一人で背負っていた痛み。彼女の弱さ、ジルはようやく、それを知りました。守りたい、離れたくないという想いの誕生は、彼女が求める愛へと繋がるのでしょうか。
作者としては正直もうお前らくっついちゃえよといいたい。
あ、試験という逃れられない苦行のため、次回更新は九月二十六日以降となります。
では、また次回。




