第十三話 失ったもの、取り戻したもの
少しだけ流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
再び飛び退ると、直前まで僕が立っていた場所の地面に勢いよく剣がぶつかり、音を立てる。憎々しげに僕を睨むハーロルト様に、僕は微笑んだ。
「最初から全力で来られては、僕も警戒してしまいます。そういうときはまず、相手の動きを封じることから始めなくては。それと、大きな音を立てるのはあまり良くないですね。人が来てしまっては、困るのはハーロルト様でしょう?」
「せ、先生!? 何を――」
目を見開いて叫ぶクレア様に笑みを向け、剣を持ちかえたハーロルト様に向き直る。手足を狙って小さく振られるその剣を避けながら、僕はなおも囁いた。
「ほら、そうやって予想出来る動きをしてしまってはいけませんよ。僕だって出来ることならば死ぬのは嫌ですから、読みやすい動きであれば避けてしまいます」
「先生っ! さっきから、どうしてそんな、そんなこと……ハル様も止めてよ、どうしちゃったの!?」
「うるさい」
駆け寄ってきて後ろからハーロルト様の腕を掴むクレア様を、彼は振り払った。その動作は丁寧ではあったけれど、クレア様は驚いた表情で尻餅をつく。
そんな彼女を見下ろして、ハーロルト様は微笑んだ。今までの状況にそぐわない、優しい顔で。
「ごめんクレア、怖いよな。でも、すぐ終わるから。ジルがいなければ、幸せに暮らせるから。あの夢の中みたいに。だから、怪我しないように大人しくしてろよな」
「嫌よ! ハル様の夢の中なんて私は知らないもの! 先生に何かあったら、絶対に許さないんだから!」
叫ぶクレア様だが、ハーロルト様は最早彼女など見ていない。ただ、色の無い瞳で、真っ直ぐに僕を睨んでいる。
さっきまでとは違う、僅かに複雑になった動きで僕を斬りつけてくる刃。それを避けながら、いつ動きを止めようかと迷った。
だって、未練など無い。ハーロルト様が……真澄がクレア様の傍にいてくれるというのなら、僕にはもう未練など無いのだから。
ただ、二人が幸せでいてくれるのなら、それで――
「っ」
いつの間に持ち替えたのか、気付けばハーロルト様の手に握られているものがいつの間にか小さなナイフになっていた。いや、違う。片手にはまだ剣が握られている。もう片方の手でナイフを取り出した、というのが正しいのだろう。
こちらを殺す気で向かってきている彼に対し、ただ避けるだけでは限界がある。気付けば、そんな暇さえない速度で、逆手に持たれたナイフが突き出されていた。
それは真っ直ぐに、僕の目の前に迫る。そして、
「っ……あああああああああ!」
「先生っ!?」
右目に感じた激痛に、僕は思わず後ずさり、その場に蹲った。深くは刺さっていなかったのか、彼が手放した血まみれのナイフが地に落ちる。
耳に届いた気がしたクレア様の叫び声に、反応する余裕すらない。全ての意識が右目に集中しているような感覚。痛い、熱い。抑えた右手の指の間からは、止まること無く血が溢れ出て、すぐ下の土に溜まっていくのが分かった。
「っぐ、……ぁ」
止まることを知らない痛みに、口から漏れかける絶叫を必死で抑え込む。心配そうに目を見開いて、けれど怯えるように体を硬くして僕を見ている銀髪の少女に、これ以上心配をかけないように。
ふと思い出すのは、かつて濁流に吸い込まれながら彼女に微笑んだこと。それが逆効果であると、知ってはいたけれど。
そんなことを考えているうち、不意に無事な左目の、僅かに霞んだ視界に影が差す。息も絶え絶えに見上げると、金髪の少年王子が無表情で僕を見下ろしていた。……否。その瞳の奥に燃えるのは、確かに強い憎悪の炎。その証拠に、彼の手に握られた剣は、僕の喉元に突きつけられているのだから。
無言で振り上げられる剣を視線だけで追い、僕は激痛の中、僅かに笑みを漏らす。
「……それで、君の気が済むのなら」
それで君たちが――ハーロルト様とクレア様が、真澄と咲月が幸せになれるのなら、僕は受け入れよう。この世界に僕たちが再び生まれてからの十数年、彼女の想いを君から奪ってしまっていたことへの、これが償いになるのなら。抵抗などしない、避けたりなんかしないから。
けれど振り下ろされた剣は、僕の目の前、数センチもないところで止まった。見れば彼はこれ以上ないほど大きく目を見開いて、僕を見つめている。
「………………慎?」
その口から漏れる言葉に、僕は悟った。彼が、全て取り戻してしまったことを。
落ち着かせようと口を開くが、最早言葉を発する力すら無く……血を失い、痛みと戦い続けた体は、糸が切れたようにその場に倒れ込む。
暗闇に落ちていく意識の中。
彼の手から滑り落ちた剣が、地面にぶつかって音を立てた。
◆◇◆
賢者を殺せばどうなるか、なんて分かっていた。
クレアとの婚約どころか、アネモスとグラキエスの関係すら危うくなる。当然俺はもうアネモスに滞在することは許されないだろうし、王子だろうと罪人として裁かれる可能性だって低くない。例え国に帰ったところで、風の国の賢者を手にかけたとなればもう俺の味方をする人間はいなくなるだろう。それほどまでに、ジルベルト=フラル=トゥルヌミールはこの世界にとって大事な存在なのである。
それくらい分かっていたし、彼の人柄の良さだって十分すぎるほど知っていた。ジルだってクレアのことが好きなはずなのに、彼はひたすら俺とクレアのことを応援してくれていた。城の中で出会うたびに、話す度に、それは実感出来ていた。
けど、これ以上耐えることなど出来なかった。クレアが見ているのは俺ではなく彼であるという、その事実に。
彼さえいなくなれば、クレアは俺を見てくれるのだから。
だから、消してしまうことにしたのだ。クレアがそれを分かるように、彼女の目の前で。ただ、俺だけを見てほしくて。
夢の中で俺が愛した、俺を愛してくれた、サツキという少女のように。
「どうして!? どうして反撃しないの先生、ハル様よりずっとずっと強いはずなのに!」
必死でジルを斬りつけていると、不意にそんな声が聴こえる。ジルはどうやら避けるのに集中していて聴こえなかったようだが、その言葉に少しイラッとした。
やっぱり、彼女は俺を見ていない。ジルしか見ていない。だから、無理やりにでも俺の方を見てもらわないといけない。
けど、やはり俺にとっても、ジルの態度は不可解だった。
――反撃、どころか。避ける動作にすら、そこまで力は入れていないようなのだ。現にさっきから少しずつ、剣が掠り始めている。そこまで深い傷はまだ負っていないみたいだが、それでも。賢者、というと誤解されがちだが、ジルは戦闘能力もかなり高いと聴く。クレアの言葉を認めるのは癪だったが、確かにそんな彼が、俺に負けるわけがないのだ。それなのに、何故。
これじゃまるで、俺に殺されたがっているみたいだ。
俺は思わず、ギリ、と歯を噛み締める。
「……そっちが、その気なら」
お望み通り、殺してやろうじゃないか。ジルに気づかれないよう、空いている手でナイフを取り出す。それを逆手に握り、俺は心ここに非ずといった様子で俺の剣を避けていたジルに向かって駆けた。そうして彼の目をめがけて、半ば投げるように持っていたナイフを突き出す。
「っ……あああああああああ!」
「先生っ!?」
瞬く間に血が溢れだす右目を抑え、彼は後ずさる。クレアが叫んだが、彼女がジルに近づく様子が無いのは分かっていた。仮にも一国の王女なのだ、命のやり取りなど見たことがあるはずがない。始めて見る場面に怯えて足が竦むのを責める人間はいないだろう。
そう、おかげで彼女に危険が及ぶ心配をしなくて済むのだから。
大きく肩を上下させ、必死に痛みに耐えている様子のジルに、俺はゆっくりと近づく。後はこの剣を彼に突き立てれば、それで終わる。俺からクレアを奪いかねない相手を、クレアの前から消し去れるのだ。
俺に気づき、顔を上げるジル。構わず、俺は剣を振り上げる。
それを目で追って、あろうことか彼は僅かに微笑んだ。
「……それで、君の気が済むのなら」
「っ」
息が止まる。
構わない、と――俺に殺されることを黙って受け入れると語る、夜空の瞳。
脳裏によぎるのは、一人の少年の最期。微笑みながら濁流に呑みこまれた、無二の親友の顔。それが、目の前の笑顔に重なった。
ジルの数センチ前で、剣を止める。震える手を必死に抑えつけて、俺はこれ以上ないほど目を見開いて彼を見つめた。
箍が外れたように、溢れ出る記憶。サツキ――咲月と過ごした日々の中、ずっと隣で俺たちを助けてくれた少年の存在。
ああ、どうして忘れていたのか。
「………………慎?」
そんな俺の言葉に、彼は一瞬表情を歪ませ、口を開きかける、しかし次の瞬間、糸が切れたように崩れ落ちた。
それを見て、俺は現実に引き戻される。思わず力を抜いてしまった手から零れ落ちた剣は、血で赤く染まっていた。誰の? 決まっている、目の前で意識を失っている彼のものに他ならない。
「あ……」
その赤い色が、嘲るように俺を見る。顔など無いはずの血だまりが、俺に向かってニヤニヤと笑う。
……自分がしてしまったことに、ようやく気付いた。俺が傷つけた相手は、殺そうとした相手は。目の前で弱っていく彼は、一体誰だったのか。
「俺は……慎、を」
親友を、手にかけるところだったのだと。気付いてしまった。
バタバタと、たくさんの足音。異変に気付いた城の兵士たちが駆け寄ってきたのは、その直後のことだった。
こんばんは、高良です。
今回はあまり語らないでおきましょう。とりあえず書いてて凄く楽しかったですジル苛め(待て
彼らを想うがゆえに逆らわない、というジルの行動は、結果的に前世のことを思いだしたハルを苦しめることになってしまったようですが……
では、また次回。




