第十二話 壊れた歯車
それを見てしまったのは、俺がこの国に来て三ヶ月と半分が過ぎた時のこと……冬の一の月の半ばのことだった。今日は勉強があるから、と言われたのでクレアとは珍しく別行動。その間にアネモス王城の中をうろつき、昼食の時間が近くなったところでクレアがいる第二書庫の方へと向かう。クレアと一緒にいられないときの日課。
廊下を曲がったところで、書庫の前に人影があるのに気付いた。
「クレア……と、ジル?」
あまり見たくない組み合わせに、俺は思わず眉を顰める。
シリルのことが信じられないわけじゃないが、それでもジルが本当にクレアを諦めているのかどうかなんて分からない。ましてやクレアに至っては、俺のことなど好きでも何でもないと断言しているのだ。
ここからでは、二人が何を話しているのかは分からない。微かに声は届いてくるが、それでも内容までは聞き取れないのだ。ジルはこっちに背を向けているので、どんな表情を浮かべているのかも分からない。
ただ、クレアの楽しそうな笑顔だけが、視界に映った。
俺と一緒にいるときには一度も見せたことのない、心底幸せそうな笑顔。
「…………何、で」
ぎり、と歯を食いしばる。
物心ついたときから、ずっと見ていた夢。夢の中の俺の隣で、笑っていた一人の少女。周りの人間はみんなぼやけて見えて、交わした会話すら何も覚えていないけど、それでも少女との記憶だけははっきりと思い出せた。夢の中の自分は彼女のことが好きなんだな、とすぐに分かった。俺にとっても、彼女は初恋の相手だった。そして同時に、彼女が同じ世界にいると、心のどこかで感じていたのだ。
必死に探して、ようやく見つけたのがクレアだった。名前も顔もまるで違う少女に、初めて運命と言うものを感じた。
それなのに彼女は何も知らず、俺じゃない人間を愛していた。
……耐えようと、思っていたのに。クレアが俺を好きになってくれるそのときまで、我慢していようと思っていたのに。
「ジルベルト=フラル=トゥルヌミール――」
公爵家の次男。風の国の賢者。クレアの想い人。
だけど、心の中に渦巻き始めたどす黒い感情は、もう抑えきれなかった。
「――邪魔するなら、お前なんか」
必要ない。
◆◇◆
その頃の俺たちは、どちらかがそのまま「絶交!」と叫んでもおかしくないような、危うい関係だった。彼女との仲を相談すると、親友は決まって呆れ混じりに嘆息した。
この日も、また。
「……君、本当に咲月のこと好きなんだよね?」
「おぅ、大好きに決まってんだろ。多分」
「多分。って」
再び息を漏らす慎に、俺は慌てて付け加える。
「いや、好きだって! ただ、最近分かんなくなってきてさ。俺、本当に咲月のこと好きなのかなぁ」
「僕に訊かれても」
君の方がよく知っているだろ、と肩を竦める親友。
「好きなんだけど、あいつが喧嘩売ってくるから!」
「買う方が悪い。それに、それは君だって同じだろ?」
「うっ……」
反論出来ず、俺は言葉を詰まらせる。
「で、でも、仕方ないだろ! そんなつもり無くても、気付いたら悪口言っちまうんだって!」
「好きな子には意地悪したくなる、っていうあれかな。子供みたいだね」
「何か今日いつも以上に容赦ないな、お前……」
呆れ顔で淡々と言う慎に、俺は思わず溜め息を吐いた。普段ならもうちょっとオブラートに包むくせに、こいつ……
「せっかく高校にも受かったんだから、そのノリで告白でも何でもしちゃえば良かったのに。高校でも同じことを繰り返すつもり?」
「そ、それは……だって、咲月が俺と同じとは限らないだろ」
恋人同士という関係になれば、少しは喧嘩も少なくなるのだろうか。何度もそう考えた。けど、咲月が同じことを想っているとは限らない。たまに冗談っぽくそういうことを言ってくることはあるが、あいつのことだ。からかってるだけ、ってのも十分にあり得る。あの性悪め。
「……鈍いなぁ」
「へ? 何か言ったか、慎」
「何も。でも、こうして卒業式の前日だっていうのに夜遅くに押しかけてきたってことは、告白するかどうか迷っているってところだろ」
「何でそうなるんだよ!」
「何でって……何でしないの」
「今説明しましたああああああ!」
半分切れながら叫ぶと、慎はここにきてようやく面白そうに笑った。……というかこいつ、爆笑してやがる! 大口を開けて笑うとか大声で笑うとかを滅多にしない奴だから分かりにくいけど、超笑ってるぞこいつ! 相変わらず笑いのツボが分かんねえ!
「笑い事じゃねえ!」
「くっ、あはは、ごめんごめん。だって、真澄が……」
「何も面白いこと言ってねーだろ!」
肩を小刻みに震わせる慎を怒鳴ると、親友はようやく落ち着いて俺の方を見た。……まだ笑顔はそのままだが、無視。
「しないつもりなの? 告白」
「……断られたら、気まずくね。高校一緒だし、家は隣同士だし」
隣り合う俺と咲月の家、そしてその向かいにある慎の家。何の苦行か、俺の部屋は位置的に咲月の部屋の隣なのだ。一応こっちは年頃の男子なわけで、都合が悪いことこの上ない。
しかし俺の言葉に、慎は再び呆れ顔を浮かべた。
「でもこのままでいるのは嫌なんだろ? 断られるのが怖くて告白なんて出来ないよ」
「毎週断りまくってる奴に言われてもなぁ……」
毎週、どころか最近は二日に一回くらいのペースである。咲月曰く、みんな卒業が近いから玉砕覚悟で告白しているらしい。結果はご覧の通り、全員見事に玉砕。自分が選び放題だからって余裕すぎだろ。っつーか酷ぇ。
「あれは……不可抗力だって」
「黙れイケメン」
睨むと慎は居心地悪そうにこほんと咳払いし、話を逸らす。
「そんなことより、今は君のことだよ。本当に好きならそのことを伝えないと、誰かに取られても知らないよ」
「……誰も取らないだろ、咲月なんか」
「ほら、それがいけないんだ。そうやって憎まれ口叩いちゃうからいつも喧嘩になるんだろ? もうちょっと学習しなさい」
「んなこと言われたってよぉ……」
どうしろと。
悩む俺を見て、慎は何かを思いついたようににっこりと笑った。
「じゃ、明日告白しなさい。卒業式が終わったらすぐに。はい決定」
「……は!?」
親友の爆弾発言に、俺は目を白黒させる。いや、だって、え? 俺が? 咲月に? 明日? 急すぎんだろ!?
「あのさぁ慎、もうちょっと順序とか心の準備ってものが」
「両方とも十五年あったんだからとっくに大丈夫だろ。それより君たちが早くくっついてもらわないとこっちが困るんだ。愚痴を聴かされる方の身にもなってよ」
「……それは否定しようが無いけどさぁ」
何しろこの親友、話を聴くのがやたら上手いのだ。そして相談に乗るのも上手い。流石というべきか、やたら他人のトラブルに首を突っ込んでは解決しているせいでそういうことは得意らしい。だからよく咲月との仲を相談してしまうわけで。
「とにかく、明日は何が何でも告白すること。いいね?」
「よくな――」
「よくなくてもすること。当たって砕ける」
「砕けちゃ駄目だろ!?」
思わず叫ぶが、慎はお構いなし。それどころか、この話は終わりと言わんばかりに机に向かってしまう。
まぁ、慎の言葉が間違っていたことなんてないし、俺だってこのままなのは嫌だし、頑張ってみるか。そう決めて、俺もまたそれ以上食い下がりはしなかった。
俺と咲月の想いが通じ合う、直前の夜の話。
◆◇◆
「あの、先生? ごめんなさい、ちょっといいですか?」
銀髪の王女が部屋を訪ねてきたのは、窓の外の青空に僅かに橙が差しはじめた、夕方との境目の時間だった。
「どうなさいましたか、クレア様?」
「……ハル様が、先生を呼んでほしいって」
不満そうに告げられた言葉に、僕は思わず眉を顰める。
「ハーロルト様が? 一体どうしたのですか?」
「さぁ……ここじゃ話せないことだから、城の外まで連れてきて欲しいって、頼まれたんです。第八書庫の近くなんですけど」
「あそこですか」
彼女の言った場所を思い出し、僕は心に浮かんだ疑問を覆い隠して頷く。
第八書庫の外は、この城でも特に人が少ない場所の一つだ。僕はたまに本を取りに行くが、その近くで人と出会ったことなど片手の指で数えるほど。そんなところでしか話せない用事? 僕とは殆ど接点の無い彼が?
いや、『加波慎』と『倉橋真澄』としてなら数え切れないほど接点があるけれど、それは向こうが覚えていないのでありえない。ならば何故?
「……では、とにかく行きましょうか。お待たせするわけにもいきませんし」
僕はそう言って歩き出そうとするが、振り返ってみても少女は動こうとしない。
「クレア様?」
「嫌な予感がするんです、先生」
「嫌な予感、ですか」
訊き返すと、彼女は首肯。
「最近のハル様、どこかおかしいんです。わたしに対しては普通に振る舞おうとしてるみたいなんですけど、笑顔はぎこちないし、わたしがいないときはずっと怖い顔してるし。何かあったんじゃないかな、ってずっと思ってたんですけど……今日は特におかしくて、わたしに対しても笑わなくて。さっきだってちょっと怖かったし」
どこかふてくされるように言った彼女に、僕は思わず苦笑する。
「とにかく行きましょうか、クレア様。行ってみなければ何も分かりませんよ」
「はぁい」
渋々、といった様子で頷き、彼女は僕についてこいとでも言うように歩きはじめる。もちろん、彼女と同じように僕にとってもこの城は自分の家。特に書庫の場所は熟知しているけれど、黙ってクレア様を追いかけながら考え事をする。
怖い顔。真澄、ではなく『ハーロルト様』がそんな顔をする心当たりは、一つだけあった。間違えようも無い、目の前を歩くこの少女のこと。
ハーロルト様は、クレア様に一目惚れして……彼女に夢の中の『咲月』の面影を見て求婚してきたのだという。ならばそのクレア様が僕に想いを寄せていると知ったとき、どうするのか。
その答えは、すぐ後に知ることが出来た。
「ハル様、連れてきたよ?」
誰もいない城の外。一応『庭』という括りではあるが、人目に触れる中庭や他の場所ほど手が込んでいるわけでもない、少し殺風景にも思える場所。そこに一人立っていたハーロルト様は、クレア様の言葉にゆっくりと振り返った。
「何かご用でしょうか、ハーロルト様?」
「……ああ。用と言えば、用ですね」
僕の問いに対する答えはどこまでも乾いていて、その冷たさに僕は息を呑む。どこか正気を失っているような光の無い目が、僕を捕らえた。
「ジル――」
「っ!」
不意に走った悪寒に、思わず飛び退る。が、それと同時、腕に熱い痛みを感じた。
避けきれなかったのだ、とすぐに分かる。ハル様の方に視線を向けると、彼の手には一振りの小剣が握られていた。僅かに滴る血は、間違いなく僕のものだろう。
「先生っ!」
絶叫に近い王女の声に、答える暇すらなく。
かつて親友だった少年は、再び僕に向けて剣を振り上げた。
こんばんは、高良です。
ついに切れてしまった、ハルの中の何か。前世……「真澄」だった頃ならば、彼はジル=慎を傷つけることなど絶対に考えなかったでしょう。ですが、彼にとってジルは「他人」です。他人だから、何でも出来てしまったのです。何よりもクレアを優先するために。
さて、そんな少年王子に、ジルがとった行動とは……
では、また次回。




