第二十九話 懐かしい場所で
お母さんより少し遅れて飛び出してきたお父さんを見ると、また涙が出てきた。ようやく落ち着いてきたところで、シリルがタイミングよく肩を叩いてくる。大泣きした顔を見られるのが何となく恥ずかしくて俯いたままでいると、背後で彼が苦笑したのが分かった。
「とりあえず場所を変えよう、ニナ。ここじゃ人目につくだろう?」
「あ……そう、だね。今までどこにいたとか、何してたとか、そういう話は家の中でしよっか」
いい? と訊ねる意味を込めて視線を向けると、お母さんはにこりと微笑んで頷く。けれどお父さんの方は、僅かに険しい顔で私を見た。
「その前に一つ良いかな、ニナ」
「何?」
「……その男の子は、誰だい?」
とても形容できない表情と共に投げかけられた問いに、私は首を傾げる。父の視線を追うと、その先でシリルが硬直しているのが見えた。そんな私たちに対し、お父さんは僅かに嘆息する。
「お父さんもお母さんもニナを信じているし、ニナが選んだ相手なら文句は言わないが……四カ月も行方をくらまして、見知らぬ少年と共に戻ってきたとなると」
「へ? ……あ、ちがっ、いや、シリルは、その!」
違う、と言おうとしたが、厳密には違わないことを思い出して踏み止まる。そうだ、さっきシリルに告白されて、私はそれに頷いたのだから、お父さんの言っていることはある意味正しい。正しいけど、でもこの場合は思いっきり履き違えていると言ってもいいだろう。どうしようかと二人を交互に見ていると、不意にシリルがふっと笑みを零した。そのまま、彼は例の『王子様』の笑顔で、優雅に一礼する。
「挨拶が遅れて申し訳ありません。ニナのご両親でいらっしゃいますね? シリル=ネスタ・ラサ=アネモスと申します。ニナとの関係は、……それについても、中でお話しさせて頂いてもよろしいですか? 少々、複雑な事情がありまして」
「……複雑な事情、か」
「お二人を裏切るようなことはしていません」
シリルの微笑に押し負けたのか、お父さんは頷いて玄関を開ける。私はというと、少しだけ驚いてシリルを見つめていた。
私から少し話を聞いていたとは言え、シリルにとってここは見知らぬ世界で、アネモスで育った彼が見たことが無いものもたくさんあるはずなのだ。実際、歩いているときは興味深そうに辺りを窺っていたのも分かっている。それなのに、どうしてここまで堂々として、落ち着いていられるのか。ついでに、さっきのお父さんの発言に対して少しも動揺していないのが恨めしい。私だけ慌てたのが馬鹿みたいじゃないか。
玄関で靴を脱ぐ動作も懐かしくて、またじわりと涙が滲む。そういえば何も説明していなかったっけ、とシリルの方を振り向いたものの、両親や私の動作を見てそういうものなのだと分かったらしい。……ちなみに、カタリナは両親が現れる直前に姿を消していた。相変わらず逃げ足だけは素早いんだから、と嘆息する。紹介するタイミングを見失ったじゃないか。後で説明するときに無理やり呼び出すしかないかなぁ。
食卓の上には食べかけの夕飯が置かれていて、両親が本当に慌てて外に出てきたのが窺える。また泣きそうになったところで、お母さんがくるりと振り向いた。
「二人とも、お腹は空いてない? まずは夕飯にしましょう」
「良いの?」
確かにお腹は空いている。けれど両親だって、早く話を聞きたいはずなのに。そう思って首を傾げると、お父さんが笑顔で頷く。
「父さんも母さんも、急かす気はないよ。シリル君だったかな、君もそれで良いかい?」
「はい、もちろん。……すみません、ご迷惑をおかけして」
不自然なほど綺麗な微笑を浮かべ、シリルが頷く。最初の頃は私に対してもこうだったんだよなぁ、と思うといっそ不気味にすら思えてきた。「でも」と反論しようとすると、父は私を見て苦笑交じりに嘆息する。
「ニナは真面目すぎだな。まったく、誰に似たんだか」
……両親も同じことを思っているだろうとはいえ、お兄ちゃんじゃないかなぁ、とは流石に言えなかった。
◆◇◆
食事を終え、ニナが今までのことを説明するのを隣で見守る。たまに向こうの世界について捕捉したりしつつ説明を終えると、彼女の両親は殆ど同時に、信じられないと言いたげに息を吐いた。
「異世界の神子、か……それはまた」
「御伽噺みたいな話ねぇ」
「私もすぐに信じてもらえるとは思ってないけど、でも本当なんだよ! 私が神子なのも、シリルが王子様なのも」
「疑っているわけじゃない。ニナが嘘を吐かないのは、父さんと母さんが一番よく知っているよ。……怪我をしたと言ったな、大丈夫なのかい?」
優しげな微笑から一転し、彼は険しい表情でニナを見る。先生とリザさんのことについては、どちらからともなく伏せて話すようにしていた。彼らの前世に関する騒動は何度かニナに話していたから、そのせいだろう。彼女の察しの良さには助けられてばかりだ。
「うん、向こうには魔法があるから。目を覚ましたときには全部治ってたよ。……そうだ、それで思い出した。魔法なんて口だけで言っても、やっぱり信じられないよね?」
「あら、ニナが魔法を使ってくれるの?」
どこか楽しそうな彼女の母に対し、ニナは苦笑を浮かべて首を振った。そういえばいつの間にか消えていたな、と彼女を護る精霊のことを思いだし、僕もまた同じような表情を浮かべる。確かに、信じてもらうには魔法を使ってみせるのが一番。けれどニナはまだ魔法を使えず、僕も効果が目に見えて分かるようなものはほとんど使えないのだから、選択肢はもう一つしかないだろう。
「私じゃないよ。――カタリナ」
「はいはい、そろそろ呼ばれると思いましたわ」
ふっ、といつものように突然現れた精霊に対し、ニナの両親は驚いたように体を強張らせる。それはそうだろう、何もないところから人が現れて、しかもふよふよと宙に浮かんでいるのだ。驚かないわけがない。ついでに言うと、浮かんでいる人間がいかにも悪役じみた妖艶な笑みを携えているのだからなおさらだ。心中お察しします、と心の中で呟いていると、じろりと睨まれた。
「何を考えているのかは大体分かりますけれど、顔には出さない方がよろしいですわよ? ……さて、話は大体聴いていましたわ。初めましてお二方、カタリナと申します。ニナの護衛を務めている、ただの精霊ですわ」
「精霊……人間ではない、ということかな?」
「ええ、今は。それで、魔法でしたわね? ニナ。これでどうかしら」
小さく古語を唱え、彼女が宙に魔法陣を描く。その指先に、ぽうと光が灯った。それも一つではなく、次々と溢れ出る色とりどりの光はそのまま彼女の手を離れて宙を彷徨い、何かに当たると泡のように弾けて消える。数秒したところでカタリナさんが手を払うと、残っていた光もまた一斉に姿を消した。驚愕を隠そうともしないニナの両親に向け、彼女は妖艶に微笑む。
「炎でも出した方が分かりやすかったのですけれど、流石に屋内でそんな危険なことは出来ませんものね? 信じていただけたようですし、私は引っ込んでも構いませんわね、ニナ」
「もうちょっと話に参加してほしいんだけど……まぁいいや、ありがとう」
ニナの苦笑に対して肩を竦め、カタリナさんは現れたときと同じようにふっと姿を消した。一瞬遅れて、ニナの母が目を見開いたまま頬に手を当てる。
「あらあら……本当に、魔法みたいねぇ」
「魔法みたいじゃなくて、魔法なんだろうな……」
嘆息し、ニナの父が僕とニナの方を見た。実際に魔法をその目で見たせいだろう、その顔から疑いの色は消えている。けれど、険しさはそのままだった。
「とても信じられない話だが、どうやら本当らしいな。ニナはこの四カ月、異世界で暮らしていたが、何らかの事情があって君と二人――いや、さっきの子もか。三人でこちらに戻ってきてしまったと」
「うん」
ニナが頷くと、彼は再び嘆息する。その視線が僕の方に向けられ、僕は思わず背筋を伸ばした。それが分かったのだろう、彼は僅かに表情を和らげ、けれどそれでも真剣な顔で問いかけてくる。
「率直に訊こう、シリル君。君は、これからどうするつもりだ?」
「向こうに帰る方法を探そうと思います。ニナが行って帰ってこられたということは、世界を渡る手段はあるはずですから」
これでもいずれ一国を継ぐ身なのだ、父を裏切ることなど出来ない。……そうだ、裏切ってはいけないのだ。自分に言い聞かせながら答えると、彼は首肯した。
「そうか。なら、こっちにいる間はうちに泊まりなさい。ニナが世話になったようだし、そのお礼だ」
「それは、……いえ、そうですね。そうさせて頂きます」
そこまで世話になるわけにはいかない、と断ろうとしたものの、しばらくこの世界で過ごさなければいけないことに変わりはない。こちらの知識なんてニナから聞いた断片的な物しかないのだ、僕一人では何も出来そうになかった。渋々頷くと、話を聞いていたニナの母親が顔を輝かせる。
「あらあら、じゃあ部屋を用意しないと! 客間は荷物が多くてすぐには使えないのよね、慎の部屋でも大丈夫かしら? ちょっと片付けてくるわね」
口を挟む暇もなく、立ち上がって出て行く彼女を見て、ニナが苦笑した。
「楽しそうだね、お母さん」
「ニナが無事に戻ってきたから、安心したんだろうね。そうだ、捜索願も取り下げてもらわないといけないな。だが、今の話を警察にしたところで、信じてもらえないか……あまり大勢に話したい話でもないだろう?」
「来実さんは? ちょっと話したいこともあるし、家に呼べないかな」
「冬哉君か……ニナがいなくなった時には、凄く頑張ってくれたな。忙しそうだったからすぐには難しいかもしれないが、呼べば来てくれるだろう。少し電話してくるか」
よく分からない単語を呟き、彼もまた立ち上がって出て行く。問いかけるようにニナを見ると、彼女は苦笑交じりに僕を振り返った。
「ごめんねシリル、全然分からなかったよね」
「いや、それはいいんだけど……良い御両親だね」
僕の言葉に、ニナは嬉しそうに微笑む。彼女があれだけ帰りたがっていた理由が、何となく分かった気がした。もちろんそれだけではないのだろうけれど、彼らに心配をかけたくないというのが一番だったのだろう。
「でしょ? すっごく年離れてるんだけどね、多分年齢聞いたらびっくりするよ。あ、聴いてて分かったかもしれないけど、シリルは昔お兄ちゃんが使ってた部屋に泊まることになりそう」
「そうみたいだね。……先生とリザさんのことは、話さないでおこう」
「うん、私もその方が良いと思う。で、さっきお父さんも言ってたけど、これからどうする?」
彼女の問いに、僕は僅かに俯く。帰る方法を探す、と言っても、当ては全くないのだ。神子の存在が知られていて、書物もそれなりに残っている向こうの世界ですら、世界を渡る方法だけはいくら調べても出てこなかったのだから。神子どころか魔法すら知られていないこの世界で、一体何を、どうやって探そうというのか。
「とりあえず、君がアネモスに降りる前にいたところと、さっき僕たちが目覚めたところかな。そこに行ってみるくらいしか思いつかないよ」
「ってことは、やっぱり町中歩き回ったりするよね? あー、そしたら私変装した方がいいかなぁ。友達に見つかるとまずいもんなぁ。シリルもその髪だと目立つし、帽子とか被った方が良いかもね」
「……手伝ってくれるの?」
そうとしか聞こえなくて、思わず目を見開く。ニナはきょとんとした顔で僕を見つめた後、不満そうに睨んできた。
「当たり前でしょ? シリルだって手伝ってくれたじゃない。逆の立場になっちゃったわけだし、手伝えることは手伝うよ。だから、早く帰らなきゃとか変に焦ることはないんだからね?」
「うん、ありがとう」
まるで僕の心を読んでいるかのような言葉に、僕は微笑を返す。逆の立場、と言われて考えてみれば確かにその通りで、少しだけ新鮮だった。
ニナの言う通り、変に焦りすぎてもいいことはないだろう。頭では分かっていても、色々な感情が複雑に絡み合って、心の奥底で渦巻くのは止められなかった。
こんばんは、高良です。
両親に事情を説明する二人。その順応性の高さは流石慎とニナの両親、というべきでしょうか。
そうして一息ついた彼らですが……
では、また次回。




