第二十四話 何が彼女を動かしたのか
「ニナ!」
目を開くと同時に、聞こえたのはシリルの心配そうな声だった。顔を見るまでもない。彼はああ見えて分かりやすいから、親しくなってしまえばどんなことを考えているのかはすぐに分かるのだ。ベッドの上に体を起こしてちゃんと向き直ると、シリルは慌てたように手を伸ばしてきて、けれど私に触れる寸前でその手を止める。どうしたのかと見上げれば、彼は今にも泣きそうな表情で、それを隠そうとするように俯いた。
「良かった……もう二度と目が覚めないんじゃないかって、凄く怖かった。リザさんを信用していないわけじゃないんだけど、でも」
「……シリル?」
「ごめん、ニナ。僕の不注意で君を巻き込んでしまって、危険な目に遭わせてしまって、本当にごめん。気を付けろって、あんなに言われていたのに」
後悔してもしたりない。シリルの表情が、何よりも雄弁にそう語っている。私はあえてそこには触れず、そっと首を傾げた。
「とりあえず、一体何があったの? あれからどうなった?」
「……あの直後に、何かが爆発したんだ。ニナが神子としての力で守ってくれたおかげで僕は無傷だったし、君もある程度は打ち消したみたいだけど、それでも完璧には防げなかったみたいで。ついでに衝撃自体を消すことも出来なかったから、それで二人とも気を失ったらしい」
「待って、でも私、怪我なんてどこにも……爆発?」
確かにそう言われればそうだったのかもしれないとは思うけれど、現実離れしすぎだろう。流石に理解が追いつかなくなってきて訊ね返すと、彼は頷く。
「リザさんが一緒に来ていて良かった。彼女や先生ほどではないにしろ、君もかなり強い魔力の持ち主だからね。ニナの、それも命に関わるものではなかったにしろあれだけの怪我をあっという間に完治させるなんて、恐らくリザさん以外には不可能なことだ」
シリルの口調から察するに、軽傷とはとても言えなかったのだろう。……うわぁ、これはお姉ちゃん、怒ってるだろうなぁ。よく考えたら、私がしたのって思いっきりお姉ちゃんが嫌う行為だもんなぁ。
「爆発については……詳しいことはまだ分からなくて、先生とここの神官たちが原因を調べてる。まだ日が暮れたばかりだ、あれからそんなに長い時間は経っていないよ」
「シリルは本当に大丈夫? どこも怪我してない?」
「……うん、平気だよ」
思わずしてしまったその質問は、しかしどうやらシリルにとっては地雷だったらしい。彼はビクリと肩を震わせると、弱々しく頷いた。
「本当にごめん。本来なら、僕が護るべきだったのに……逆に庇われて、君を傷つけた」
「そんなこと」
ない、と言いかけて言葉を止める。私がシリルを庇ったのも、それで逆に自分が怪我をしたのも事実で、否定しようがなかった。けれど少し考えて、首を横に振る。
「ううん、シリルは悪くないよ。私が勝手に飛び込んで、勝手に怪我しただけ」
「でも、そのせいで君は――」
シリルの言葉を遮るように、コンコン、と突然ノックの音が響いた。慌てて振り返るシリルの代わり、「どうぞ」と答える。いや、よく見たら私の部屋だし、最初から私が答えるべきだったのか。
予想通りというべきか、入ってきたのはお兄ちゃんとお姉ちゃんだった。慌てて立ち上がるシリルの横まで来て、お姉ちゃんは私を見下ろす。
「起きたのね。おはよう、ニナ」
それはいつも通りの口調だったけれど、どこか物凄く嫌な予感がした。お兄ちゃんの方はその少し後ろ、シリルの隣辺りで立ち止まったのが分かる。けれど、今は目の前の恐ろしい笑顔から目が離せなかった。……そう、恐ろしいのだ。だってどう見ても目の奥が笑っていなくて、私はとりあえず引き攣った笑顔を返す。
「お、……おはよう、お姉ちゃん」
「体は平気? 動かないところとか、痛いところは無いわね?」
「うん、大丈夫」
「そう」
私の答えに、お姉ちゃんは僅かに笑みを強めた。次の瞬間、がん、と頭に鈍い痛みが走る。思わず頭を押さえて蹲り、私は恨みを込めて呻いた。
「……何も、突然殴ることないと思うんだよ」
「予告してからなら良かったわけ? あたし、これでも物凄く怒ってるんだけど、分からないかしら」
「分かるよすっごくよく分かるから言ってるんだよ!」
顔を上げた瞬間、それが失敗だったことを悟る。いつの間にかお姉ちゃんはその笑顔を消し去り、殆ど無表情に近い顔で私を睨んでいた。思わず硬直した私に対し、彼女はそのまま、静かに言葉を重ねる。
「じゃあ自分が何をしたかも、あたしが何を言いたいのかもよく分かってるんでしょうね? 兄妹揃って、やらかしてくれるじゃない。それだけは絶対にするな、って教えたわよね? あんたの兄さんがどうして死んだのか、忘れたはずないでしょ? ……ジルにも言ってるのよ」
気まずそうに目を逸らしたお兄ちゃんを振り返り、お姉ちゃんが言い放つ。彼はそれに対して苦笑を返すと、シリルの方に視線を向けた。再びシリルがびくっとするが、お兄ちゃんの方はそんなことはお構いなしと言わんばかりに微笑む。
「ではシリル様、僕たちは席を外しましょうか。……僕も、貴方に少しお話したいことがありますし」
「え、っと……はい」
うん、分かる。気持ちはよく分かるよ、シリル。お兄ちゃんはお兄ちゃんで、怒ると怖いんだね。今の笑顔はある意味お姉ちゃん以上に怖い。そんなことを思っているうち、お兄ちゃんはお姉ちゃんといくつか言葉を交わし、シリルを連れて部屋を出て行っていた。沈黙が降りたのはほんの一瞬のことで、お姉ちゃんは深く嘆息し、さっきまでシリルが座っていた椅子に腰を下ろす。恐る恐る視線を向けると、呆れ顔を返された。
「で、何であんなことしたわけ? ニナがあたしの教えを破るなんて、滅多に無いじゃない」
「……怒らないの?」
思わずきょとんと首を傾げる。お説教が始まるとばかり思い込んでいたから、そのどこか優しい響きを含んだ声は予想外だった。そんな私を見て、お姉ちゃんは僅かに目を細める。
「言い訳があるなら、聞くだけ聞いてあげるわ。また殴られたいなら別だけど」
「いっ、え、遠慮しとく!」
「ほら見なさい」
慌てて答えると、お姉ちゃんは肩を竦め、おかしそうに私を見た。
「怒らないわよ。今も言ったでしょ? 何がニナをそこまで動かしたのか、そっちの方が気になるわ」
「えっと……それが、私にもよく分からない、というか」
お姉ちゃんの問いに、私は首を振る。とにかくシリルを守りたかった。彼を失いたくなかった。その理由を考えるより前に、体が動いたのだ。今、こうして落ち着いて考えれば答えは出ていたけれど、それを言うわけにはいかなくて俯く。そんな私を見て、お姉ちゃんは苦笑した。
「ねえニナ、これもあたし、何度も話さなかったかしら。ずっと昔のことだから、もう忘れた?」
「……何、を?」
「想いを伝えられずに一生後悔した、愚かな少女の話よ」
その言葉に、私は目を見開く。忘れたわけがない。何度も何度も、お姉ちゃんが話してくれた。苦しそうに、辛そうに、悔しそうに、哀しそうに。見れば彼女はあのときと同じような笑顔で、そっと目を細める。
「大好きだったわ。だからこそ、伝えるわけにはいかなかった。そんな想いすら彼を傷つけるのだと知っていたから、押し殺すしかなかった。救いたいと思っていたのに、救おうとしていたのに、その願いは叶わなかった。何も、伝えられないままだった。『柚希』はずっと、それを後悔して生きていた」
そこでお姉ちゃんは一旦言葉を切り、私を真っ直ぐに見た。固まったままの私に、彼女は静かに言い放つ。
「ねえ、ニナ。伝えることが許されているのに、何を躊躇うことがあるの? 自分に嘘を吐き続けるのは、辛いでしょ」
「……だ、って」
お姉ちゃんがずっと後悔していたのは、私が一番よく知っていた。そんな彼女に、反論なんて出来るわけが無い。それでも、どうにか言葉を絞り出す。
「言っても、辛いのは同じだよ」
シリルが好きだ。彼に出会って、一緒に過ごしているうちに、いつの間にか好きになってしまった。そんなこと、とっくに気が付いていた。けれど、認めるわけにはいかないのだ。
「私は……お父さんとお母さんのところに帰りたくて、帰らなきゃいけなくて、そうしたらシリルとは、もう二度と会うことは無いんだろうし。伝えて、もしそれが受け入れてもらえたとしても、そんなの苦しいだけじゃない」
「一生伝えられないのは、もっと苦しいわよ」
「それは……そう、かもしれないけど」
俯くと、不意にお姉ちゃんは表情を和らげた。撫でるように私の頭に手を乗せ、どこか小さい子に言い聞かせるような口調で言ってくる。
「まあ、義父さんや義母さんが心配なのはあたしも同じだし、これ以上強くは言えないんだけどね。ニナが一番したいことをしなさい。……後悔だけは、絶対にしちゃ駄目よ」
「……うん」
まだ迷いはあったけれど、お姉ちゃんの言いたいことはよく分かった。そっと頷くと、お姉ちゃんは満足げに微笑む。少しして、あることを思い出した私は沈黙を破るように顔を上げた。
「そういえばお姉ちゃん、神子としての力って何? 私がそれを使った、みたいなことをシリルが言ってたんだけど」
「覚えてないの?」
私の問いに、お姉ちゃんは意外そうに首を傾げる。頷くと、彼女はどこか面白そうに目を細めた。
「無意識に使ってたってことかしら。ああ、そういえばジルがそんなことを言ってたわね。神子っていうのは、普通の魔法とは違う特別な力を持ってるのよ」
「特別な力?」
「そう。出来ることは魔法とそんなに変わんないわよ、実際歴代の神子も普段は魔法ばっかり使ってたらしいし。ただ、魔法とは全く別の力なんだってことははっきりしていて、神子が崇められる理由の一つでもあるわね。魔法が使えないような場所や状況でも、神子だけは普通に力を使えた、って。ジルならもっと詳しいんだけど、あたしが知ってるのはこれくらいね」
「それを私が使ったってこと? でも、さっきも言ったけど私――」
「本当に何も覚えてない?」
お姉ちゃんにそう訊ねられ、私は少し考え込む。心当たりはあった。爆発の直前に見た光の膜。やたら体が熱くて、光はそのせいなのだとどこか直感していたのだ。そう告げると、お姉ちゃんは頷く。
「それね。……ちょっと自分の『内側』を意識してみなさい、その熱はまだどこかにあるはずだから。弄っちゃ駄目よ」
「って言われても……」
内側に、ってどうすればいいの。そう訊ねたい気持ちを抑え、私は目を閉じる。なぎなたやら弓道やら色々とやっていると、精神集中はそれなりに得意分野になってくる。普段的に向けているような注意を、よく分からないまま自分の内側に持っていくイメージ。すると確かに、あのとき感じたような熱が、一か所に渦巻いているのが分かった。そこを核として、体中を循環しているような……あれ、これ、よく考えたら熱とはちょっと違う?
顔を上げると、お姉ちゃんの笑みが視界に映る。
「分かった? それが魔力って呼ばれてるものよ。そのうち魔法の使い方も習うでしょうし、そうしたら魔力の扱い方も分かるはずだから、それまでは手を出さないことね」
「……そういえば、そのうち教えるって言われたけど私、魔法については殆ど何も教わってないよ」
「そりゃそうでしょ、まずはどこかの国の古語をある程度理解しなきゃ、魔法なんて使えないわよ」
ああだから古語なんて教わっていたのか、と納得する。同時にそれなら色々な国の魔法が使えるお兄ちゃんやお姉ちゃんはどうなのかという疑問がよぎったけれど、この二人については考えるだけ無駄だろう。乾いた笑みを浮かべると、お姉ちゃんも私の言いたいことは分かったのだろう、何も言わず苦笑だけを返してきた。
こんにちは、高良です。たまには珍しい時間に更新。
流石というべきか、やはり本質は兄譲りのニナ。そんな彼女に下されるのは当然お説教……と思いきや、かつて苦い思いをした少女がしたのは警告にも似た助言でした。目を逸らし続けてきたニナも、そろそろ向き合わなければいけません。
さて、では、庇われた方の少年は……?
そんなわけで、また次回。




