15 とある少年の、昔話(2)
2015.11.27 更新:2/2
母がまだ元気だった頃、読んで欲しいと何度も強請った絵本があった。
西の大陸出身のものなら必ず見た事がある、あるいは、子どもの時に一度は見る、そんな有名な絵本だ。
大きな森に住む悪い魔物に浚われた、お姫様を勇敢な若者が助ける、冒険の物語。
「アシュベルはこのご本が好きなのね」
母の膝に乗に乗せられて、その優しい声で読んで貰う事がとても好きだった。
「ははうえは知ってる? この森は、つくりものではなくて本当に存在しているって」
「ええ、私のお父様もお母様も、みーんな知っているわ。たぶんきっと、知らない人がいないくらいに」
母のたおやかな指先が、絵本の挿し絵をなぞる。剣を掲げた若者が、悪い魔物を倒す場面だ。
「私たちが暮らす西の大陸を、さらに西へ西へと進んだ、その果ての大地。とてもとても大きな森が広がっているの。まだ誰も一番奥に到達した事がないような、大きな森よ」
あの頃は何も知らなかったから、アシュベルはただ瞳を輝かせた。大好きな絵本の舞台がそこだと単純に幼心が弾んでいた。
「けれどね……その森には、決して、誰も近づいてはならないの」
まるで内緒話をするように、母が声を潜めるから、アシュベルも声を小さくさせた。
「どうして?」
「とっても危険な場所だって言われているの。怖いところだって」
「この本の、悪いまものが出るの?」
母はたおやかに微笑んだ。アシュベルと同じ、金色の髪と鮮やかな青い瞳が輝いていた。
「ええ、そうよ。もしかしたら、悪い獣よりも、ずうっと怖いものが暮らしているかもしれないわ」
けれどね。母はそう呟いて、アシュベルを抱き直した。
「その一方では……荒らしてはならない、踏み入れてはならない、大切な場所とも言われているのよ」
「たいせつ……?」
「誰にも分からないけれど」
危険でもあって、けれど、とても神聖な場所なのかもしれないわね。
母のあの言葉は、アシュベルの胸にいつまでも残り続けた。だからだろう、母が世を去った後、書庫にこもったアシュベルが追いかけたのはその絵本にも出てきた《とある大森林》についてだった。
西の大陸の、大国を越えたさらにその西。果ての大地に広がる、大森林。その森の名前と、そこにいる西の大陸最強の獣の名前は――――。
◆◇◆
無法者が放った魔石――転移の術が刻まれた使い捨てのもの――によって、アシュベルは彼らと共に光に浚われた。
そして気付けば、どこぞの平原だった。
辺りにはなにもない。河川が横断した緑の平原で、遠くに何かの山脈と木々の群衆。そして、鬱蒼とした影を落とす横広がりの森林。
本当に、それだけだった。人の気配なんて、アシュベルたち以外には何も感じられない。
自然のただ中――――そう表現するしかなかった。
呆然としたのはアシュベルもそうだが、この事態を引き起こした男たちもまた同様だったらしい。ここは何処だ、転移の術が刻まれた魔石のはずなのに、などと軽い口論をしている。
どうやら彼らも、この事態は想定外だったらしい。
アシュベルは侯爵家に生まれた身として、幼いながら勉学を嗜んだ。
世界に遍く巡る要素の一つ――――魔力。魔法を扱う源であり、魔物たちが生まれる要因であり、多くの物事に関わるもの。その魔力を閉じこめて蓄えた器が、魔石だ。高純度のものほど、蓄積量も多く宝石のように美しい。しかも常に魔力を吸い込み続けるので、術を刻めば恒久的に使用する事も可能らしい。低純度のものは、要するにその逆の、使い捨てのものだ。術を刻んで放ってもそれっきり。しかも術が正しく発動するかどうかさえ定かでなくなるらしい。
彼らが使ったのは後者の魔石による術の行使だろう。幼いアシュベルもうっすらと察したが、それを口にする場面ではない。
問題は、刻まれていた転移の術で、一体何処に飛ばされたかである。
早く、逃げなきゃ……!
どうしてそう思ったかは分からない。ただ逃げなくてはと、そう思ったのだ。
言い争っている彼らの拘束は、いつの間にやら離れている。アシュベルは小さな足で遠ざかり、そして駆けた。
背後から恐ろしい怒号が聞こえる。逃げ出したアシュベルを追いかけてくる怖い大人たちの足音に、アシュベルはますます必死になって駆けた。
そして、森に飛び込んだのだ。横に広がる、外見から既に広大な、深い深い森へと。
恐怖心に駆られていたとはいえ、それがどれほど命知らずな事であったのか。この直後、アシュベルも、無法者たちも、思い知る事となった。
踏み入れたその森は、明らかに何かが違った。立ち並ぶ木々はどれも空に届きそうなほど大きく、色濃い緑の茂みが木漏れ日を受けていた。整えてなどいない大地には様々な草花が芽吹き、柔らかな風が清純な空気を時折撫でてゆく。
踏み入れた瞬間から、全身の肌が総毛立ち、言い表せない鼓動の高鳴りを覚えた。森という単語を聞いて思い浮かべるものを凌駕する、別世界のような美しさが懸命に走るアシュベルの目の前に続いているのだ。
一体、この森は。
「ッこの、ガキ!」
アシュベルは背後から腕を掴み上げられた。小さな膝を地面に打ち付け、息を飲み込む。無骨な手で握りしめられ、痛みに呻く。
「逃げきれるとでも思ったのかよ。お前みたいな良いとこのガキじゃ、ろくに森の中も知らねえくせに」
下卑た笑い顔が頭上に広がる。悪意に満ちた顔は、フルグストの異母兄弟を彷彿させた。「ここで死なせても良いが、どうせなら何処かに売り飛ばして金にしたい」なんて告げる声は、まさにそれだ。
憎らしいのに、身体が竦み上がる。耐えるしかなかった幼い身体は、恐怖に反応して動かなくなる。
アシュベルの怯えた様子に気を良くして、男はぐいっと乱暴に立たせ、小さな腕を引っ張った。
「さっさと出るぞ。何だよこの、訳の分からねえ森…………おい、どうした」
男が、仲間の一人へ胡乱げに見やる。彼らは周囲を見渡したまま、凍り付いたように動かないでいた。
「……ちょっと待てよ、この植物」
「あ?」
「いや、こんな、あるわけねえだろ……嘘だろ、まさか」
何事か狼狽え彼らは、突然地面に這い蹲ると、近くの草木を毟り出した。アシュベルの腕を掴んだ男はぎょっとなったらしく、仲間の一人の肩を掴んだ。
「何してんだよ、そんな草なんか毟ってる場合じゃ……」
「お前、これが何か分からないのか?!」
そう叫ぶ男の顔には、狂喜があった。
「万病を癒すっていう、《聖霊の緑草》! 葉の一枚だけでも、何十万、何百万の金が飛ぶ草だぞ!」
聖霊の緑草――――例えるなら宝石の緑玉のような、汚れ一つない鮮やかな緑色を宿していて、霊鳥が翼を広げたような優雅な外見が特徴。極めて薬効が高く、あらゆる万病を癒す薬草。
植物の図鑑に、確かそんな風に載っていただろうか。けれどあれは、もう実在すらしないって言われている伝説じみた植物で、それが大量にあるわけが。
と思ってアシュベルも周囲を窺うと、同じものが確かに何本も生えていた。それこそ、伝説じみたあの説明の重みが薄れるくらいに。
「……ちょっと待て。何でそんな大層なものが、ただの森にある」
「何でって、それは――――」
男たちの表情が、ざっと変わった。風に揺れる木々の音に、覆い被さる静寂に、緊迫した空気が混じった。
「まさか」
「ここは」
アシュベルの腕を掴む男の力が緩む。アシュベルは慌てて引き抜いたけれど、彼の小さな心臓もバクバクと激しく跳ねていた。踏み入れた瞬間から全身を総毛立たせる謎の違和感の正体を、幼い彼でも気付けた。
「……始源の、大森林」
誰かの呟きが、沈黙した森に響いた。
世界は、西の大陸と東の大陸の二つに分けられている。
アシュベルが暮らすのは西の大陸で、そこには誰もが一度は耳にするある有名な場所が存在していた。
栄華を誇る大国の、さらに西の果て。大きな大きな河が横たわったその先の、人界から隔絶された大自然。そこに、とある森林が広がっている。
幾つもの時代を経てもなお在り続ける、悠久の鼓動を刻む太古の強かな原始の世界。何十メールもあろう天にそびえる巨木が並び、言葉にしがたい美しい風景が広がるという、最古の神秘を抱く広大な森。
誰がそう呼び始めたのか、畏怖と畏敬を込めて――――《始源の大森林》と付けられた場所。
冒険者の話や物語に何度も登場するので、子どもから大人まで誰もがその名を知っている。アシュベルのお気に入りの絵本もそうだった。
しかしそこは――――決して絵本の物語のように優しい世界ではない。 不可侵の領域として、恐れられている世界でもあった。
その風景の美しさに反し、森に生きる生物はどれも人間より遙かに大きく強大。魔力から生まれ人々を脅かす魔物とは別格の存在で、数多くの冒険者や国の兵たちが挑んではそのまま戻って来ない。奇跡的に逃れた者も存在しているが、それすら両手の指の数にも満たない。
そんな話が出回っているというのに、この森に向かう者は後を絶たないらしい。曰く、その森にあるものは全て至高の品であり富の象徴であり、一つでも持って帰れば英雄になるとか何とか。
信憑性はないのにそれを信じてしまうのが人の欲深さなのかもしれない。
噂と軽んじ、或いは自らの腕を試しに向かい、結局生きて帰ってきたものはほとんど聞かない現状。
今もその森については未知の領域であるが、ただはっきりとしている事は。
腕利きの冒険者たちが命を落とし、国の軍隊ですら先に進む事の出来ない、魔境だという事だ。
幼いアシュベルも、始源の大森林の事は、本で知ったようなもの。しかも最初のきっかけは絵本だ。けれど子どもながらに、そこが危険な場所という事は気付いていた。
不完全な転移の術は、よりにもよってそんな場所へ飛ばしてしまうだなんて。
僕は、そんなに恨まれるような事をしたのだろうか。
男たちも慌てふためき、早く森を出ようと話している。大の大人がそうして慌てる様は滑稽でもあったけれど、それだけ危険なところなのだとアシュベルも理解せざるを得なかった。
「馬鹿、そんなものは置いていけ!」
「聖霊の緑草を?! 葉っぱ一枚だけで何百の金が飛ぶのにか?! これ一本でどれだけの大金が積まれると……!」
アシュベルの存在は既に忘れ去られているようだった。座り込んだ小さな身体を、そろりそろりと動かす。けれど、「動くな!!」と声が掛けられ膝が竦む。
「動くなよガキ、ここが始源の大森林かそうでないかはどうでもいい。お前は大切な……あ?」
――――パキリ
枝を踏みしめた音。
アシュベルでもなければ、男たちのものでもない。
静寂が、いつの間にか無音の沈黙に変わっていた。何かが周囲を囲んでいると、肌で感じ取った。幼い彼でも分かるほどの、何か、恐ろしいものが、巨大な木々の影に。
「何だよ、何が……」
草木の向こうで、気配が動いた。男たちはそれぞれ武器に手を掛けていたが、その太い指先は震えていた。
「出てこい、ただの獣にやられてたまるか――――」
吐き捨てるように叫んだ瞬間、張りつめた美しい風景の中に巨大な影が幾つも飛び出してきた。
それは、あまりに大きな生き物だった。
自分が小さな石ころにでもなった錯覚を抱くほどの、巨大な身体をした、四つ足の獣たち。あまりに大きくてその全てを視界に入れる事は叶わない。地面にうずくまったアシュベルが認識できたのは、森の薄暗さを引き裂く、鮮烈な赤に染められた獅子のような豊かなたてがみと、純白の毛皮くらいだった。
その獣たちと対面し呆然としていた時、恐らくはアシュベルだけでなく、男たちも気付いた。
目の前の巨大な獣が、何であるのか。
「あ……まさか……」
美しい地でありながら、危険極まりない魔境として語られる大森林。その最たる要因が、そこに君臨する、ある獣の存在だった。
奇跡的にその森から抜け出せた数少ない生き残りは、必ず書き残している。
その獣は、全長十メール近く、森に擬態しない白い毛皮と真っ赤なたてがみを持つ四足の巨獣であるという。炎を吐くとか風を操るとか、魔物にありがちな特別な能力は一切ない。しかしその身一つで、強者の象徴である竜――多くの冒険者などにとってはまさに頂にある生物――を打ち落とした魔法を破り、竜の肉体を貫いた武器を叩き折り、その身体から作られた装備を玩具でも壊すように踏み潰したという。
冒険者にとっては最高峰の装備と技術を、ただの牙と爪で打ち破った逸話は有名だ。数少ない生き延びた彼らの、自慢の装備を全て失った姿が証拠だったのだから。
そうして、始源の大森林には、竜を噛み殺す獣がいると広がり、多くの物語でも扱われてきた。
西の大陸、最強の名を冠する猛獣――――大森林の覇者、ナーヴァル。
そのナーヴァルとやらは、これだと――――アシュベルは本能で気付いた。
野に生きる獣でありながら、威風を払う姿。睥睨する真っ赤な瞳は、魔物とは別格の危険な輝きを秘めている。
何頭ものナーヴァルが、グルグルと唸りながらゆっくりと距離を詰めてくる。その向こうから、一際目を引く大きなナーヴァルが間を割って近づいてきた。他のナーヴァルも十分大きいというのに、その個体は……全長十メールどころの話ではない。もっと大きく、もっと屈強な外見であった。
この世界にこんなに大きな生き物がいるのかと、アシュベルは息を飲み込んだ。身体の震えが全く止まらない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
そしてついに、その見つめ合いに耐えきれなくなった男が、武器を抜き払った。何事か叫びながら一番手前の個体――よりにもよってその一際大きなナーヴァルだ――の、太い前足へ切りかかる。
睥睨する赤い瞳が、ぎらりと獰猛に光った。
煩わしそうに動いた前足が、ブウンッと一度だけ横に薙ぎ払われる。たったその一度で、切りかかった男は遙か遠くまで吹き飛ばされ、鈍く地面へ叩きつけられた。
それを皮切りにし、沈黙が弾け恐慌状態へと陥った。
伝染したように全員が武器を抜き払い、ナーヴァルへと向かう。巨大な獣たちは、太い牙を擁した顎を開くと一斉に咆哮を上げた。
まるでそれは、狩りの開始を宣言したようだった。
アシュベルはその時、震える足を必死に動かし駆けていた。こもりがちで外に出る事もなかったから、歩き慣れない獣道に何度も転んで、時々薮の中に頭を突っ込みながら、それでも走った。出口に向かっているかどうかなんて、彼には判断出来るはずもない。
背後から、あの獣たちの気配が感じられる。無法者たちなんかでは、大陸最強の巨獣に太刀打ち出来るわけがなかったのだ。
「ッだれか……」
フルグスト家の監獄で、いっそ死んでしまえば良かったと何度も思ったのに。
「だれか、助けて……だれか……!」
鬱蒼と茂る美しくも残酷な大森林の中で、アシュベルはその時確かに、死にたくはないと叫んでいた。
直ぐそこにまでやって来ている気配が、アシュベルを追いつめる。ついには、彼の爪先は地面に浮き出た木の根に引っかかり、勢いよく倒れ込んだ。
何頭ものナーヴァルが、即座に周囲を囲む。後ろ手をつきながら後退するアシュベルの正面に、鼻筋にしわを作り牙を剥き出した一際大きなナーヴァルが迫る。
「――――、――――」
「――――、――――」
「――――」
何かの音。いや、言葉だった。
牙を擁したその口から、アシュベルには分からない言葉が唸り声に混じって紡がれた。
一瞬それに気を取られたアシュベルの頭上でついに、子ども一人くらいは容易く丸飲み出来る、凶暴な顎が開かれる。ずらりと生え揃う牙の列を目の当たりにし、ぎゅうっと小さな身体を縮めて次に訪れるものに恐怖した。
あの時、アシュベルは死んでいたに違いない。丸飲みされるか咀嚼されるかして、大陸最強の獣の腹に収まっていた。
「――――!」
真っ赤な髪と尻尾を揺らして割って入ってきた、あの白い毛皮を纏ったしなやかな獣人が現れなければ。




