第二十七話「宇佐美定満の戦略」
天文4年(1535年)9月
越中一向一揆はその数を増やし続け、すでに約20,000の門徒が勝興寺に集結していた。
“能登守護”畠山義総はおよそ3,000の兵を集め、七尾城で篭城する事を選択する。
これは冬まで耐える事で一向宗が引く事を期待してのことであり、援軍が来る可能性は低いと考えていた。
しかしすでに宇佐美定満は、一向宗を叩くために出陣する事を決意していたのだ。
-宇佐美定満-
「叔父さん、遅くなりました」
「いえ、これ以上ない位に早いですよ。おかげで何とかなりそうです」
富山城の近くまで晴景殿が到着する。
私は馬に乗り、晴景殿を出迎えに来ていた。
それも私の作戦には時間が重要のためです。
「行軍でお疲れの所悪いのですが、すぐに軍儀を行います。それと晴景殿の軍はすぐ出発できるように待機して貰えますか?」
「わかりました。景綱、一緒に来てくれ」
「了解ですよ」
踵を返し、晴景殿達と共に富山城へ戻る。
そして城に着いた私たちは、すでに軍議の為に人を集めておいた部屋に着く。
襖を開けて見回すと、どうやら全員到着している様子だ。
「皆集まってますね。それではこれより軍儀を始めます」
私は七尾城を中心とした、簡単な地図を広げる。
そして勝興寺の位置を指して話を始めた。
「まず敵の動きですが、勝興寺に20,000の一向宗が集まっています。狙いは恐らく能登。畠山義総殿は七尾城で篭城の準備をしているとの事です」
義総殿が篭城を選択すると言うのは三宅殿から聞いた。
書状を私達に持って行く時に、『篭城するから長尾家に援軍を頼む』と言って送り出されたそうです。
しかし越後からの軍勢が来るのを待てば、堅城として名高い七尾城とて落ちる可能性が高く、義総殿は間違いなく死ぬ気でしたね。
「七尾城へ進軍するには二つの道があります。一つは氷見から沿岸沿いに進む道、もう一つは加賀を通り菅原の方から進む道です」
山城である七尾城の周囲も広大な山地であり、進軍するには迂回する必要がある。
そのため、山を右回りと左回りの二つの道があります。
「恐らく一向宗は沿岸沿いに進む道を選ぶでしょう、何故なら勝興寺に一向宗が集まっているからです」
越中の一向宗の二つの拠点は、それぞれ勝興寺が越中と能登の境目で氷見よりやや越中寄りの位置、瑞泉寺は越中と加賀の境目にあります。
必然的に能登へ進軍する場合は勝興寺に集まれば氷見から沿岸沿いを、瑞泉寺に集まれば加賀を通り菅原の方を通る可能性が高いのです。
「叔父さん、一向宗が山を越える可能性は無いかな?」
晴景殿はもう一つの道について指摘する。
確かに氷見から山を越えて、菅原方面へ出るという道もあります。
ですが、今回は使われる可能性は低いです。
「可能性はあります。しかし二万で山越えとなると、かなり厳しい行程になるでしょう。ですから可能性としてはかなり低く、ありえるとしたら別働隊を少数送るくらいと考えます」
晴景殿は、私の説明に納得して頂けた様子で頷いていた。
「ここまでが前提条件ですね。それではこれから私達がどう動くかを説明します」
私は晴景殿のほうを向いて、話を続ける。
「晴景殿の軍で、騎馬はどれくらいありますか?」
「大体300ですね。うちの軍でも精鋭揃いで景家が率います」
晴景殿の軍が1,500ですから、およそ二割。
比率的にはかなり多いですね。これだけ騎馬があるなら十分そうです。
「それは重畳です。私の軍の騎馬隊500も付けますので、加賀方面から七尾城へ向かって頂きます」
私は地図の富山城から加賀を通る道を指でなぞりながら話す。
「一向宗が沿岸沿いに進む場合、晴景殿は敵より先に七尾城に辿り着いてもらいたい」
そこで晴景殿の軍の直江景綱殿が指摘する。
「しかし距離的には氷見から向かった方が早いですし、間に合いますかね?」
「間に合わない場合の事も考えていますが、間に合わせるために残りの軍が動きます」
それは勿論私も想定している事です。
ですから、私達が動きます。
「残りの私の軍2,500は、進軍する一向宗の背後を襲います。」
今度は富山城から氷見の沿岸沿いを通る道をなぞりながら話す。
「一向宗が進むと思われる沿岸沿いの道は狭く、20,000の数が活かせる地勢ではありません」
そう、この道は細いため一向宗は細長い陣形になって進むことになるだろう。
一度道に入ってしまえば陣形を変える事は難しく、私達の軍は一番後ろだけを相手にすれば良い。
「そのため、私の軍は更に800ずつに分け、色部・本庄・新発田がそれぞれ率いて色部・本庄が攻めている時は新発田が休み、本庄・新発田が攻めている時は色部が休み、新発田・色部が攻めている時は本状が休みとして、間断無く敵を休ませないように攻めます」
更に私たちは軍を休ませながら戦うことで、より有利に戦うことが出来ます。
これは陣を切り替える時期が難しいので、私は全体を見なければいけません。
そのため前線はそれぞれの将に一任することになる。
前線の将はそれぞれ父親が上条の乱で上条側に付き、汚名返上に燃える元揚北の三人に任せます。
ようやく武功を得る機会が来ただけに、頑張ってくれるでしょう。
「そうして敵の進軍を遅らせる間に七尾城に着いて頂き、義総殿に出陣をお願いして一向宗の先頭の方から攻めて頂きます」
そう、七尾城へ早く着いて貰うのは軍を出して貰うためです。
騎馬を晴景殿の方につけたのは、道から一向宗が出てきたら平野が広がるため、騎馬隊の本領を発揮してもらうためです。
「なるほど、最終的に挟み撃ちにするのですね」
「そうです。それと一向宗が兵を山越えに回した場合は、晴景殿の方で先に叩いて頂きたい」
別働隊はあったとしても恐らく1,000前後。
晴景殿の軍なら十分に対処できるでしょう。
「もし一向宗が全軍で山越えを選んだ場合はもっと単純です。晴景殿は同様に義総殿にも出陣をお願いして晴景殿と山の出口で待ち伏せを、私の軍は背後から襲い挟み撃ちにします」
山越えは慎重に進まねばならない分、行軍が遅れます。
20,000もの大軍なら尚更です。
「越後から来る予定の援軍は、私の方に合流して貰うように連絡します。そうしたら私の軍と交代で一向宗の背後をせめて頂きましょう。越後から来る軍は、長く行軍して来た疲労はあるでしょうが、交戦を続けていた一向宗に比べれば疲労は少ないでしょうし、決定打となるでしょう」
北条殿と安田景元殿の軍と言ってたので、恐らく数は2,000程でしょう。
兵をなるべく損なわないとして、最終形は5,000と5,000で挟み撃ちにするのが理想ですね。
「叔父さんの作戦はわかりました。となるとこの作戦で俺の軍は早さが大切ですね」
「そうです。ですからお疲れの所悪いですが、晴景殿にはすぐに出発して頂きたい。その他に細かい作戦は書状にまとめておきました」
私が晴景殿に書状を渡すと、晴景殿と景綱殿はすぐに立ち上がる。
「ではわが軍は出発します。一緒に行く騎馬隊も着いて来てください」
「頼みますよ……」
私は部屋から出て行く晴景殿を見送り、その後で部屋に残ったものを見回して声を掛ける。
「私たちの方も、一向宗が動いたと連絡があれば動きますよ」
「「「はっ!」」」
-長尾晴景-
さすがは叔父さん、少数の兵でも相手が有利に戦えない様に戦略を組んでいる。
一向宗の数は確かに多いが、それを活かせる開けた場所が無ければ脅威は大きく減る。
つまりは地の利だな。
それに俺がこうして七尾城へ急行出来るのも、一向宗がまだ動いて無い上に俺達が越後から援軍に来たからだ。
これはタイミングが良く、天の時があると言える。
更には畠山殿の兵力や、元揚北組が武功を求めていること等を考慮して軍の配置をしている。
それで叔父さんの思う通りに動いてくれるなら、それは人の和だ。
孟子は天の時・地の利・人の和が、戦略が成功するための条件とも言っている。
……一つだけ気になる事があるとすれば人の和だが、そこは叔父さんも解っているだろう。
それにしても、色部・本庄・新発田を入れ替えながら戦うのは、まるで車掛りの陣だな。
宇佐美定満は越後流軍学の祖と言われるくらいだから、俺の記憶の歴史上で上杉謙信の使った戦法の内の、いくつかは叔父さんが考案したものなのかも知れないな。
さて、俺のする事は叔父さんの戦略を台無しにしない事。
その為には速度が第一だ。
「皆! 疲れている所悪いが、すぐに出発するぞ!! この戦いに勝てるかは我らの行軍の速さにかかっている!」
「「「「「おーっ!」」」」」
―宇佐美定満の戦略に従い、晴景は急ぎ動き出す。
一方の一向宗側もいつ動き出してもおかしくない状況である。
決戦の火蓋が切られる時は、すぐそこまで迫っていた。
と言うわけで長尾軍の作戦の説明です。
七尾城の地勢って、本当に守る側からすればやりやすいんですよね。
さすがに上杉謙信から一年以上も守りぬいた城です。




