【6】翳る春色(3)
診療所を出た後、私は竜の家に向かった。半分はたいらげたはずの弁当包みが心なしか重い。会えたら渡そうと思っていたが、この分だと会えないかもしれない。駅舎に続く通りを来た側に戻り、伊佐木さんと別れた角を曲がる。菫は帰ったら水に挿さないといけない。そんなことをぼんやりと考えながら踏み固まった路を行く。
伊佐木さんは刑事課の人たちが竜の話をしていたと言った。竜は続く不審火の――娘たちが亡くなっている火事について、何か聞かれるのだろう。情報提供を求められるくらいならまだいい。だが伊佐木さんの口ぶりからして、竜はこの事件の嫌疑をかけられているのではないだろうか。そう思うと不安で仕方なく、とにかく心配だった。
この港町は小さいながらも、江戸時代には藩主が腰を下ろしていた昔の城下町だ。当時から格式高い商家だった竜の家は城跡に繋がる大通りに面している。家とは言っても、この通りからは店構えしか見えない。ひと昔前までは間口の幅で納める税が決まっていたため、建物が長く横たわるような造りなのだ。間口が狭く、奥行きが深い。通りを見渡せば、同じような町屋造りの商店が軒を連ねている。ここも人の往来が多く賑やかだ。一軒の格子窓を覗けば、女店主が客に商品の酒を勧めているところだった。
じきに竜の店が見えてくる。青の瓦屋根が鮮やかな木造二階建ての店構えは、どこの店と比較しても立派なもの。入り口には足元まで届く大きな暖簾が掛かっていて、大きく『鈴生屋』と書かれている。さてどうしたものか。ここまで来たはいいが、自分は客としては不相応なのだ。店の前には立たずに離れたところからしばし眺めていると、同じように店の様子を窺う見知った顔を見つけた。
「晴一」
「沙耶子さんじゃないですか。お疲れ様です」
そう言って制帽を持ち上げ、人懐っこく目を細めるのは晴一。小中と竜の同級だった、彼の友人だ。
「お疲れ様はそちらだろう。勤務中か」
晴一は制服姿だった。紺色の詰襟服、制帽に光る『朝日影』は、彼が警察官だということを示している。竜と一緒に中学校を卒業した彼は巡査教習所に入り、今は町で交通巡査として働いているのだ。
「竜治の話、聞いたんですか」
「ああ。それで来た」
「今、中で刑事課の人間が話をしてるんですよ。俺も気になって来ちゃいました」
そう言って晴一は店先に視線をやる。母親の世代に好評な可愛げのある顔立ちが、今は真剣味を帯びている。「出てきましたね」彼のその言葉に、私は暖簾をくぐり出てくる影をじっと見た。
警官服が出てくるかと思ったが、実際に現れたのは着物の男二人だった。わざとだろうか、特に目立ったところもない。彼らに次いで竜のお兄さんともう一人、彼と歳近い女性が姿を見せる。女性の方は初めて見たが、お兄さんの奥方か。二人とも質の良い着物に羽織を重ねている。本人たちの立ち居振る舞いも含め、老舗の名に恥じない様相だった。
鈴生屋の店主、併せて鈴生家の当主は竜のお兄さんだ。先代だった竜の父親は彼が中学生のときに亡くなっている。私と竜が出会う前のことだが、代替わりしたことは当時から知っていた。それだけ町では大きな家ということだ。
竜のお兄さんと奥方は店先に立つ着物姿の――おそらく刑事課の巡査二人に頭を下げる。丁寧に、深々と。そうして次に姿勢を正したお兄さんの顔は険しかった。十八の竜とは歳が離れており、今は三十前後だったはず。だが今はそれ以上の年齢に見え、元々の堅い雰囲気も増している。その辺り、竜と全く似ていない。
「あれは相当ご立腹ですね」
隣の晴一が苦々しく呟く。「余計気まずくなるんじゃないですか」とも。竜は私にお兄さんの話はしない。はたして仲が悪いのか、互いに無関心なのか。私には分からない。
「あれ。やっぱり沙耶子ちゃんも来たんだ」
耳を流れるせせらぎに、辺りを見渡す。道行く人の影からひょいと顔を出したのは伊佐木さんだ。晴一はすぐさま姿勢を正し、敬礼の形をつくる。二人とも交通課か。伊佐木さんは晴一の直属の上司にあたるのだと、このとき初めて納得した。かしこまる晴一を、着物姿の伊佐木さんは「非番だから」と優しく手で制す。そうして彼は鈴生屋を見やる私たち二人に加わると、冷静に言葉を紡いだ。
「証拠はなさそうだから、話だけだろうね」
「人が亡くなってたんですね、火事」
刑事課が動いている理由を私が言えば、隣の晴一が目を丸く見開いた。
「知ってたんですか、沙耶子さん」
「ああ。さっき診療所で、先生から聞いた」
「まだ上から口止めされてるのに……」
晴一はぱちくりと目を瞬かせる。長く揃った睫毛が数回上下する。
「まったく。恐れ入るね、水橋先生は」
ふ、と小さく息を漏らしながら伊佐木さんが言った。
「じゃあ私は寄っただけだから。用事があるから失礼するね」
「デートですか」
上下関係はあれど、結構仲が良いらしい。どこか面白がる様子で晴一が軽口を叩くと、伊佐木さんはたしなめるように後輩を見た。
「晴一。たとえそうだとしても、沙耶子ちゃんの前で言うわけないだろう?」
小川のように、柔く淀みなく。伊佐木さんは私に向き直ると、菫を摘まんだ私の手をそっと両手で包む。その手は、母や弟よりも大きい。父よりは小さいかもしれないが漁師特有の手荒れはなく、節くれだっていながらも滑らかな感触が印象的だった。男の人の手だった。
「私の一等好きな花。……じゃあね」
こちらを見下ろす伊佐木さんの目は色っぽく、深い。ここに来る前、花弁に唇を寄せたときと一緒のものだ。私と晴一が何も言えず立ち尽くしている間に、伊佐木さんはさっさと通りの向こうに行ってしまった。
しばらく呆けた後。
「さすがだ……」
「ちょっと、変わってるよな」
ようやく紡いでくれた晴一の言葉に適当に合わせてみる。先ほどの伊佐木さんは既に自分の菫を持っていなかった。私はこうされるのは初めてだが、伊佐木さんなら花束を抱えて町で一輪一輪振り撒いても違和感はない――それどころか、絵になりそうだと思った。
「沙耶子さん、その娘さん方が亡くなっている話ですが」
通りの先から視線を戻せば、晴一がこちらを見ていた。真面目な顔に改まっている。
「そういうことなので、大丈夫ですよ。竜ならあり得ないって、お兄さんもよく分かっているでしょうから」
「……ああ、そうだよな」
家族なのだから、竜の人となりはよく分かっているはずだ。「ありがとう」と晴一を見ると、彼は私に向かって、眉根を少しだけ下げた。慰める、元気付けるというよりは、どこか気を遣うような顔だった。




