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【22】行く手洋々

 ――寒い。


 春になっても朝方は冷える。それは承知だが、いくらなんでも冷えすぎだ。身体が水に浸かったように重い。まだ寝ていたいが、さすがにこのままでは風邪を引くだろう。そう思い、気怠げに瞼を持ち上げれば、目の前の状況に一気に現実に引き戻された。


「あのまま寝たのか……」


 一糸まとわぬ自分の姿に呆然とする。早く衣を着なければ。一晩中の緊張で疲れ切った身体に鞭を打ち、寄りかかっていた壁から背を離す。そのまま冷えた畳に膝をつき、寝転がったまま微動だにしない、足元の男に声をかける。


「おい、竜。朝だ。早く起きないとまずいんじゃないか」


 階下で小さく物音がする。商家の朝も早かろう。まだ空は白み始めたばかりだが、家人は起きているのではないだろうか。


「沙耶子さん、あともう少しこのまま……」

「何を言ってるんだ。とにかく私の着物を離してくれ」

「えー……」


 私の着物を四肢の全てで掻き抱く竜が、渋るように身じろぐ。着物に埋めていて顔は見えないが、まだ寝惚け(まなこ)に違いない。


「家の人が来たらどうする」

「俺の部屋なんて誰も来ませんよ」


 そう言って、太腿まであらわになっている長い両脚を私の着物に擦り付ける。帰ったら洗濯、と頭に書き留めながら、まずは腰巻きと襦袢だけでもと竜の四肢から引きずり出す。若干湿っぽいが、仕方がない。いそいそと白のそれらをまとうと、いつもと違う香りがした。


「ほら着物も、返してくれ」

「……もうこれ下さい」


 まだ半分寝ているのか。呆れて息を吐きつつ、再び眠りこけようとする竜から着物をひっぺ剥がそうと試みる。だが意外に力が強い。なかなか離さない竜に四苦八苦していた、そんなときだった。


「竜治。初日から寝坊とはいい度胸――」

「……あ」


 パンッと音を立て、勢いよく襖が開けられる。部屋の前、呆れも混じった怒声を上げたのは、竜のお兄さんだった。


 竜から着物を奪おうとしている私と目が合うと、険しい表情のままお兄さんが固まった。そして数瞬の後に我に返ったのか、私たちからさっと目を逸らし、遠い目で天井を見上げると――全てを悟ったように瞼を伏せ、音もなく襖を閉めた。


「――竜っ! お兄さん、来たじゃないか!」


 「襦袢一枚だぞ!」と声を潤ませれば、着物に伏せられた顔から「あっ」と覚醒したような声が発せられる。


「今日から家の仕事、手伝うんでした」

「早々に何やってるんだよ! 早く起きろ! ……着替えはあっち向いてやってくれ!」


 衣の前が派手に開いた竜を部屋の反対側に追いやる。やっとの思いで着物を奪い返し、ようやくちゃんとした格好になると、竜の方をちらりと見やる。働くときも洋装なんだな、と白シャツの前ボタンを留める竜の背中を眺めていると、背中越しで竜が言った。


「そういえばよく夜中に来れましたね。昨日は驚き過ぎて反応できませんでしたけど、危ないし、お父様とか平気だったんですか?」

「あ……忘れてた」


 忍び込むことに不思議と難色を示さなかった――むしろ若干楽しそうにしていた父だったが、行き帰りは送ると言ってきかなかったのだ。「話すだけと言って、待たせてるんだった」と答えると、竜が「えっ」とこちらを振り返る。互いに顔を見合わせてから、私だけ眉尻を下げた。


「どうしよう」

「今夜、謝りに伺います。……あと、改めてご挨拶に」

「あ――えっと、ありがとう」


 気恥ずかしくて袖で顔を隠そうとすれば、「困った沙耶子さんもお美しいです」と、洋装に身を包んだ彼がへらっと笑った。


 気が付けば日が昇っている。部屋に満ち溢れる、清々しい白光と朝の風。畳に零れた梅の花弁が柔い光を帯び、ふわりと浮き上がった。



*****



 一羽の(とび)が浜辺を飛ぶ。


 海と溶け合うような、柔らかな色合いの空の中。流れ往く雲の下で滞空するその姿を、上手いじゃないか、と眺める。これがカモメなら、はぐれた一羽と勘違いして仲間が寄って来るのではないだろうか。それだけ鳥凧というものは、精巧なつくりをしていて、本物そっくりなのだ。


 正座を片側に崩して座れば、真昼の日差しを吸い込んだ砂が脚に温かい。砂を付けることに抵抗がないのは、同行の二人も後で足を洗うことになるからだ。私の足元の横に並んだ、一足ずつの草鞋と革靴。艶々しい、深茶色の革靴の方には丁寧に靴下が掛けられている。


 竜の家と、私の家との顔合わせが終わってしばらく。今日は竜と私と、弟との休みがようやく合った日だ。竜はお兄さんが宣言していた通りみっちり(しご)かれているようだが、何かの条件付きで半日の休みを勝ち取ったらしい。ここに来る途中、その交渉の様を得意気に話していた。


 やはり忙しそうだが、私もあともう少しすれば鈴生家の家業の勉強を始めることになる。先日、指南役となってくれる竜のお義姉さんと話をしたばかりなのだ。



 久し振りに三人きりで顔を合わせたため、葉太は随分とはしゃいでいる。来年から中学校に通う算段が付いたこともあるかもしれない。今も浜辺に着くなり草鞋を脱いで、一目散に(みぎわ)へと駆けて行った。もちろん手には、約束の鳥凧。葉太が慎重に海風に乗せれば、両翼を広げた(とび)はみるみるうちに天高く揚がっていった。


 肩に羽織っていた長春色のショールを外す。膝に掛ければ、絹の優しい風合いが私を包み、居心地を一層良くしてくれる。落ち着いた紅薔薇の色は着物にもよく合った。これを選んでくれた竜はそのことを分かっていたのだろうか。流行りに乗りたがる()はあるが、両方だろうな、と思った。


 鳥凧はその美しい風体でもって悠々と空を翔け、大気の流れに乗る。届かないが、離れもしない。自由なようでひとりでは飛べず、地に足をつけた対を求める。対もまた、それを良しとして眺めるわけだが。


「竜って。鳥凧みたいだよな」

「じゃあ、沙耶子さんは凧揚げ名人ですね」


 隣でズボンの裾を捲り上げる竜に話しかければ、おどけたような軽い台詞が返ってくる。「下手なんだけどな」と苦笑すると、私を覗く竜の唇が甘えるように動く。とろけた表情は、淡い春色。


「どこかで繋がってるって、思っていいんですよね」


 竜の性質(たち)を考えれば、能天気だとは言えなかった。それに、少しは素直になろうと決めたのだ。「まぁ、そうかもな」と声をくぐもらせて言えば、私を見下ろす竜がふっと花の笑みをこぼした。


「その糸、ずっと握ってて下さいね。沙耶子さん」

「あんまり風に煽られたら知らないな」


 これは本当だ。ふらふらするようなら容赦しないぞ、と竜を軽く睨めつけると、それに焦った竜が何か紡ごうと口を開く。それと同時に、「竜治兄ちゃーん!」と葉太の声が波音に乗った。


「ほら。行ったらどうだ」

「あ……また、後ほど」


 そう言って、竜が私に背を向ける。弟に「おーう」とのんびり返しつつ、裸足で海辺を歩いていく様子は流麗ながら優しげで、好ましいと思った。



 二人が鳥凧を揚げる風景を心に焼き付ける。

 目だけでなく身体の全てを使い、浴びる潮風の匂いや波のさざめき、春の暖かさ、肌で感じる今の全てを覚えていたいと思う。


 来年の今頃は、こことは違うだろう、花の都にいるだろうから。


これにてこの話は完結になります。

お読みいただきましてありがとうございました。


なお、続編として『青鳥さえずる、帝都の汀』を現在連載しております。

結婚後の沙耶子と竜治が、帝都でわちゃわちゃ(といちゃいちゃ)する話です。

ご興味のある方はそちらも覗いていただけたら嬉しく思います。

【追記】

青鳥も完結いたしました。


本作をお読みいただきまして、本当にありがとうございました。

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