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【19】霞晴らして(3)

 大通りの途中で脇道にそれる。涼やかな二軒の町屋の間をしばらく歩き、ようやく隣の通りに出られるか、というところ。一つの勝手口を前に、私は立ち止まった。見覚えのある『比島』の表札は、晴一の家のものだ。


 診療所の前で水橋先生と別れた後。晴一に会おうと、初めは派出所に行った。だが晴一は数日休みを取っていると彼の上司に言われ、先日の記憶を思い出してここに来たのだ。


 晴一が休んでいる理由を考えて、戸口を叩こうとする手が止まる。確かに今回の事件で一番堪えているのは晴一に違いない。そんなときに私が竜のことで訪ねるなど、いいのだろうか。考えあぐねていると、「沙耶子さん?」と空から声が降ってきた。何気なく見上げて、ギョッとする。


「ああ、やっぱり沙耶子さんだ。お疲れ様です」

「……びっくりしたぞ。生きてるよな」


 二階の窓はそれほど高い位置にない。すぐさま目に入ったのは、晴一の生首。細道に差し込む日射は弱いが、逆光で顔は暗い。頭だけを外に投げ出す晴一が無気力に口を開く。


「ちょうど良かったです。今お時間ありますか」

「ああ。晴一と話したくて来たんだ」

「じゃあ、ちょっと待ってて下さい」


 その言葉と共に、生首がすっと消える。少しだが肝が冷えた。袖の上から腕をさすっていると、家の中から階段を降りる音と「大丈夫! 大丈夫だから!」という晴一の声が聞こえてくる。少しの間が空いて、戸口が開いた。


「お待たせしました。行きましょう」


 着流し姿の晴一の背後には、上がり(かまち)から心配そうにこちらを覗く妙齢の女性がいる。私たちが互いに軽い会釈をしたくらいで、晴一は戸口を閉め、ふぅと息を吐いた。


「連れ出したみたいで悪いな」

「いえいえ、むしろ助かりました。上司に休みを取らされたのはまだいいとして、お袋が家から出してくれなくて。あれですかね、最初に海に行くって言ったのがまずかったんですかね」

「……それはそうだろうな」


 「私でも止めるぞ」と言えば、晴一は苦々しい笑みをつくった。



 小腹は空いているかと訊かれたので肯定すると、連れて行かれた先は甘味処だった。地元では名の知れた店で、絶妙な口溶けのあんこが売りなのだ。


 店員の婦人に奥の席まで案内され、そこでぜんざいを二つ頼む。その際婦人がこちらを興味深そうに見たので、晴一が「竜治の(・・・)いい人です」と微笑むと、彼女もまた「ああ、そうなの」と愛好を崩して戻っていった。『いい人』と言われても。向こうの家から結婚の話をなかったことにされたばかりなのだがな、と複雑な気持ちになる。


 それほど待たずに、注文したぜんざいが運ばれてきた。光を吸う黒漆の椀に敷き並んだ、球状の真白な白玉餅。その上にうず高く盛られるのはこの店自慢のあんこだ。甘過ぎず、いくらでも食べられるのが良いのだが……それにしても、こんなに量が多かったか。


 記憶のものよりたっぷりと盛られたあんこに目を瞬かせていると、晴一が店内の一角へと視線を移す。それを追えば、先ほどの婦人が私たち――というより、晴一を眺めていた。そのどこか熱い眼差しに、彼が親世代に人気だったことを思い出す。婦人に流し目を送って愛想よく笑うと、晴一は元に直った。


「いい店ですよね」

「……晴一のそれ、計算か?」

「何のことです?」


 机向かいの青年はそううそぶく(・・・・)と、何食わぬ顔であんこをつつく。その甘味に綻ぶ様子があんまり美味しそうだったので、彼が天然か計算か、私も気にすることはやめた。恩恵に預かり、山盛りのあんこから一口掬う。うん、美味しい。舌の上でのほどけ方がなんとも優しいのだ。互いの器の中が少しずつ減ると、晴一の方から切り出してくれた。


「それで、話って竜治のことですよね」

「ああ。竜の性質(たち)……女子に()れられないというものなんだが、晴一は知ってるんじゃないかと思ってな。幼馴染だから」

「ええ、知ってますよ。というか、沙耶子さんも知ってると思ってたんです。何だか色々、すみませんでした」


 そう言って晴一が申し訳なさそうな顔をする。私と竜の間にあったことは、事件のあった晩に診療所で聞いたらしい。ざっくりだが竜が話してくれたと、晴一は言った。


「いや。ずっと気を遣ってもらってたんだよな。気付かなくて悪かった」


 竜の気持ちと、自分の気持ち。どうせ結婚はできないのだからと、それら二つに目を背けていたツケが今に回ってきているのだ。


「竜のお兄さんがな、竜は昔発作を起こして、それ以来女子に()れられなくなったと言っていたんだ。何か知らないか。……話せないなら、それでいいんだが」

「いいえ、沙耶子さんには話すべきでしょう。むしろ聞いてほしいです」


 「ただ、この話はぜんざいを食べ終えてからにしましょう。念のため」と、晴一はそう言った。晴一が大きくあんこを掬ったのを見て、私もあんこの絡んだ白玉餅を続けて二つ、口に入れる。軽い咀嚼でなじんだそれらは、喉につるりと滑り落ちた。




「竜治が女性に()れられなくなったきっかけなんですけど。知ってるどころか、一緒にいたんですよ、俺。まぁ俺だけじゃなくて他にも何人かいて。小学校のときです」


 二人の器が空になるとすぐに、晴一が語り出した。私たちの席は奥まっていて、店の中では特に目立たない位置にある。それでも声を若干ながら落として、晴一は続ける。


「放課後に男女混じって遊んでたんです。まぁ、だから相当幼いときですね。それで、その当時、口には出さないけどきっと竜治のこと好きなんだろうなって女の子がいまして。竜治の方は何とも思ってなかったみたいですけど」


 子供のときの恋心か。記憶にないな、と思う。父に「海の男は格好いいだろう」とか「将来は誰と結婚したいんだ」とか言われてた気がするが、あまり心に留めなかった。……父さんと結婚するとか、言えばよかったかな。


 まあそれはいいとして。晴一の話は続く。


「それで、遊んでる最中に、その子がふいに竜治の腕を引っ張って、あー……抱きついたんですよね。……昔の話ですから! 子供のときですから!」

「気にしてないから、慌てるなよ。続けてくれ」


 いくらなんでも竜が幼いときの話で嫉妬するか、と手を軽く振る。それに、竜に(さわ)れた唯一の女子とはいえ、この流れだと大変そうだ。


「はい。えっと、そのときなんですけど、竜治。吐いちゃいましてね、皆の前で。女の子も動揺してたんですけど、竜治の方がもうわけわかんなくなっちゃって。パニック、ってやつなんでしょう。結構大変だったんで、よく覚えてます」


 そのときのことを思い出しているのか、晴一が小さく眉根を寄せる。その場にいた全員が泡を食ったに違いない。これが竜のお兄さんの言っていた、発作を起こしたときのことか。


「次の日は普通に登校してきたんですよ。周りの人間がそれまでと変わらなかったのは、全員の性格と……さすがに家の関係もあったのかもしれません。ただ、竜治個人に関しては、女子の全員と距離を置き始めましたね。あいつ器用なんで、さりげなく、ですけど」


「相手の女の子はどうなったんだ?」

「竜治や家からの埋め合わせもあったはずで、その後も普通に過ごしてました。元々親御さんの転勤で町に来てた子で、じきに引っ越していったはずです」


 顎に手を添えた晴一が自身で確認するように頷いた。一度机に視線を落としてから、晴一はにこやかに私を見る。


「そういうわけですから、ある日竜治に『好きな人ができた』って言われたときは驚いたんですよ。本人も戸惑ってましたけど――それでも、嬉しそうでしたね」


 そう言って眩しそうに目を細める彼は、竜の友人の顔をしていた。


「……そうか。ありがとう。今は晴一が一番大変だろうに、すまないな」

「いやいや、俺なんて全然ですよ。好きな人だったならまだしも、なんて。婚約も解消しましたし、そっちは別にどうってことないです。……むしろ、伊佐木さんの方が堪えてますね。いい上司だったんで」


 口角は上がっているが、複雑そうな顔だ。二人が一緒にいるところは一度か二度しか見たことがないが、仲良さそうだったものな、と私も表情が曇る。晴一は深く呼吸すると、まとわりつく情念を振り払うように、頭を数回振った。


「今はまだ話も広がってませんけど、しばらくは俺たちも肩身が狭くなりそうです」


 「あーあ」と、あえて軽い調子で彼は吐く。


「晴一は、どうして巡査になろうと思ったんだ?」

「家を継ぎたくないと思ったときに、この仕事なら社会的地位もあって、安定してると踏んだからです。家は弟に継がせることにしちゃいました」


 ということは、そのうち結婚で家を出るのだろうか。晴一の家も大きいから弟夫婦と一緒に住めそうではあるが、どのみち大変そうだ。


 そもそも、結婚はどんな形であっても大変なのだと、ここ数日でしみじみ思わされた。机向かいを見れば、晴一がふっと柔らかい表情をつくる。


「そんなものですから、恋に仕事に夢見る竜治が羨ましいですよ。あの少年心、ちょっとくらい分けてもらいたいものです」

「あれはあれでどうかと思うが」

「確かに。沙耶子さんみたいな人を見つけるのは大変そうだ」


 どういう意味だよ、とムッと口を尖らせると、晴一はこちらをおかしげに見る。


「おすすめは。二階の竜治の部屋を向いて、右側から登り始めることです」

「……たき付けないでくれ」

「あれ、違うんですか? きっと正面から行っても、それはもう丁寧に門前払いされますよ」


 晴一がニヤリと笑う。その悪戯を企む子供みたいな顔に、ああ、竜の友人だ、と思った。

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