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【18】霞晴らして(2)

 母に全てを打ち明け、母の言葉を聞いた後。


 近所を回っていた父と葉太が帰ってきた。それから、四人で昼飯を取り、午後から町の中心部へ行くことを決めた。とりあえずは駅前の診療所へ。それはなんということはなく、先日の検査の結果を聞くためだ。


 診療所に着くと、白衣姿の水橋先生が木瓜(ぼけ)の木の前でしゃがんでいた。小さな袋を片手に下げ、土に落ちた赤茶色の花弁を集めている。事件直後の昨日とも同じ、その静かな表情に「お疲れ様です」と話しかければ、「あ、石月さん。こんにちはー」とゆるい応えが返ってきた。


「少し時間あるかな」

「はい」

「休憩がてら散歩しようよ。書き置き作ってくるから待っててね」


 そう言って先生は立ち上がると、一度診療所の中へ入っていく。遅いお昼休憩なのだろう。ほどなくして戻ってきた先生は花弁の袋の代わりに一枚の紙を持っていた。『昼休憩にて不在。用のある方は駅前広場へ』。優美な字でそう書かれた張り紙を、入り口に鋲で留める。白衣を脱いだ先生は、普段着のような軽い洋装だ。


「先生も洋服を着られるんですね」

「仕事のときはね。白衣の下に着物は動きづらいから」


 書き置きに従って、二人で駅前広場へと歩き出す。白シャツに紺ズボンを合わせた先生の姿は新鮮に感じる。隣から眺めていると、先生もまたこちらを見た。


「あれからは大丈夫?」

「はい、平気です」


 事件のあった晩。先生は深夜にも関わらず診療所を開け、私と志穂さんを診てくれていた。志穂さんに関しては心傷はともかく、外傷はなかったということで安心だ。私の方は、しばらくは締められた喉に不快を感じていたものの、今はすっかり元通り。心の底から大丈夫だと思って答えれば、先生は目を細める。


「それは良かった。そうそう、四日前の検査でもキレイな血だったよ。健康そうでなによりだね」

「ありがとうございます」

「こちらこそありがとうね」


 私の瞳の奥底までを覗き込むように、先生が首を傾ける。一つに括られた艶やかな長髪が、ゆったりと後ろの背を滑った。



 駅前の広場はなかなかの賑わいを見せていた。親子連れも含めて、子供が多い。見れば、それぞれ糸を持ち、あやとりに勤しんでいる。あやとり紐を配っている大人や指導している大人もいて、先生が言うには、ここでは定期的にあやとり教室が開かれているそうだ。


 一人あやとりに二人あやとり。三人でしている親子もいる。それらの様子をほう、と観察する私に、先生が言う。


「僕がもらってこようか?」

「いや、大丈夫です。自分で行ってきます」


 先生から一度離れ、あやとり紐をもらいに行く。はて、私、そんなに物欲しそうな顔をしていただろうか。ただ無意識に「自分で」と言うくらいだから、そうなのかもしれない。そんな風に思いながら、一つの糸の輪をもらった。赤や青、黄といった明るい色は子供たちに人気なのだろう。私がもらったのは青紫色の紐だ。


 振り返れば先生はいなかった。少し見渡して、広場の置き石に腰掛ける先生を見つける。先生は私と目が合うと、こっちこっち、と隣の石を手で軽く叩いてくれる。対になっているキノコ石。地元住民には『夫婦石(めおといし)』の愛称で知られるその片方に、私も腰を下ろす。「石月さんの下の名前、僕の恋人の名前と似てるんだよねぇ」と、先生が冗談交じりに笑った。


 広場は和気あいあいとしていて、日差しが心地いい。しばらくして、先生が静かに口を開く。


「彼さ」


 風が吹きわたり、さやさやと芝が揺れる。


「半年前に不貞相手に心中を持ちかけられて。追いかけられなかったようだよ」


 指にかけていた紐を袖にしまう。「伊佐木さんのことですか」と言うと、先生は頷いた。


「うん。それで、数多いるお相手さんの中で、誰なら追えるか気になり始めたんだって。誰が好きなのか、誰のことも好きでないのか。本人も、分かってないんじゃないかな」


 あの晩の伊佐木さんの表情を思い出す。だが、どんな顔であったろうと、どんな気持ちであったろうと、胸のすくものは何一つない。口を閉じ、目線を下に向けたままの私に、凪いだ調子で話は続けられる。


「まぁそれだけでもなさそうだし、そういった人の心理なんて、(つまび)らかにはなっても理解はされないんだろうけど」

「……少なくとも私には、普通のいい人に見えていました」

「そうだね。清く正しく生きようとしても、何をきっかけにどんな衝動に苛まれるかは分からないから……どこかで踏み止まらないとね」


 小さな吐息の音がした。顔を上げれば、隣の先生は後ろから自身の髪を掬い上げて、するすると五つの指で撫でている。女性よりも女性らしい艶髪に、中性的な顔立ち。その眉尻が、ほんの少し下がる。


「ただの噂話なんだけどね。ごめんね」




 「そろそろ行こうか」という先生の言葉で、診療所に戻ることになった。それほど時間は経っていないが、休憩中とはいえ長時間あの場を離れることはできないのだろう。診療所の前に着き、先生が張り紙を外す。別れ際、ふと思い立って、先生に訊いてみた。


「先生。何かのために人に(さわ)れなくなるということは、あるんでしょうか」

「それは誰かの話?」

「……いえ、違います。なんとなく、思っただけで」


 竜のことだと明かせば何も答えてくれないような気がした。ぼやかして言えば、先生は「それならいいんだけどねー」と、小さく笑みをつくる。


「うん、あると思うよ。原因も対象も、程度も様々で。本人にも分からないこともあるし、少しずつ、だよねぇ」

「そうなんですか」


「――も頑張ってると思うよ」

「え?」

「いや。今回はほんとーにお疲れ様、石月さん」

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