表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/22

【17】霞晴らして(1)

 事件のあった翌日のお昼まで、水橋先生の診療所で休ませてもらった。午後からは家に帰ったが、心配した家族に再び寝かせられ、結局働き始めたのは事件に巻き込まれてから二日後。今日からだ。


 診療所で休んでいる間に助かったときのことを聞いた。伊佐木さんに首を絞められた私を救ってくれたのは、驚くことに竜だったらしい。あの晩、私の帰りが遅いことを心配した父が鈴生屋へ赴き、そこから警察をまじえての捜索が始まったそうだ。


 寝巻きで家を飛び出した竜は晴一たちと一緒にあちこちを探し回り、志穂さんを保護した先で私と伊佐木さんを見つけたとのことで。



 ――あんなに走る竜治を見たのは人生で初めてですよ。学校の体操科でもいつも手抜いてましたからね。そのうえ伊佐木さんに飛びかかるなんて、心底驚きました。もちろん俺たちだって走ったんですけど、竜が一番早くて。あれは凄かった。もう二度と見られないだろうな。



 私のベッド脇でそう流暢に話す晴一に「想像できないな。私も見たかった」と応えれば、横の竜は「勘弁して下さい。二つの意味で心臓が持ちません」と苦々しく呟いた。竜が汗をかいたところすら見たことがなかった私からすれば、昨日の姿だけでも大変貴重ではあったのだが。




 いずれにせよ、ようやく元の生活が戻ってきた。いまだに家族には心配されるが、ここ数日畑に手をかけられていなかったし、季節の移ろいは待ってくれない。


 それに、今までと同じことをしている方が心が落ち着くのだ。絶えず頭を巡るのは、事件のことではなく、竜のこと。


 海辺寄りの畑にしゃがみ込み、生え始めた雑草を一本一本抜いていく。我が物顔で畑に居付こうとする草を根っこから引き抜いて、パラパラと土を振るい、竹籠に放り込む。単純作業を繰り返しながら、考える。


 結婚の話は今、向こうではどうなっているのだろう。事件後はそういった話もできず、結局竜の家から逃げ出して以来、そのままなのだ。


 バササ、と鳥が飛び立つ音がする。近くの白梅へと視線を移すと、その光景に目を丸くした。揺れる細枝の下、男性が一人立っている。声もそうだったが、兄弟というのは佇まいも似るらしい。着物に羽織という姿でも一瞬竜と見紛ったのは、彼のお兄さんだった。


「こんにちは」

「どうも御苦労様です。大変だったと聞きましたが、すぐにも働いているのですね」


 前と変わらず落ち着いた、穏やかな口調だ。雑草を入れていた籠を置き、畑を出る。こんな汚い格好で申し訳ないと思いながら、せめてと手拭いを外す。お兄さんの近くに行けば、「突然にすみません」と丁寧に頭を下げられてしまった。


「お宅にお伺いしたところ、ここだと聞きましたもので」

「わざわざご足労をおかけしてしまい、申し訳ありません」


 今日は父の仕事も、葉太の小学校も休みの日。それなのに鈴生家のご当主本人に来させるなんて、全員何を考えているのだ。当惑しながら謝れば、お兄さんは「いえ」と軽く片手を上げる。


「私が無理を言ったのです。……先日の挨拶でのこと、申し訳ありませんでした。それに、事件に巻き込まれたのもうちの帰りだったそうで」

「とんでもないです。こちらこそ身をわきまえない行動に出てしまい、反省しております」


 身体を乗り出してお茶をかぶりに行った挙句、「竜と仕事の話をしてくれ」など、よくもまあ偉そうにと自分でも思う。動揺していたのはそうだが、竜はともかく、お兄さんは不快に思ったに違いない。その後に一人でふらついたのも自分の勝手だし、謝らせてしまってかえって申し訳ないくらいだ。


 恐縮な思いでお兄さんの顔を窺えば、向こうもやや気まずそうに眉根を寄せて、「竜治のことなのですが」と切り出した。


「帝都にやることにしました。うちの仕事です」


 それを聞いてすぐ、嬉しさに心が沸き立った。その気持ちが透けて出たのだろう、お兄さんは私の顔を見ると少し苦い表情を作ってから――優しく目を細めた。


「あれから二人で話し合いまして。お恥ずかしい話ですが、私と先代が上手くいかなくなってから面と交えて話をしたことがなかったのです。……どうやらお互い、嫌われていると思っていたようで」


 お兄さんが右斜めの宙を見る。今日は海の空も含めて快晴だ。雲一つない澄み切った青空に、海面も冴え冴えとした爽やかな色を映している。


「家を傾けさせない程度なら、一度許してみてもいいかと思ったのですよ。何かあればすぐ連れ戻しますが」


 空に向かい、どこか独白するようだった。お兄さんはさっぱりした面持ちで先の言葉を紡ぐと、再び私の方へと視線を戻す。


「来年の春、あいつを帝都にやります。それまではここで(しご)かねば」

「一年、ですか」


 そんなものでいいのか、と不思議そうにお兄さんの顔を見れば、それに気付いたお兄さんはふっと口角を上げた。


「竜治と話はしませんが、成績表と、自室に積まれた書物に関しては見ていたのですよ。……父の生前は時折手伝っていましたし」


 認めている部分はあるということだろうか。お兄さんにしては珍しい、柔らかな表情をまじまじと眺めていると、「石月さん」と改めて声をかけられた。


「そういうことでありまして、私共々、家としても感謝しております。貴女には直接お伝えしたいと思った次第です」


 今まで以上に丁寧に礼をされ、何と応えればいいのか分からなくなる。どう振り返っても、大したことはしていないから。もう一度顔を上げると、お兄さんは続ける。


「どうかお幸せになって下さい。女性の幸せを決めるつもりは毛頭ありませんが、竜治では難がありすぎる。ましてあの性根では、貴女には釣り合わないでしょう」


 優しげな表情だが、口調は頑なだ。硬い表情に穏やかな口調だった、この間とは逆。ほんのわずかな差ではあるが、それは確かだと感じた。


「この度は本当にご迷惑をおかけしました。……竜治が貴女のような方に惹かれたところは、褒めてやりたいと思います」


 最後にそう付け足すと、「これで失礼いたします」と言って、お兄さんは去っていった。言葉にあった通りなのだろう。竜の今後について、私に直接伝えたかっただけ。こちらが何を言うまでもなく、話が綺麗に収束したような気がする。竜が帝都に行けることになって、良かった……が。


「丁寧に突き放されたな……」


 向こうは私のことを思ってなのだから、突き放されたという言い方は失礼かもしれない。それでも、釘を刺されたとまでは言わないが、やんわりと制された気分だ。お兄さんの言うことも当然分かる。だが、今の私には。違う選択肢を選びたいという欲がある。こうなっては、我が儘か。


 どうしたって、私一人で決められる問題ではない。自分のことだけではすまないうえ、そもそもこの問題について、上手く形にできていないのだ。竜との先を想像したくとも、霞のようにぼんやりしている。晴らしていかなければ、周りから。最後に見えたものが本当に掴めないものだとしても、このまま諦めるよりはずっといい。


「――まずは帰るか」


 畑に戻り、雑草の積もる竹籠を抱える。まだお昼前だが、時間を待つのは性に合わない。私は帰路に着くことにした。



*****



 今日は父と弟もいるから、お昼は弁当ではない。家の近くまで来れば、ふわりと味噌汁の匂いが漂ってくる。昨晩からシジミに砂を吐かせていたから、おそらくそれだろう。「ただいま」と戸を開けると、中にいたのは母一人だった。


「父さんと葉太は?」

「さっきいらっしゃった鈴生様が、立派な鮭とばを何本もくださってね。二人で近所に配りに行ったよ」

「ああ、なるほど」


 お兄さんにはここでも気を遣ってもらったようだ。私は板間にあがり、母の正面に座った。囲炉裏(いろり)の前で味噌汁の小鍋をかき回す母の表情は、凪いでいるように安らかだ。


「私もさっき竜のお兄さんと会ったんだ」

「そう」


 シャラ、シャラと鍋底でシジミが揺すられる。母の手付きはゆっくりで、少し眺めているだけでも眠くなる。外の大気も暖かいが、囲炉裏(いろり)の温もりもまだ恋しい時期。


「……母さん」


 呼ぶと、母はこちらを見た。昔よりも皺が増えたが、私や葉太を見るその瞳は変わらない。つい、甘えるように口を開いてしまう。


「母さんに、話したいことがあるんだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ