【16】零れ綻ぶ(3)
ゆらり。橙の火が手前で揺れた。墨を塗り込めたような暗闇の中、それは恐ろしいほど鮮やかに、確かな意思を持って燃えている。私たちと彼との距離は近い。
「――っ! おい! 逃げるぞ!」
志穂さんの身体を抱いたまま、無理矢理に立たせた。逃げなければ。相手はどうしたって殺す気だ。吹きわたる生温い風に、木々が枝を揺らす。萌え始めた若葉がざわめき、空気を精一杯震わせる。
「逃げられるわけない」
伊佐木さんは嘲るように口を歪ませた。そうだ。二人一緒なんて無理だ。相手は男。それも、普通より鍛えられていて、武道の嗜みだってある。
私はトン、と志穂さんを先に押した。
「一番近い民家に逃げ込め! それで助けを呼んでくれ!」
「あなたは――」
「私は、何とかするから! 早く行け、走れ!」
必死に叫ぶと、彼女はヒュウと息を吸い込み、悪路を駆け出した。バシャバシャと水溜りを蹴って進む、一人分の音が離れていく。
「ねぇ、困るんだけど……おい!」
「絶対、行かせないからな!」
彼女を追いかけようとした伊佐木さんの腕に、私は全力で飛び付いた。けして離すまいと、全身で噛み付くように、しっかりと掴む。
伊佐木さんが振り解こうと腕を動かすが、私だって譲れない。思い切り後ろに引っ張れば、二人とも体勢を崩して地面へともつれ落ちた。泥が跳ねて顔にかかり、嫌な味がする。それでも構わず、仰向けに倒れた伊佐木さんを押さえ付けようと組み敷けば、相手は呆気に取られたような顔になる。
「は――ははっ! 勇ましいな、沙耶子ちゃんは。本当に勿体無い」
横に転がるランプの火が、弱々しく二人を照らす。
「こんなに情熱的に迫られたのは初めてだよ。最初から、君にすればよかった」
「もう、やめてくれ……」
「それは無理だ」
伊佐木さんが私の両腕を掴み上げた。いつかの滑らかな手は男の力で、いとも容易く私から抜け出す。どう動かされたかも分からぬまま、あっという間に二人の位置は入れ替わっていた。
「やめられるなら二人目で思い留まってる。自分でももう、止められないんだ」
私の上にきた伊佐木さんが苦しそうに目を細める。彼がぐっと指に力を入れると、両手を回された喉が締まる。反射的に胸が上下するが、空気はそこに届かない。息苦しくて手脚をばたつかせる。だがいくら頑張っても泥の滑る感触が気持ち悪いだけで、これ以上は抗えないと悟った。
遥か向こうには広々と敷かれた黒の天幕。そこには砂状の星々が薄く消えかかり、一つ、儚げに白い月が浮かぶ。靄がかかった満月は、今にもこぼれそうだ。
そういえば、一度も伝えたことがなかった。竜は触れられない分、言葉で伝えてくれていたのに。普段のときも、プロポーズされたときも、照れて何も――素っ気ない態度でしか返せなかった。最後なんか、ただ責めるばかりで。
嫌だな。ここで死んだら、きっと竜は悲しむ。色々と後悔して、また自分を追い詰めるに決まっている。
呼吸が苦しいからでなく。その思いから、目の前が霞んでいく。そのまま真っ白になって、周りの音が遠のいて。全身が軽くなるような感覚に包まれると、こうやって死んでいくのか、とぼんやり思った。
もう力なんて入らない。だが、それならせめて、竜の声を思い出しながら死にたい。甘えたくらいがちょうどいいな。一緒の昼飯をねだるくらいの、柔らかい口調がいい。優しい声で私を呼んで、頑張ったと、褒めてくれ。
――沙耶子さんっ!
それは少し、必死すぎやしないか。
「沙耶子さん! 沙耶子さんっ!」
あ――。
……もしかして、空耳じゃないのか。ゆっくりと一つ瞬きをすると、寒々しい白の世界に色が宿り始め、次第に夜へと変わる。柔くほころぶ月と、こちらを覗き込む竜の顔が見えた。
「竜……」
「――っ! 沙耶子さん……生きてた……!」
竜は喉を詰まらせながらそう言うと、泥水の上にへたり込む。洋服が勿体無いだろう、とそのまま隣に横たわった彼を見ると、いつもの格好ではなかった。着物――というより、寝巻きだ。どう動いたらこんなに着崩れるのか。衿合わせも裾もこれ以上ないほど乱れていて、目のやり場に困る。思わず視線を逸らすと、ランプの灯りがいくつも見えた。
ようやく、周囲の慌ただしい様子が掴めてくる。確保だの伊佐木だのと大声で叫ぶ男たちの声に、彼は捕まったのだと察した。私は、助かったのか。
「大丈夫ですか」
一つの灯りと共に視界に入ってきたのは、制服姿の晴一だった。
「晴一。志穂さんは……」
「彼女は途中で保護されました。沙耶子さんも診療所に行きましょう。……起きられますか?」
少し躊躇するように右手を空けた晴一に、私は小さく首を振った。隣にはまだ寝転んで、呼吸を整える竜がいる。
「起きられないが、まだこのままでいい。竜と一緒に、ゆっくり起きるよ」
「――分かりました」
仰向けのまま言えば、気を遣ってくれたのだろう。晴一は軽く頭を下げてから姿を消した。あいつが一番大変だろうにと思いつつ、隣の竜へと顔を向ける。竜もまたこちらを見つめていた。安心した顔ではなく、哀しげに眉尻を下げて。
「こんなときでも……お身体、支えられなくて……すみません」
「いや。来てくれただけで嬉しい。充分だよ」
「せめて、今だけは。沙耶子さんが起きられるようになるまでは、一緒にいさせて下さい」
「……それは困ったな」
動けるようになっても、起きたくなくなるじゃないか。「しばらくかかるぞ」と苦笑すれば、竜は「いっそのこと朝までどうですか」と軽く返す。
へらっと笑おうとする顔はまだぎこちない。それでも、隣にいるだけでいい。今はこの、許された二人の時間に浸っていたいと思った。




