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【15】零れ綻ぶ(2)

 月はおぼろげで暗い夜だ。川のせせらぐ音が大きく、風が吹けば、そこに草木のこすれる音が重なる。その他といえば、私の草鞋が濡れた砂利を踏む音くらいか。


 人の気配はない。こうして引き返してはいても、あれから志穂さんがどこに向かったのかは分からない。この辺りは知らない土地だし、例え知った場所だとしても、人が逢い引きで使う(ところ)なんて自分には縁が無いのだ。


 会えなくても仕方がない。結局は自己満足なのだから――そう、考え始めたときだった。


 ザッザッザッ!


 駆け足でこちらに近付く、何か。獣ではなく人の足音なのは確かだが、いかんせん真夜中だ。正体を確かめられないままそれは間近に来ると、私に勢いよくぶつかってきた。


「あっ――!」


 相手は私の足音に気付いていなかったらしい。事前に察知して身構えた私とは別に、ぶつかった相手――少女は大きく体勢を崩し、両膝をついた。


「……志穂さん? 大丈夫か?」

「あ……ああ……」


 こちらも腰をかがめて膝をつく。正面に向き合えば彼女も私だと気付いたようだ。ひどく狼狽える彼女の着物は大きく崩れていて、先ほど携えていたランプもない。


 探していた相手に会えたはいいが、様子がおかしい。落ち着かせるために彼女の肩を抱くと、走ってきたというのに、驚くほど冷たかった。



「あれ。……沙耶子ちゃんじゃないか」


 私が志穂さんと向き合って間もなく。暗闇に一つ、灯りが浮き出でた。


「――伊佐木さん」


 ランプの火を揺らめかせながら現れたのは伊佐木さんだった。彼の名を呼べば、志穂さんの身体がびくんと跳ねる。


「夜の一人歩きは危ないから気を付けて、と言っていたはずなんだけどね」


 橙の火に照らされる、少しの驚きが混じった、困ったような笑み。その上では制帽の朝日影が光沢を帯びる。私たち二人を見下ろしながら、伊佐木さんは穏やかな口調で言う。


「その子、私の恋人なんだ。勤務中というところも含めて、今は見逃してくれないかな」


「……晴一の、結婚相手ですよね?」

「ああ。なんだ、知ってるのか」


 口調を厳しくさせて問えば、伊佐木さんはさらりと吐いた。後に続いて出たのは、「どちらにせよ面倒だな」という言葉。低く小さな声だったが、聞き逃せるようなものでもなかった。


 志穂さんはというと、先ほどからカタカタと震えている。不貞がバレて、ではない。怯えているのは明らかに、背後に立つ伊佐木さんの存在そのものに対して。小さく身体を丸める志穂さんの背に向かい、伊佐木さんは口を開く。


「おいで志穂。人様に迷惑をかけるものじゃないよ。……これは私たち二人の問題なんだから」


 どこまでも優しい声だった。ランプの灯りさえなければ、その眼さえ見なければ。こんな状況でも気付かなかったかもしれない。伊佐木さんがその身に潜ませる、仄暗い狂気に。


「や……だ、死にたくない、殺される、助けて、助けて、助けて……!」

「――そう、言ってますけど」


 きっと志穂さんもこの暗鬱とした眼を見たに違いない。逢い引きの最中かは知らないが、気付いて、必死に逃げてきたのだ。小刻みに震える彼女を強く抱き締め、伊佐木さんを見上げる。


 信じたくはない。ずっと、ずっと前から知っている人なのだ。四件の不審火と、それぞれで亡くなった四人の娘。(うたぐ)る気持ちが波紋のように広がっていく。不安と恐怖を抱いたまま、それでも縋るように「伊佐木さん、」と強く名を呼んだ。嘘であって欲しいと願いながら。



「……もう、嫌になっちゃうな」


 軽い溜息が一つ。心底疲れたような顔で、伊佐木さんは何かを放った。私たちのすぐ傍ら、泥に打ち捨てられたそれは、手折られた(すみれ)の花だった。


「これでも選んでいたんだよ。私のためなら死んでもいいと言ってくれるほど、私を愛してくれる人。……皆、愛々しくていい子だった」


 その子たちを思い出しているのだろうか。憂いているのか、悦に入っているのか。到底分からない表情で伊佐木さんは言う。ふっと息を吐くように笑うと、彼は志穂さんを見る。


「でもさ。『他の人と結ばれるくらいなら貴方と死にたい』とか言ってても、いざ手をかけようとすると逃げるんだもの。酷いよ、まったく」


 私がちらりと志穂さんに目をやると、彼女は身を隠したそうに、さらに頭を低くする。


「沙耶子ちゃんはこれからだと思ってたんだけど……仕方ないね。二人一緒だと色々大変だけど、安心して? どちらか一人を粗末になんかしないから」


 首を小さく傾けながら、眼前の彼は甘く微笑む。制帽の下からはみ出した前髪をするりと指でかき分けると、形だけは綺麗な眉目が一層の艶気を帯びる。その双眸は暗く妖しく濡れていた。


「死んでもしばらくは愛してあげられるし――次は大丈夫かもしれない。君たち二人のためなら、私も追いかけられるかも」

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