【14】零れ綻ぶ(1)
あてどもなく走る。目の前の景色を真っ白に吹き飛ばしたくて、必死に足を動かす。着物が邪魔だ。昨日のワンピースならもっと全力で走れるのにと、そんなことが頭をよぎってしまい、自分の馬鹿さ加減にほとほと嫌になる。
町の中心部を離れるとき、駐在所の前を通った。制服姿の晴一と伊佐木さんが路肩に立っているのが見えたが、とてもじゃないが話せないし、今は誰の視界にすら入りたくない。「沙耶子ちゃん?」と水のせせらぎのような声が耳を掠めたが、聞こえないふりをして足を早めた。
誰もいないところを目指して走れば、いつの間にか自分の家とは離れた集落に着いていた。方角は分かるが、初めて訪れる場所だ。山が近い。日陰にはまだ根雪が残っている時期だが、それでも冬に施された雪化粧はところどころ落ちていて、日光が直接当たる尾根なんかは地肌を見せている。その空よりも深い、青々とした山の輪郭がぼやけて見える。霧のせいか、泣いたせいか。
虚ろに農道を歩いていると、土仕事をしていたらしい数人と擦れ違う。腰が曲がり始めた老人と、ふくよかな身体をした妙齢の女性。そして幼児をおぶる二十歳ほどの女性だ。
竜が女性に触れないのはこれからもずっとなのだろうか。当たり前と流していた景色が思い起こされる。汽車で赤子をあやす女性や、あやとりで遊んでいた兄妹とその母親。葉太を産んだときの、母さん。
弟が生まれたのは私が九つのときだ。出産も近くで見たし、子育てだって隣で眺めて、時折ちょっかいをかけたりした。今まで振り返ることのなかったそういった記憶ばかりがよみがえり、また涙が出る。
湿った土の匂いが一気に辺りを包むと、雨が降り出した。雨雲が迫っていたことにも気付かなかった。水桶をひっくり返したような激しい雨。大きな雨粒が肌を刺す。さすがに堪らなくなり、途中で偶々見つけたバス停で雨宿りすることに決めた。
屋根の中に潜り込むと、待合のあるバス停で良かったと少しだけ胸を撫で下ろす。二、三人用の長椅子が置かれただけの簡素なものではあるが、あのまま雨に打たれるよりはここで晴れ間を待つ方がいいだろう。
長椅子の端に座り、横の壁に寄り掛かる。ざあざあ降りの雨が屋根や地面をうるさく叩く。土道に瞬く間に現れた水面を眺めていると、意識していなかった疲れがどっと押し寄せてきた。
竜を選べば、彼にとっての恋人や妻にはなれる。だが竜が変わらない限り、どうしたって子を産む親にはなれない。
逆に、選ばなかったときは。新しい家族が生まれたとしても、そこに竜はいない。彼はきっと家の繋がりに守られて、けして接しない距離で他の女性を見ているだろう。もしくは、それでも遠くから私を眺めていてくれるのだろうか。
帝都での仕事は別にしても。……竜は、前者の幸せを選んだ。
しばらく考えていると、雨音が遠のいていく。屋根から落ちる雨水は変わらず勢いよく、白絹の幕が視界を遮る。頭の回転が徐々に鈍くなり、私は意識することなく、眠りに落ちていった。
*****
どのくらい寝てしまったのだろう。昨日今日と慣れないこと続きで、本当に疲れていたらしい。随分と深く眠ってしまった。いつの間にか雨雲は上がり、代わりに星々が夜空を覗かせている。
……今、何時だ。さすがに家も心配しているはずだと、重い腰を上げる。お茶だの雨だの吸っているから、本当に重い。もう少し寒かったら倒れていたかもしれなかった。
大体の来た道は分かる。暗い一本の農道を進んでいくと、小川沿いの道と合流する。そこから町の中心部の方へと向きを変えると、少し歩いたところで前方に灯りが見えた。
夜闇に浮かび上がった人影は、少女のもの。夜更けだというのに小綺麗な格好で、個人ではあまり持たれることのない石油ランプを小さく灯す、小柄な女の子。
「あ……」
私の姿を見つけて足を止めたのは、晴一の結婚相手――志穂さんだった。
「もう遅いだろう。こんな時間に歩いて大丈夫か。家まで送ろうか」
人のことを言えた義理ではないが、心配する気持ちは本当だ。送る旨を伝えれば、彼女は小さく首を振る。
「……いいえ。人に会えますから、大丈夫です」
ランプが下から照らすせいもあるのか、まるで鬼でも見たような顔だ。確かに雨に濡れてドロドロした様相ではあるな、と自分の身なりを想像しながら口を開く。
「そうか? それならその人に会うまででも……」
「いえ。本当に、大丈夫ですので。どうか私を見たことはお忘れに……」
このまま夜に消え入ってしまいそうな声。昨日の昼間のものより、ずっとか細い。声といい姿といい、儚げな花のようだ。今一度、心配するように彼女を見る。ほんの少し視線を落としたところで、彼女はランプを持たない方の腕をさっと隠した。
「大丈夫ですから。誰にも言わないで――」
喉を震わせながらそう言って、志穂さんは私の横をすり抜けた。そのまま早足で離れていく彼女に、これ以上声はかけられなかった。
十分、いや二十分くらい経ったか。帰り道を歩きながら、ずっと悶々としていた。私が飲み下せない想いを抱える間も、道の脇を流れる小川はさらさらと下流へ向かう。彼女が暗がりの中隠したものは、一瞬だが見えていた。鮮やかな紫が、ランプの光で柔らかな色合いとなって揺れていた。
「……こういうの、お節介というのか」
引き返そう。悩んだが、やはり見過ごせない。私は道の途中で立ち止まると、意を決して踵を返した。ここで流されたら、今後誰とも付き合っていけないと考えてだった。




