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【13】隔つ汐風(3)

「その反応ではやはり聞いていませんでしたね」


 お兄さんの言葉にただ、眉根を寄せた。はいと答えれば竜の非を訴えるみたいだし、かといって嘘を吐くわけにもいかない。何も言えなかった。



 一呼吸分の静寂の後。「竜治」とお兄さんは彼の名を呼んだ。その声はさきほどのものとは打って変わり、強い怒気をはらんでいる。顔を下げたままだんまりする竜に、お兄さんは重く尖った口調で言葉を浴びせる。


「どんな仕事であれ。お前一人では帝都に行かせられないと考えていた。お前のことだ、新しいものに食い付いて遊ぶのが目に見えてる上、何よりその性質(たち)では。失敗するのが落ちだ。――帝都の何がそんなにいい。この町でいいではないか。特異なお前は、黙って家の繋がりの中で生きるのが、誰も傷付けない道だ」


 私への繕いを全て取り払ったお兄さんの顔は入室時とは比べものにならないほど険しい。青磁色の羽織のせいか。沸き立つようで、それでいて冷たい怒りが感じられる。なおもうつむいたままの竜。その様子に猛ったのか、冷々とした怒気を強め、彼は叱責した。


「お前はこの方の先を考えたことがあるか! お前と夫婦の契りを結んで、その先に何がある! 何を残せる! それを言わず連れて行こうなど――不誠実が過ぎるぞ!」


 瞬間。お兄さんが机の湯呑みを勢いよく掴むのが見え、次を覚る。さきほどまで凍ったように動かなかった自分の身体。それが嘘みたいに、このときだけは反射的に動けた。




「沙耶子さん……」


 竜の声と共に、ポタリ、と雫が落ちる。一滴ずつ、視界に映る机の色が濃いものへと変わる。淹れてもらってから時間が経っていたから熱くはない。お茶は生温く、こんなときにどうかと思うが――高級そうな良い香りがした。


 机から膝を下ろし、身体を引く。竜に()れないように咄嗟に身を乗り出したが、相当に行儀が悪かった。頭からお茶をかぶった私を、竜も、お兄さんも、呆然とした表情で見ていた。


 もう帰ろう。でもその前に、伝えたいことは伝えなければ。私は座布団から畳へ下がると、竜のお兄さんへ頭を下げる。


「竜と――竜治さんと、私とのことはいいのです。それより、竜治さんのやりたい仕事について、ちゃんと話を聞いてやって下さらないでしょうか。けして新しいものが好きだからとか、帝都で遊びたいからとか、そんな理由ではないです。竜治さんだってこちらの家と、この町のことを想ってる。甘いと一笑されるかもしれませんが、それは間違いないのです」


 顔を上げると、お兄さんと目が合った。驚いてはいるが、理知的な目だ。私はもう一度頭を下げた。


「どうか二人で、ゆっくり話をして下さい。お願いします」


 言い終えると、力を入れていた胸から小さく息が漏れた。あとほんのもう少し。丸まった身体に力を入れ直す。


「帰ります。お邪魔いたしました。私などのお話を聞いて下さり、ありがとうございました」



 そこまで言い切るとすぐに立ち上がり、部屋を下がった。二人が話す間も与えない一方的なものだったが、何か言われてもそれに返す余裕はない。要するに言い逃げだ。来た道を辿り廊下を曲がれば、あとは駆けるように階段を下り、草鞋を履く。急げ、急げと心臓が鼓動する。仏壇を視界の端に留めながら、雄々しい鮭たちに見下ろされながら、通り土間を小走りで抜ける。



 中庭から離れの脇に差し掛かるところで、呼びとめられた。


「沙耶子さんっ……!」


 立ち止まり振り返ると、ハンカチを掴んだ竜が立っている。


「すみません……これ……」


 拭いて下さい、という意味だろう。私は差し出された真っ白のハンカチを見やって、腕を伸ばして――それを掴まなかった。


 手を伸ばした先はハンカチを持つ竜の腕。よれのない紫紺の上着を掴もうとすれば、竜は勢いよく腕を引いた。そのあからさまな反応に、ぐっと唇を噛む。頭に血が上ったのが自分でも分かった。もう一度、竜の身体へと腕を伸ばす。意地でも掴んでやろうと、袖を振りまわす。


「ちょっと! 沙耶子さん! 落ち着いて!」


 悲鳴にも近い竜の声が神経を逆撫でする。


「どうして! どうして今になるまで話してくれなかった! 私が、これを聞いて! 嫌いになるとでも思ったか!」


 何度も伸ばす手は全て空を切る。すり抜けるように私を(かわ)していく竜の表情も必死で、悲壮に満ちている。


「気付いてたよ! お前が私に触ろうとしないことくらい! ――昨日の出掛け先で! それが、私にだけじゃないと知って、安心したくらいだからな!」


 洋裁店での話なんて滑稽なくらい顕著だった。あんな綺麗な人でも拒否されるのなら、私なら当然だと。そんな考えすらよぎったものだ。


「でもな! これは、言いにくかったじゃ、すまない! 私は、何かのこだわり程度にしか! 思っていなかったんだぞ!」


 勢いよく縋った手は、再び空振りした。今私はどんな顔をしているのだろう。自分でも分からなかったが、ただ、竜の方は。私の顔を見て泣きそうな表情をつくると、糸が切れたように地面に座り込んだ。こっちが悲しくなるくらい、腰が抜けたような、腑抜けた姿勢だ。私は腕を伸ばすことを止めた。


「……そんなに怖いか」


 竜を見下ろし呟くと、すみません、と彼は唇を動かした。私の耳に届かないくらい声は小さい。急に目が染みてきて、視界が霞んだ状態のまま竜を睨みつけると、彼は顔を逸らした。


「ずるい。ずるいよ、竜。……問題が大きすぎる」

「すみません……ごめんなさい……」


 これ以上一緒にいたくない。謝罪もそうだが、それ以外の言葉も絶対に聞きたくはなかった。項垂れる竜を見下ろしていた私は、何も言わず歩き出した。離れの横の通路を行き、戸口をくぐる。今度は竜は、追いかけて来なかった。

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