14
捜していた人がすぐ近くにいるのに、永遠に手の届かない場所へ行ってしまいそうな恐怖が体を駆け巡った。
……こんな結末を、願っていたわけではないのに。
「ソフィア、ソフィア……!」
セルジュは震える手でソフィアの顔を持ち上げ、水面から救い出した。けれど、彼女の反応はなく、見下ろした顔は血の気がないほど白かった。
「侯爵様、彼女を川岸に!」
「そ、そうだな……っ」
一人でも抱き上げられるかと思ったが、脱力した体と、水を吸った衣類も驚くほど重かった。
セルジュは上半身を、ハリーは脚を持ち上げ、協力してソフィアを川岸へ運んだ。川に浸かっていた体は体温を感じられないほど冷たくなり、息をしていなかった。
「ソフィア、返事をしてくれ!」
どうしたらいいか分からず、セルジュはソフィアの頬を軽く叩いた。
一瞬、棺に入れられた母の姿と重なる。大切な人を亡くした過去があるからこそ、この状況が恐ろしくて仕方なかった。
「侯爵様、まずはソフィのコルセットを脱がせてください!」
「──っ、ああ!」
こんなときこそ冷静に対処しなくてはいけないのに、ソフィアを失うと思った瞬間、正気ではいられなくなった。
セルジュはぐっと奥歯を噛みしめ、剣を抜いて自身の手が傷つくことなど構わず刃を握った。それから、ソフィアの胸元を覆うコルセットの紐を鷲掴み、紐の真下に刃先を入れて彼女を傷つけないように切り離した。
ハリーはソフィアの気道を確保し、すぐに彼女の胸を押して心肺蘇生を行った。彼がいなかったら頭が真っ白になって、何もできずにいたかもしれない。
「ソフィ、ソフィ! 頼むから戻ってきてくれ……っ!」
悲鳴に近いハリーの声が響き渡る。この男もまた、本気でソフィアを愛していたことが痛いほど伝わってきた。
セルジュもソフィアの手を掴んで声をかけ続けた。
──刹那、ソフィアがゴホ……ッと、小さく水を吐き出した。
「いいぞ、ソフィ! 侯爵様、彼女の顔を横に向けてください!」
「ソフィア、戻ってくるんだ! レオンは、君がいないと駄目なんだ!」
指示通りソフィアの顔を横に向けると、彼女はさらに水を吐き出して咳き込んだ。
呼吸を取り戻したソフィアに安堵するも、まだ反応が薄い。やはり、睡眠に効果がある薬草を飲んだせいだろうか。
彼らは相談し、ソフィアが十分に水を吐き出したのを確認すると、二人がかりで町医者の元へ運んだ。これから先の治療は、専門家の知識が必要だと判断してのことだった。
簡潔に事情を説明すると、医者は「なんてことをっ」と嘆きながらも、ソフィアの治療にあたってくれた。医者の妻も着替え用の服を持って診療室に入り、手伝ってくれていた。
治療が終わるまで休憩する場所は教えられていたが、セルジュとハリーは診療室の前で待つことにした。
ソフィアに死を選ばせるほど、追いつめてしまった──そのことが脳裏をかすめ、治療を待っている間も両手の震えが止まることはなかった。
「──もう大丈夫だ。見つけるのが早かったおかげで、軽症で済んだ」
診療室から出てきた医者は、自分もホッとした様子で教えてくれた。セルジュは全身から力が抜けて、倒れ込みそうになった。なんとかその前に壁に手をついて深呼吸する。
「それから、掌と脚の打撲と擦り傷、手の甲の火傷……どうやったらそんな酷い怪我を負ってくるのか分からんが、治療はしておいたぞ」
セルジュを貴族と知っても尚、医者の態度は変わらなかった。現に今も、ソフィアの怪我を責め立てるような口ぶりで報告してきた。
だが、ソフィアをこのような状況に追い込んだのは自分だけに、何も言い返すことができなかった。
「彼女の様子を見ることはできるか……?」
相手が平民だろうが、ソフィアを助けてくれた医者に頭を下げて敬意を示すと、彼は診療室に続く扉を開けてくれた。セルジュはもう一度医者に頭を下げると、ソフィアの元へ急いだ。
「……ソフィア」
危機を脱したソフィアは眠っていたが、白かった頬には血の気が戻っていた。
今すぐに彼女を失うことはない──それが、どれほど嬉しいことか。この気持ちを直接伝えたかった。
すると、真横に人の気配がして、目頭を押さえた。
「……ソフィにバレリアンの効果を教えたのは、俺なんです」
「なんだと?」
隣に肩を並べてきたのは、同じようにソフィアを捜し続け、命を救ったハリーだった。しかし、彼は薬草の効果を教えたのは自分なのだと、己の罪を告白し始めた。
「……そんなつもりじゃなかったんです。彼女が、効果を間違えて飲んでいたお茶があったので、そのことを教えてあげたら、他にも知りたいと言ったので……」
料理でも使うことから薬草に詳しかったハリーは、自分が持っていた知識を教えただけだった。
悪気があって教えたわけでないことは、これまでの行動を見ていれば分かる。そして、こんなことが起こるなら教えるんじゃなかったと、後悔する気持ちも理解できた。
「それで、ソフィアは何の薬草を飲んでいたんだ」
「それは……」
ソフィアが飲んでいた薬草を訊ねると、ハリーは答えるのを渋った。ただ、相手が貴族である以上、強制的に吐かせられるより白状してしまったほうがいいと考えたのか、言い難そうに答えた。
「……シルフィウムです。主に、催淫と避妊の両方に効果があります」
「馬鹿な、なぜそれをソフィアが……」
「詳しくは知りませんが、子を授かりやすくなるためのお茶だと言われて、メイドが毎晩用意してくれたものだと」
「──……」
頭を金槌で殴られたような衝撃だった。
これが世間に広まれば、浮気をするために避妊していたと新たな醜聞が流れたかもしれない。そして、昔の自分だったらソフィアが避妊していたことを、さらに咎めていただろう。
だが今は、服のボタンを掛け違ってしまったような違和感を覚えた。
自分の愛していた妻は、本当に不貞行為をするような女性だったのか。本当にお茶の効果も知らず、それを初夜から飲んでいたのか。
セルジュは思い立ったように診療室を出ていくと、医者のところへ向かった。
「すまないが、彼女を王都の屋敷に連れ帰りたい。残してきた息子が心配なんだ」
先程まで生死をさ迷っていた体だ。すぐにどうこうできる状態でないことは百も承知だった。しかし、ソフィアの無事が確認できた今、屋敷に置いてきたレオンが気がかりだった。
「……軽症で済んだとは言え、最低でも一日は様子を見たいところだが」
「私の屋敷でも侍医はいる。向こうに着いたら必ず彼女を診せると約束する」
「貴族様のお抱え医者のほうが腕も確かだろう。……適切な処置ができるよう手紙を書くから、それを渡してくれないか。彼女もすぐには目覚めんが、起きて移動するより負担も軽いはずだ」
ここで行う治療に不安があったのか、セルジュは了解し、乗ってきた馬の世話をしながら出発する準備に取り掛かった。
念入りに支度を終えて診察室に戻ると、微かに話し声がした。
「……ン、……私、の……」
「ソフィ、レオンは大丈夫だよ。とても元気にしているから、今は安心してゆっくり休んで」
ソフィアはまだ眠っていたが、寝言で息子の名前を呼んでいた。近くで看病していたハリーは床に膝をつき、優しく声をかけていた。セルジュに遠慮したのか、手を握りしめることもなく、ただ近くで寄り添っていた。
まるで、仲睦まじい夫婦のように見えて、嫉妬を覚えずにはいられなかった。
「私の妻に付き添ってくれて感謝する。レオンも、私たちの帰りを待っているはずだ」
「あの、やはりレオンは……」
「──私の息子だ。いずれ私の後を継ぎ、ランドリー侯爵家の当主となる子だ」
平民の身分では、いくら手を伸ばしても届かない存在に。
セルジュは寝ているソフィアに近づき、布を剥いで抱き上げようとした。彼女が目を覚ます前に、一刻も早く屋敷へ戻りたかった。弱り切った彼女を、他の誰にも見せたくなかったのだ。
しかし、急いで連れ帰ろうとするセルジュに、ハリーが落ちた布を拾い上げて渡してきた。
「待ってください、侯爵様。どうか、彼女をこの布で覆ってください。……ソフィは男性に触れることも、触れられることも苦手なんです」
「な、に……」
裏切られた直後だったら、数多くの男を誑かしてきた女が男に触れなくなるなんて、何の冗談だと笑い飛ばしていたはずだ。
だが今は、ソフィアにも事情があったとして、再会した彼女が冷たくあしらってきたことにも納得がいく。
これまで自分は、彼女の何を見て、何を見てこなかったのだろう。
何を信じて、何を信じてこなかったのだろう。
「気遣い、感謝する」
セルジュはハリーから布を受け取り、ソフィアの体を覆ってから持ち上げた。
ソフィアを運んでいく途中、医者が手紙を渡してきた。受け取ったセルジュは二人にお礼を伝えると、彼女を抱えて馬に跨った。
最後の最後までソフィアを心配そうに見つめていたハリーからソフィアを隠すように、手綱を握り締めて馬の腹を蹴った。
侯爵邸に戻ったら過去の真相を明らかにし、隠された真実にたどり着いてみせる。
決意を新たにしたセルジュは、ソフィアを連れて王都に舞い戻った。
だが、帰ってきたセルジュを待っていたのは、行方知れずとなっていた弟ハインツとの再会と、数多くの裏切りと、知るには遅すぎた真実だった──。





