ローゼマインの誘い
「ツェントとお話しする前に聞いておきたいことがあったので、本当に急で申し訳ございません」
ローゼマイン様に「可能ならば今すぐにでも」と言われ、わたくしはお断りすることもできず、アレキサンドリアのお茶会室に足を運びました。シャルロッテ様の「様々なことが急激に動く」という言葉が頭の中をぐるぐると回ります。
「神々の世界についてお話をすることになるので、本当に申し訳ございませんけれど、側近の方々を排してもよろしいでしょうか? 衝立の奥で待機していてくださいませ」
「ツェントとお話しする時もそうでしたから問題ございませんよ」
お茶やお菓子の毒見を終えると、ローゼマイン様は側近達に詫びながら衝立の奥で待機してくれるようにお願いします。わたくしの側近達はローゼマイン様の側近に案内されるまま、仕方なさそうに移動します。
二人だけになると、わたくしはローゼマイン様に差し出された盗聴防止の魔術具を手にしました。
「今回はわたくしやフェルディナンドの事情にハンネローレ様を巻き込んでしまい、本当に申し訳ございませんでした。ハンネローレ様が第二の女神の化身と騒がれ、複数の領地から嫁盗りディッターの申し込みを受け、大変なことになったとレティーツィアやリーゼレータから聞いています。そんな中でハンネローレ様はレティーツィアの立場にご配慮くださり、ヒルデブラント様に助力をお願いしてくださったのでしょう? 心よりお礼申し上げます」
新領地アレキサンドリア唯一の領主候補生として残されたレティーツィア様は大変難しい立場に置かれていたようです。
「わたくしの助言が役に立ったならば嬉しいですけれど、それほど大したことはできていません。自分のことで手一杯になってしまい、図書委員として魔力供給もできていないのです」
「今年から上級司書がいるので、そちらは問題ありません。ハンネローレ様に余裕がある時だけで構いませんから……」
貴族院図書館へ行けていないわたくしに、ローゼマイン様は「大丈夫ですよ」と軽く笑って手を振ります。
「それより、フェルディナンドがハンネローレ様に再降臨を求めたのでしょう? ツェントのところへ同行した側近から報告を受けて血の気が引く思いをいたしました」
「糸を繋ぎ終わってもローゼマイン様が戻らなかったのですもの。フェルディナンド様が心配する気持ちはわかります。……少々強引だったことも事実ですけれど、わたくしも対価をいただいていますからお気になさらず……」
けれど、ローゼマイン様は頭を左右に振りました。
「リーゼレータから最初の降臨の後、ハンネローレ様が目覚めるまでに十日ほどかかったと聞きました。女神の御力の影響もあり、講義に出られるまで更に数日がかかったようだ……と。今回はもう目覚めていらっしゃいますが、フェルディナンドが再降臨を求めたことで何日も講義に出られなかったはずです」
否定はできません。わたくしは曖昧に微笑んで受け流します。
「軽く見積もっても、ハンネローレ様の貴族院生活の四割弱が潰されています。わたくしは領主候補生コースの講義を終えていますし、神々の関わる事件が起こることを想定して貴族院に来ていますが、ハンネローレ様は何の心構えも準備もなかったでしょう? どれほど迷惑をかけたのかと思うと、わたくし……」
想像していたよりずっとローゼマイン様は気に病んでいるようです。困りました。対価もいただいているので、わたくしはそれほど気に病んでほしいとは思いません。
「ローゼマイン様、わたくしとしては神々の世界に赴いたことで得られた気付きもありますし、普通の方では目にできないものを見た驚きや喜びもありました。対価もいただいたので本当にお気になさらないでくださいませ」
ローゼマイン様も神々に巻き込まれたのです。いつまでも謝罪されたくありません。わたくしは少し強引に話題を変えることにしました。
「それより、ツェントより先にお話ししたいこととは何でしょう?」
「……神々による星結びの件です。誰にどのように報告しているのか教えてくださいませ。その、フェルディナンドやアレキサンドリアの者達は知らないようでした。ツェントやダンケルフェルガーに報告されているのでしょうか?」
ツェントから知らされているだろうと思っていましたが、フェルディナンド様はまだご存じないようです。きっとフェルディナンド様の求めること以外をお話しできるような空気ではなかったせいでしょう。
「ツェントにはローゼマイン様の糸の一部を代償にしてフェルディナンド様の糸を繋ぐことと、そのために神々による星結びが行われたことを報告しました。それ以外は誰にも、自領にも伝えていません」
ローゼマイン様が戻ってから、フェルディナンド様を含めて当人達でどの程度の情報をいつどのように公表するのか決めるのが一番だと伝えると、ローゼマイン様はホッとしたように胸を撫で下ろしました。
「ハンネローレ様のお心遣いに感謝します。今後もできれば誰にも言わず、心の内に秘めておいてください。この後ツェントと話し合うつもりですが、何もなかったことにするつもりですから」
ローゼマイン様は貴族院を卒業した後、春の終わりの領主会議で星結びの儀式を行う予定でした。それをわざわざ変更するつもりはないそうです。他領からの特別視はこれ以上必要ないとおっしゃいます。
「フェルディナンドにも内緒でお願いしますね。伝えるのに少し時期を見計らわなければ神々に文句を言いに行きそうなのです」
苦笑混じりにそう言ったローゼマイン様に、わたくしも苦笑で応えつつ女神様達の酷評を思い出しました。
「時の女神にも色々と反抗的なことを述べていたようですし、時期を見計らうのは大事ですよね」
「……フェルディナンドが時の女神に対してどのようなことを言ったか、ハンネローレ様はご存じなのですか? わたくしは神々から伺っていませんし、フェルディナンドも口にしていませんが、何かしたのですね?」
むむっと眉を寄せて身を乗り出したローゼマイン様に、わたくしは少し考えます。神々による酷評をわたくしからローゼマイン様にお伝えしてもよいのでしょうか。何だかフェルディナンド様に睨まれそうな気がします。
「申し訳ございませんが、わたくしに時の女神が降臨していた時なので、わたくし自身は正確には存じません」
「あら? では、ハンネローレ様がご存じなのは何故でしょう?」
「時の女神に体を貸して待機している時に縁結びの女神や機織りの女神がフェルディナンド様について話していたのを耳にしまして……。フェルディナンド様が時の女神に何とおっしゃったのか、その場にいたツェントならば詳しくご存じでしょう」
わたくしはさりげなくツェントを回答役として差し出し、自分の身の安全を図りました。あら、と楽しそうに目を輝かせるローゼマイン様は何だかフェルディナンド様の弱みを握ったような顔をしています。
……ツェント、よろしくお願いしますね。
「レティーツィア様から伺ったかもしれませんが、ダンケルフェルガーには記憶の戻った者が何人かいて、多少ですがローゼマイン様の活躍を耳にしています。切られた糸の修復は大変だったようですね」
「えぇ、大変でした。降り立つところ、降り立つところ、全てでフェルディナンドが死にかけていますし、糸を繋げられるのが自分だけというのがとても重くて……」
フェルディナンド様がどうして死の淵にいるのかわからないまま、どうすれば救えるのかその場で必死に考えて動いていたとローゼマイン様はおっしゃいます。
「それに、わたくしに許されていたのはフェルディナンドの糸を繋ぐことだけです。どれだけ助けたくても、それ以外の方に手を伸ばせないのがどうにも辛かったですね」
陰りを帯びた目でローゼマイン様が小さく零しました。過去の世界で何があったのか詳しくは教えてくれません。それでも、糸を繋ぐのが簡単ではなかったことだけは痛いほど伝わってきます。
「それでも、ローゼマイン様はやり切ったのです。フェルディナンド様も、ユルゲンシュミットの二十年分の歴史も救ってくださいました。わたくしは感謝しています。他の方を救うことを許さなかったのは機織りの女神ヴェントゥヒーテではありませんか。ローゼマイン様は女神が望む通りの修復を成し遂げたことのです。むしろ、誇ってくださいませ。他の誰にもできなかったことです」
碌な慰めの言葉が思い浮かばず、わたくしは自分の感謝を伝えました。過去を変えられなかったことで自分を責めないでほしいのです。ローゼマイン様はゆっくりと顔を上げて、わたくしと目が合うと嬉しそうに目を細めました。
「わかりました。救えなかったのは神々のせいだと思うことにします」
ニコリと微笑み、お茶を飲むローゼマイン様はいつもの笑顔に戻っていました。それほど簡単に割り切れるとは思えませんが、少しでも気を楽にしてほしいものです。
「わたくしは神々に糸を補う方法を教えられましたし、素材も得ました。こちらに戻れたことでわたくしは全て終わりましたが、ハンネローレ様は今も大変なのでしょう? 男神達はディッターを心待ちにしているようですし……」
「……えぇ、それに関して先程までシャルロッテ様とも話をしていたのです」
わたくしはローゼマイン様にこれまでの流れを説明しました。目覚めたら多くの領地から嫁盗りディッターを申し込まれている状態だったこと、ツェントの管理下で行うことになったこと、ディッターの詳細を知らされた領地の多くが辞退して四領地が残っている状態であること……。
「四領地とはどちらですか?」
「コリンツダウム、ドレヴァンヒェル、ギレッセンマイアー、ハウフレッツェです。ドレヴァンヒェル以外の三領地は協力体制を取っているようです」
わたくしがコリンツダウムの暗躍が実に厄介であることを伝えると、ローゼマイン様が頷きました。
「レティーツィアから話を聞いています。彼女の実兄がドレヴァンヒェルの領主候補生のランスリット様なのですけれど、今回の嫁盗りディッターはドレヴァンヒェルの次期領主争いの場でもあるようですね」
「嫁盗りディッターに勝利すればオルトヴィーン様が次期領主に決定しますから、同じように次期領主を目指すランスリット様が妨害しているのでしょう?」
わたくしの言葉にローゼマイン様は不思議そうな顔になって少し首を傾げました。
「いいえ。次期領主を望んでいるのはランスリット様ご本人ではなく、第二夫人とその実子ですよ」
レティーツィア様がドレヴァンヒェルの情報を仕入れているのでしょうか。ずいぶんと詳しい情報が出てきます。
「アウブ・ドレヴァンヒェルが一度は劣ったシュタープの世代を除いて次期領主を決めたいとおっしゃったのですって。それなのに、オルトヴィーン様はそれを受け入れず、色々と根回しをして嫁盗りディッターで次期領主の座を得ようとしたらしく、他の領主候補生の反発が大きいそうです」
わたくしの脳裏には女神の降臨前、オルトヴィーン様とダンケルフェルガーの次期領主について話をしたことが蘇りました。
……もしかするとダンケルフェルガーではお兄様が次期領主で揺らがないとわたくしが伝えたことが、ドレヴァンヒェルの次期領主争いのきっかけになったのかもしれません。
「ランスリット様はコリンツダウムとも接触があるようで、献策しているとも聞いています。オルトヴィーン様はかなり苦しい立場に置かれているのではないでしょうか」
「わたくし達もそう予想していますが、ダンケルフェルガーにはドレヴァンヒェルやオルトヴィーン様の情報が非常に入りにくい状況になっているのです」
わたくしは嫁盗りディッターをツェントの管理下で行えるように変更したため色々と不都合が起こっていること、現在は無関係の領地を巻き込んだ社交問題が表面化していて調整が必要であることを伝えました。
「辞退して謝罪の済んだ領地を早めに公表するとか、ダンケルフェルガーが他領の社交に目くじらを立てることがないことを伝えるとか……。できるだけ社交期間への影響を抑えられるように何か考えるつもりです」
領地を跨いだ婚約などを妨害したいわけではありません。しかし、ダンケルフェルガーとしては今まで嫁盗りディッターに無関係な方々へ特に配慮することなどなかったので、どう対応すべきかよくわからないのです。
……今まで通り自由に交流してくださいませと言えば、こちらの意図は通じるのでしょうか? いつどのように伝えればよいのでしょうね?
「シャルロッテ様から情報を得た直後なので、ツェントやお父様とこれから話し合う予定です。対応が決まった際はローゼマイン様もご協力くださいませんか? 当事者であるダンケルフェルガーでは働きかけが難しい領地もございまして……」
ローゼマイン様は何か考えるように頬に軽く手を当てて、わたくしを見つめました。
「協力するのは構いませんけれど、ハンネローレ様はお相手を決めたのですか? わたくし、婚約者候補から選べないと言っていたところで止まっているのですけれど……」
「はい。わたくしはケントリプスを選びます。ラザンタルクでは条件を満たせませんから」
「……条件、ですか?」
わたくしはダンケルフェルガーにおける自分の立場、これから求められる役目や能力、側近の意見などを加味して考えるとケントリプスになると説明します。
ローゼマイン様が「選べないと悩んでいた以前と違って、ずいぶんと割り切ったのですね」と目を丸くしました。
「わたくし、以前は結婚相手を恋愛感情で選ばなければ……と思っていたのです。二人とも幼い頃から知っていますし、好かれていることはわかりますし、わたくしも好ましく思っているのですけれど、わたくしの想いは物語のような恋心ではないのです」
「物語と現実は違うと思いますけれど……」
わたくしには現実の方が難しいのです。恋に恋をしているような状態で相手をきちんと見ていなかったり、人が持つ様々な面に戸惑ったり、言葉の意図を違って捉えていたりするので、物語ほどわかりやすくありません。現実の恋こそわたくしには理解できないのです。
「物語と現実が違うことはわかっていますが、ローゼマイン様のフェルディナンド様に対する想いでさえ恋愛感情でないのですから、どのような感情ならば恋愛になるのか、本当に難しくて……」
「うぁ……。あの、ハンネローレ様、その、わたくしを基準にしてはダメですよ」
両手で顔を隠すようにして下を向いたローゼマイン様の反応に、わたくしは目を何度か瞬かせました。手で隠れていない部分が赤く染まっています。これまでとあまりにも反応が違うことに「……え?」とわたくしはゆっくり首を傾げました。
「ローゼマイン様、もしかして恋心がおわかりに……?」
「……そ、そうですね」
恥ずかしそうに視線を逸らされました。一瞬の沈黙の後、わたくしは手の内にある盗聴防止の魔術具を握り締めて身を乗り出します。
「あの、詳しく! 詳しくお願いします!」
「詳しく、と言われても……」
以前は恋物語の恋心さえつかめていなかったローゼマイン様に先を越された敗北感と、現実の恋心を理解できた貴重な先人から話を聞く機会を失ってはならないという焦燥感を胸に、わたくしは食い入るようにローゼマイン様を見つめました。
「あれほど恋ではないとおっしゃっていたローゼマイン様が理解されたのですよね? いつ、どこで、どうすれば恋心がわかるのですか?」
「多分わたくしは鈍かったのです。それまでに育っていた想いがあったことに気付いたというか……。えーと、その……過去の世界でのことですから、詳しくは言えませんけれど……。少なくともわたくしと同じ状況でハンネローレ様が恋に落ちたり、気付いたりすることはないと断言できます。……わたくし、かなり特殊ですから」
言葉を探してローゼマイン様の月のような金色の目があちらこちらへ行ったり来たりします。今までにない表情や仕草を見せるローゼマイン様に何だか不安になってきました。本日これまでに出てきたフェルディナンド様に関する話題で、ローゼマイン様はこのように取り乱していなかったことに気付いてしまったのです。
「あの、ローゼマイン様。つかぬことを伺いますが、過去の世界でどなたか別の方と恋に落ちたわけではありませんよね? お相手はフェルディナンド様ですよね?」
「え? あ、はい。……それは、さすがに、フェルディナンドです」
確認できて安心しました。過去の世界で別の方にローゼマイン様が恋した場合、フェルディナンド様がどのように反応するのか全く予想できません。正確には怖くて考えたくありません。
「ハンネローレ様、もうわたくしのことはよいではありませんか」
「よくありません。フェルディナンド様のところへ戻れるように時の女神が計らったと聞いています。恋愛感情を自覚した上で再会してどうでした?」
わたくしが問うと、ローゼマイン様の表情から照れと笑顔がストンと抜け落ちました。
「……叱られました」
「え、えーと……」
「わたくしの糸を使ったことや女神の言葉に易々と乗ったこと、危険を冒した過去の出来事についてどうすべきだったか教えられたり、発言の意図や意味を問われたり……」
「あ、あら……?」
「背筋が寒くなって泣きたくなるようなキラキラの笑顔で追い詰められました。それにホッとしたりドキドキしたりした自分が嫌です!」
……ローゼマイン様はドキドキしていたのですか。恐怖ではなく?
詳細を知らなければ甘いやり取りに見えるいつもの状態だったのかもしれません。頷きながら聞いていると、ローゼマイン様が恥ずかしそうに目を潤ませてわたくしを睨みました。
「ハンネローレ様こそ、どうなのですか? 条件で選んだとおっしゃいましたが、お相手から好かれていることはご存じなのでしょう? 自覚がないだけでとっくに恋愛感情が芽生えているかもしれませんよ」
「芽生えればよいと思っていますけれど、どうすれば恋心を抱けるのかよくわからないのです。参考のためにも、もっとローゼマイン様のお話を伺いたいです」
わたくしがニコニコと恋のお話をねだると、ローゼマイン様が「うっ……」と怯んだように呻いた後、貴族らしい作り笑いでニコリと微笑みました。
「今は恋心より嫁盗りディッターです。ディッターを終えなければお相手が確定しませんものね」
よほど恥ずかしかったのか、唐突に話題を変えられました。とはいえ、嫁盗りディッターは重要なので、わたくしは話題を変更しても構いません。もう少し恋のお話を伺いたかったのも事実ですけれど。
「お話を伺うとハンネローレ様のおっしゃる通り、色々と問題がありますね。特に無関係の領地の交流に広く影響がある点は改善が必要だと思います。一領地のアウブとしても協力させていただくつもりです」
「申し訳ないのですが、神々の世界から戻った女神の化身の立場でもお願いできませんか? わたくし、再降臨を伏せているので男神達がディッターを望んでいることを周知できないのです」
「あぁ、確かにそれは神々の世界から戻ったばかりのわたくしが適任ですね」
わたくしとローゼマイン様は不都合が起こっている現状をどうにかするための方法を話し合いました。
「助かります、ローゼマイン様。コリンツダウムを始めとした求婚者の領地は一般学生に混乱を広げるだけですし、ダンケルフェルガーが動くだけではどうにも収拾が付かないのが現状なのです」
「ハンネローレ様が第二の女神の化身とされた原因がわたくしとフェルディナンドですから、協力するのは構いません。ただ、とても不思議なのですけれど……どうしてそれほどハンネローレ様が嫁盗りディッターのことで思い悩まなければならないのでしょう?」
心底不思議そうに言われ、わたくしも不思議に思って首を傾げます。
「……わたくしが当事者だからですけれど……?」
「確かに当事者ですけれど……。そもそも結婚は父親が決めることですよね? 娘は父親の決定に逆らえない分、結婚に付随する面倒事は決定権を持つ父親が処理するはずです」
確認するようなローゼマイン様の言葉にわたくしは頷きました。ダンケルフェルガーでも娘が想い合う殿方と一緒になるために起こした嫁取りディッターや、求婚の課題を得て強行する婚姻でもない限り、父親が全てを決めて処理します。
「特に今回はハンネローレ様が目覚めたら嫁盗りディッターの申し込みが殺到していたのですよね? 未成年の、それも、奪い合われる花嫁の立場であるハンネローレ様が、望んでもいない殿方のために思い悩み、奔走する必要があると思えないのです」
「でも、影響が出ているのが貴族院なのでお父様達は立ち入れませんし、わたくしはダンケルフェルガーの領主候補生ですから……」
面倒事の処理などわたくしも別にしたくはありませんが、立場に付随する責任でもあるのです。
「それはそうでしょうけれど、父親であるアウブと、貴族院で嫁盗りディッターを行うとおっしゃったツェントが管理すべきです。嫁盗りディッターでダンケルフェルガーの学生を煩わせないように……とツェントがおっしゃったのでしょう? ダンケルフェルガーの学生にハンネローレ様も含まれるとわたくしは思いますよ」
ローゼマイン様の労るような笑顔に、「わたくしも学生ですので!」と様々な調整を放り出してしまいたい誘惑と、ダンケルフェルガーの領主候補生としての責任の間でわたくしの心がグラグラと揺れます。
「……それはそうですけれど……。原則として貴族院に大人は介入できません。問題が起こる度にツェントとお父様が直接話し合うのは難しいです。貴族院に滞在しているわたくしが仲介するしかないでしょう?」
ググッと背筋を伸ばして、わたくしはダンケルフェルガーの領主候補生として責任を選択しました。今はお父様から「自領に残る領主候補生の資質」について色々と見定められているところなのです。いくらローゼマイン様のお言葉を魅力的に感じても、責任を放棄することはできません。
「……ハンネローレ様は責任感が強いのですね。わかりました。その辺りの対策はわたくしの方で考えてみますね。フェルディナンドに相談すれば、きっと何か良い案が浮かぶでしょうから」
「恐れ入ります」
甘美な誘惑を断ち切ったこと、それから、フェルディナンド様に相談してくださることにわたくしは胸を撫で下ろしました。ローゼマイン様お一人が暴走すると大変なことになりそうですが、フェルディナンド様が関わってくださるならば大丈夫でしょう。
……シャルロッテ様も「叔父様を呼べば……」とおっしゃいましたし……。
「では、お話し合いは終わりにしましょうか。ハンネローレ様は嫁盗りディッターのことより考えなければならないことがたくさんあるでしょう?」
女神の降臨で意識のなかった期間が長く、それに加えて女神の御力の影響が消えるまで講義に出られませんでした。ローゼマイン様が講義の進捗を心配してくださっていることを理解しつつ、わたくしはねだるようにローゼマイン様を見つめます。
「考えることはたくさんあるのですけれど、どうしたら自分の恋心に気付けるのか気になって講義が手に付きません。ローゼマイン様が教えてくだされば、わたくし、講義に集中できると思うのですけれど……」
この後、三度目の女神降臨のように想定外のことが起こらなければ、社交期間の半ばには講義を終えられると予測できているからこそ言えることです。「え!?」と一度目を見開いた後、ローゼマイン様は「うーん……」と考え込み始めました。
……もう少し押せば……。
「ローゼマイン様、お願いします。わたくし、ローゼマイン様とフェルディナンド様のように結婚相手とは信頼感も愛情も育てたいのです。何か参考になることを教えてくださいませ」
ローゼマイン様はむむっと眉を寄せて考えながら盗聴防止の魔術具をテーブルの上に置きました。どうやらお話は終わりのようです。わたくしも恋のお話は諦めて盗聴防止の魔術具をテーブルに置きます。
「ハンネローレ様の参考になるかどうかわかりませんけれど……」
そう言いながら、ローゼマイン様は呼び鈴を鳴らしました。衝立の奥にいた側近達がぞろぞろと出てきます。
「確かクラリッサは求婚の課題を得る時にハルトムートを押し倒して口付け、魔力の確認をし、結婚できるか確認したそうです。それがダンケルフェルガーのやり方ならばハンネローレ様も試してみてはいかがですか?」
……クラリッサ!
わたくしは頭を抱えたくなりました。求婚の課題を得ていたことは知っていましたが、まさか口付けて魔力の確認をしていたなんて知りませんでした。
……そのせいでダンケルフェルガー全体が破廉恥な印象を持たれているではありませんか!
衝立の奥から出てくるなり、自領出身の貴族の暴挙を知らされたわたくしの側近達も驚きに固まっています。一人だけ顔を取り繕うことができたコルドゥラがニコリと微笑みました。
「ローゼマイン様、一体何の話をしていたのでしょう?」
「神々の世界のお話、嫁盗りディッターの影響、それから、少しだけ恋のお話を……。ダンケルフェルガーの女性が結婚相手を見定める方法について、でしょうか」
ローゼマイン様の言葉にコルドゥラがピシリと凍りついたのがわかりました。これは後で大変なことになりそうです。わたくしはひっと息を呑みました。
「ち、違います。そのようなこと、ダンケルフェルガーの全員がするわけでは……。クラリッサの個人的な暴走です。ローゼマイン様、誤解なのです。ねぇ、コルドゥラ?」
「そうなのですか?」
ローゼマイン様の視線がわたくしとコルドゥラの間を行き来します。
「えぇ、間違いなくクラリッサの個人的な暴走です。ローゼマイン様、領主会議の際にはクラリッサと一度お話をさせてくださいませ。このような印象が他領へ広がっては困りますから。さぁ、姫様。帰りますよ」
コルドゥラの指示で側近達がやっと動き出しました。あまりにも衝撃が大きすぎたせいでしょう。まるで戦地で不利を悟って撤退するような機敏さで帰り支度がされています。
「ローゼマイン様、本当に誤解なのです。確かにダンケルフェルガーの女性が結婚を望む殿方から求婚の課題を得ることはありますが、その際に口付けて魔力の確認などしませんから」
「クラリッサの暴走であることはわかりました。でも、少なくとも口付ければ合うか合わないかわかりますよ」
「……え?」
……何がわかるのですか? ローゼマイン様はわかったのですか? え?
その場にいる者達が息を呑んだことで、ローゼマイン様は皆の視線の意味を理解したのでしょう。「……あ……」と呟き、まるで喋りすぎたと言わんばかりに指先で唇を押さえます。ローゼマイン様の側近達がそれとなく視線を逸らしているのが何とも印象的でした。
「では、気がかりはなくなったでしょうし、ハンネローレ様は頑張って講義を進めてくださいね。後のことはわたくしにお任せくださいませ」
……余計に気になったのですけれど!
自室に戻っても、翌日の講義の時も、ローゼマイン様が口付けて魔力の確認をしたのかどうか気になって仕方ありません。お約束した以上、講義を頑張って進めていますが、教室の空気の悪さなど全く目に入らない状態です。
……わたくしも確認した方がよいのでしょうか? その、ケントリプスと。
食堂でケントリプスの姿を見かけて、わたくしは頭をふるふると横に振ります。ダメです。あれはクラリッサの個人的な暴走です。わたくしが試すことはできません。
……でも、合うか合わないかわかるとおっしゃいましたし……。挑戦、してみるべきでしょうか?
「ハンネローレ様」
「ふぁいっ!?」
余計なことを考えていたせいで、ケントリプスの声にわたくしはビクッと肩を震わせました。ちょっと今は顔が見られません。
「何かあったのですか、ケントリプス?」
前に出たのはコルドゥラです。クラリッサの暴走を知らされたことで、今わたくしがケントリプスと顔を合わせにくい心情だと知っているのでしょう。
「アウブから書簡が届いています。……ハンネローレ様、ローゼマイン様とのお茶会で何があったのです?」
困惑を前面に出したケントリプスの怪訝そうな言葉に、わたくしは首を傾げました。お父様には神々の世界に関わる会話を除いてお茶会の報告書を出しましたが、心当たりはありません。
「お父様から何か質問や連絡が来るとしても、ケントリプスが困惑するような話にはならないはずですけれど……」
「次の土の日、ダンケルフェルガーの国境門にツェントとアウブ・アレキサンドリアがいらっしゃって、国境門の手前にある境界門の一室で会合を開くことになったそうです」
「はい?」
……ダンケルフェルガーの国境門? 境界門の一室で会合?
「ハンネローレ様、もう一度お伺いします。お茶会で何したのですか?」
「しみじみとした声で言わないでくださいませ。まったく意味がわかりません。そのようなお話はお茶会で一言も出ていませんでした。わたくしは無実です! ローゼマイン様の……暴走……?」
先程まで心の中でクラリッサの暴走について考えていたせいで、「暴走」という言葉が口をついて出てしまいました。直後、シャルロッテ様の助言が耳に蘇ります。
「これから大変なのはハンネローレ様だと思いますから」
「お姉様が長い不在になった後は様々なことが急激に動くことが多いのです」
すっと血の気が引くのがわかりました。
……待ってくださいませ、ローゼマイン様! 本当に何をするおつもりですか!?
ツェントと話をする前に確認したいとシャルロッテとのお茶会直後に呼び出されたハンネローレ。
詳細は教えられないけれど、過去の世界でのことをチラリ。
ローゼマインの自覚についてもチラリ。
容赦なく落とされる爆弾にローゼマインの帰還を感じますね。
次は、試すか否かです。




