約束と現実
「ハンネローレ様、ケントリプス様が大好きというのはどういうことですか!? わたくし、聞いていませんよ」
自室に戻るなり、側近達に問いつめられます。彼女達はわたくしが洗礼式を終えてから貴族院へ行くまでの期間に子供部屋で交流を持ち、それから召し上げた側近です。そのため、洗礼式前の交流について詳細を知らないのでしょう。
「皆、少し落ち着いてくださいませ」
ケントリプスの言葉に側近達が動揺していますが、動揺したいのはわたくしの方です。幼い頃のやり取りを覚えていて、わざわざ側近達に聞こえるように盗聴防止の魔術具を回収してから囁かれたのですから。
「大好きな方がいるならば婚約者候補の二人から選ぶのに悩む必要などなかったではありませんか」
「わたくしも覚えていれば悩みませんでしたけれど……」
……いいえ、多分もっと悩むことになりましたね。
二人が婚約者候補に決まった時の自分の心情を考えると、覚えていなくて幸いでした。色々と不信感を抱いていましたし、行き違いも多かったので今より関係が拗れた可能性もあります。
「大好きと言ったことをハンネローレ様は覚えていなかったのですか?」
「そもそも色恋は全く関係ない言葉でしたから。イドナリッテは洗礼式前に仲良くしていた方との会話を全て覚えていますか?」
「え? 洗礼式前……?」
側近達がキョトンとした顔になりました。わたくしはコクリと頷きます。
「洗礼式前の幼い頃に言ったことです。わたくし、そのように幼い頃のことはすっかり忘れていました」
「ハンネローレ様は洗礼式前なのにケントリプスと交流があったのですか?」
驚くのも無理もありません。普通の貴族でも洗礼式前に交流があるのは、親同士が近しい親族かよほど親しい友人である場合くらいです。領主や次期領主の第一夫人の子は洗礼式まで領主の居住区域に住み、異母兄弟であっても交流がほとんどありません。わたくしがケントリプスに「大好き」と発言したのは洗礼式後の出来事だと思っていたのでしょう。
「わたくし、ケントリプスだけではなくラザンタルクとも洗礼式前から交流がありましたよ。二人は伯父様の息子なので、領主一族の交流会に参加していましたから。わたくしの側近で交流会を知っているのはコルドゥラくらいかしら?」
「そうですね。わたくしは先々代の領主からの繋がりがあり、ジークリンデ様から姫様の筆頭側仕えに……と決められていましたから」
交流会は領主の血族が集い、親族の結束を固める場です。そういう建前で、城から出られない洗礼式前の領主の子に同世代と交流する経験を積ませたり、傍系の側近候補との相性を見たり、各家庭の派閥や交流関係を確認する場になっています。特に婚姻後も領主の補佐を行う領主一族は魔力供給へ行く際に傍系の側近が必要なので、幼い頃から相性を見ることは大事だそうです。
「……わたくしは他領へ嫁ぐことを前提に育てられましたから、側近に領主一族の傍系はほとんどつけられませんでしたけれど」
「そう言われると、ハンネローレ様と違ってレスティラウト様の側近には領主一族の傍系が多いですね」
成人しているわたくしの側近にはコルドゥラのように領主一族の傍系もいますが、未成年の側近にはいません。わたくしは他領へ嫁ぐ予定だったので、特に必要ないとされたのでしょう。
傍系の成人側近に関しても、自分で選んで側近に召し上げたわけではありません。教育係や連絡役を兼ねて、お父様やお母様が自分の側近を付けてくれた者を結婚まで借り受けているという気分でした。
……ダンケルフェルガーに残ると決めたのですから、今後は側近との関係を見直し、わたくしを支えてくれる領主一族の傍系を側近として召し上げなければなりませんね。
見えていなかった課題が次々と見えてきます。
「では、ケントリプス様とラザンタルク様だけではなく、レギナルト様、コードネスト様も交流会で洗礼式前からご存じだったのですか?」
「えぇ」
「洗礼式前の出来事であれば覚えていなくても仕方ありませんね。わたくし達が側近に召し上げられる前後のことだと思いましたから」
「さすがにその頃は他領へ嫁ぐ立場だと理解していましたから、いくら親しくても不用意に好意を口にすることはありませんでしたよ。洗礼式が近くなると、殿方との距離について本当に厳しく言われましたもの」
「あれはケントリプスの洗礼式より更に前でしたからね。当時のやり取りは可愛らしいものでしたよ」
クスッとコルドゥラが笑います。どういう状況で「大好き」という言葉が出たのか、コルドゥラが側近達に話し始めました。お兄様に置いて行かれて泣くわたくしを慰めるのがケントリプスの役目だったとか、男の子同士で遊んできたお兄様を睨みながら「わたくし、お兄様よりケントリプスが大好きですからね」と当てつけのように言い放ったとか……。第三者の視点であれば微笑ましいけれど、当事者は耳を塞いでどこかに隠れたくなるようなお話です。
……コルドゥラ、わたくしより詳細に記憶している上に楽しそうに語らないでくださいませ!
わかっているのです。側近達に色恋沙汰から出た言葉ではないと伝えておくのが大事であることも、詳細だけれど伝える情報自体はよく選別されていることも。
……いくら側近仲間であっても交流会については言えないことも多いですものね。
交流会の日、血族以外の側近には休暇や別の場所での仕事が与えられます。城の仕事は休みとされることもあり、交流会について知っている者はごくわずかです。洗礼式前の子供が出入りするため、かなり厳重に警戒されています。
……たとえば、マグダレーナ様に連れられてヒルデブラント様が交流会にいらっしゃったこともあるなんて、大っぴらに知らせることはできません。
マグダレーナ様は領主と血の繋がっている子孫の交流だけではなく、ダンケルフェルガーの後援を求める行動の一環でした。わたくしの知る範囲では王族の頃に一度、それからブルーメフェルトに移動してから一度です。引退して王宮へ参じることができない先代領主のおじい様やおばあ様がお二人の来訪を喜んでいらっしゃいました。
……わたくしも幼い頃は交流会が楽しみでなりませんでしたけれど……。
子供同士で遊べる楽しい場であると同時に、立場の差や思うままに生きられない現実を突きつけられる場でもありました。記憶にある中で初めての理不尽は側近について知った時だったでしょうか。わたくしは普段は思い出そうともしない幼い頃の記憶を引っ張り出しました。
◆
「お母様にそろそろ側近について考えましょうと言われたのです。側近はいつも一緒にいる人なのでしょう? わたくし、ケントリプスが良いです」
ケントリプスはお兄様と遊びに行かず、わたくしと一緒にいてくれますし、意地悪するお兄様からいつも庇ってくれます。本を読んでくれたり、一緒に礼儀作法のお勉強をしたりするのも楽しくて側近を選ぶならばケントリプスが良いと思っていました。
「……残念ながら、私はレスティラウト様の側近になることが決まっています」
「え? ダメなのですか?」
当然受け入れられると思っていたのに、わたくしの望みは叶いませんでした。泣いてお願いしてもケントリプスはいつもと違って応じてくれず、お母様や側仕え達もわたくしに「聞き分けなさい」と言うばかりだったのです。
「お兄様はずるいです……! 同じ領主の子ですのに、お兄様ならばよくてわたくしはダメなんて……うえぇぇ……」
「泣かないでください、ハンネローレ様」
膝の上にわたくしを乗せ、抱え込むようにして慰めてくれるケントリプスまでボロボロと涙を零し始めました。
「私もハンネローレ様をお守りしたかったのです。けれど、父上がダメだと……。次期領主になるレスティラウト様を支えよと父上が……」
「ケントリプス、泣かないで。わたくしが伯父様をやっつけますから」
「ダメです。父上も、ジークリンデ様も、ヴェルデクラフ様も領地のためを思って決めたことです。私が自分で選べたらハンネローレ様を選びますよ」
「わたくしだって選べるならば、絶対にケントリプスを選びます! 約束です! だって、わたくし、ケントリプスが大好きですから!」
自分の希望通りにならないことに二人揃って泣いて、泣いて、いくら理不尽に思えても呑み込むしかないと諦めたのです。
その後、次期領主と他領へ嫁ぐ領主一族という立場の差、性別による教育課程の違い、男女間で取るべき距離など、次々と降り積もるように制限がかかったことで、わたくしは初めての理不尽に泣いたことなどすっかり忘れていました。
……でも、あの頃は細々としたことを含めて本当にたくさんの約束をしていたのですよ。
ケントリプスが覚えていたのに自分は忘れていた決まりの悪さを誤魔化すように、わたくしは些細な約束事を思い出します。膝の上に座った後の立ち上がり方もそうですし、「こっそりとお話をしたい時は袖を引くように」と言ったのもケントリプスです。
……幼い頃のわたくしにとってケントリプスは礼儀作法の教育係でしたから。
お兄様と自分は同じだと思っていた幼い頃のわたくしは、淑女らしい振る舞いに全く興味が持てませんでした。お兄様は言われないのに何故自分だけ厳しく言われるのか、性別によって求められるものが違うことが理解できなかったのです。
女性らしい振る舞いをしなければならない理由に納得できず、教育係に反発し、言う通りにできなくて叱られ、自分なりに頑張っても「まだまだですね」と言われるばかりでした。型通りにできたら褒められる訓練と違って、礼儀作法では叱られるばかりだから一層忌避する……そのような悪循環になっていました。
けれど、交流会でお兄様の意地悪から守ってくれ、泣いたら慰めてくれ、本を読んでくれるケントリプスに「そういう時はこうしましょう」と丁寧に教えられると、叱られたり嫌われたりするのが嫌でどうにも反発できません。渋々ではあっても言われた通りに動くと、細々とした注意をされるのではなく「あぁ、上手にできましたね」と優しく褒めてくれました。
それが嬉しくて得意満面で繰り返していると、いつの間にかお小言ばかりの教育係から褒め上手な教育係に替えられ、交流会ではケントリプスがわたくしを殊更お姫様扱いしつつ、立ち居振る舞いに関するたくさんの約束をするようになったのです。
「約束してください。いくら暑くてもスカートをバサバサとして扇がないと……」
「立ち上がる時は側仕えかエスコートする男性が手を差し伸べるのを待ちましょう。約束ですよ」
……一つ思い出すと、次々と幼い頃の思い出が浮かび上がってきますね。
「わたくしもお兄様を支えなければならないのですって。だから、ケントリプスも一緒にお兄様を支えましょうね。約束ですよ」
「はい、約束です。ハンネローレ様は困ったことがあったら一番に相談してください。約束ですよ」
……あ。
「お兄様の側近になってもお兄様の意地悪から守ってくださいね。ケントリプスはお兄様からわたくしを守る騎士ですもの」
「いえ、私は騎士にはなれないのです。文官が向いているので文官になるように命じられました。……せめて、騎士でありたかったのですが……」
「文官でも守れますよ。とっても強くてすごい魔術具を作るのは文官ではありませんか。何かあった時はわたくしを守る魔術具を作ってくださいね」
……あぁ! 待ってくださいませ! 礼儀作法以外にも色々と約束していました!
重要な約束をどれもこれも破っているような気がします。貴族院五年生になってから交わしたケントリプスとの会話をいくつか思い出し、彼の反応や表情を思い返し、血の気が引くのがわかりました。
……ケントリプスはもしかして全部覚えているのでしょうか?
信用できないと言われるわけです。思い出せば思い出すほど何故ケントリプスがまだわたくしのことを好きなのかわからなくなってきました。それなのに、今の時点で嫌われていない以上、この先も彼がわたくしを嫌うことはないと妙な確信だけは持っています。
◆
「ハンネローレ様は今もケントリプス様が大好きなのですか?」
「ふぇ!?」
思い出したくないのに勝手に次々と蘇る記憶の数々に翻弄されている中、アンドレアに突然声をかけられて、わたくしはビクリと肩を震わせました。
「今も、と言われると困りますね。さすがに幼い頃とは少し違う感じで……」
「嫌いになったわけではないのですよね?」
「それはありません」
わたくしにケントリプスを嫌う要素などないのです。わたくしが断言すると、アンドレアは「あら?」と目を丸くしてわたくしをマジマジと見つめました。これは恋愛感情を探られている時の表情だと気付いて、すぐに言葉を加えました。
「アンドレア、その、好意はありますが、まだ恋愛感情ではないですからね」
「……そうですか。フフッ……」
微笑ましく見られると、更に居たたまれなくなります。わたくしは急いで話題を変えることにしました。
「そ、それより、求婚の条件を達成する方が重要です。ケントリプスが嫁盗りディッターに参加するためには直接ツェントに交渉するしかないと思います」
嫁盗りディッターに条件を付けたのはツェントです。ツェントはディッターの常識に明るくなく、わたくしとの会話の中で理解しようと努めてくださいました。ならば、ダンケルフェルガーにおける婚約者候補の立場について伝えれば、ケントリプスの出場を認めていただける可能性が高いです。
「……ツェントとのお話し合いなど、望んでも上手くいくでしょうか?」
「少なくとも、ラザンタルクが出場できるのでケントリプスのために尽力する意味はないと考えているお父様と交渉するより、ツェントとお話しする方がよほど可能性は高いと思います」
ディッターの金庫番を回避するためにあれほど結束していた側近達ですが、何だか乗り気ではないように見えます。彼女達を急かして、わたくしは早速ツェントに話し合いの時間を取ってほしいとお願いする面会依頼の木札を送りました。
「姫様、お返事が届きましたよ」
コルドゥラが差し出したのは、簡潔な却下のお返事でした。「ツェントは非常に忙しく、何の要件かわからない話し合いの時間は取れません」というものでした。どうやらわたくしの面会依頼はツェントまで届くこともなく、文官に突っ返されたようです。
「まぁ、そうなりますよね」
コルドゥラは至極当然という顔で頷いていますが、わたくしは途方に暮れました。ツェントにお話を聞いていただければ、きっと理解を示してくださるはずなのに門前払いされてしまったのですから。けれど、ここで諦めることなどできません。
「わたくし、ここで諦めることなどできません。面会依頼に用件を書けば時間を取っていただけるでしょうか?」
「……正直なところ、例年よりよほどお忙しいツェントのお時間をいただくのは難しいと思いますが、こちらの要望を書面にし、お返事をいただくだけならば可能でしょう」
ツェントが例年よりお忙しいのは、本来ならばお仕事の減る貴族院の時期に女神が降臨し、ローゼマイン様が姿を消し、嫁盗りディッターが行われることになり、それをご自身の管理下で行うことになったからだとコルドゥラは難しい顔で言います。貴族院の時期は中央貴族が里帰りし、各領地で社交に励むので王宮の人手も足りないそうです。
「女神の降臨や嫁盗りディッターの情報を集めるために各領地から戻された文官もいるようですけれど、領地での情報収集も疎かにはできませんから難しいところですよね」
「ダンケルフェルガーからも二人ほど王宮に戻ったそうですよ。叔母様が寮を通過する時に少しお話しできましたから。他領の様子を探るためにアウブの命令で戻らされると嘆いていました」
親族に中央貴族がいるアンドレアとイドナリッテが今の王宮や中央貴族の様子を教えてくれます。それだけでもツェントが非常にお忙しいことがわかりました。
「……面会依頼ではなく要望書として提出してみます」
「えぇ、ツェントに出す書面ですから文官見習いとよくよく調べて作成してくださいね」
コルドゥラに注意され、わたくしは会議室で文官見習い達を集め、ツェントに提出する書類の例文を勉強しつつ失礼がないように書面を認めました。
嫁盗りディッターに出場できない婚約者候補が婿としてダンケルフェルガーの貴族に認められないこと、ツェントによる出場者の制限によって文官見習いのケントリプスが出場できない現状を記した、嫁盗りディッターの条件の緩和もしくは特例を求める要望書です。
「ハンネローレ様、ツェントからのお返事ですが、ご希望には添えませんと書かれています」
返ってきたのは木札で、簡潔な却下の返答があるだけでした。わたくしの話に耳を傾け、ダンケルフェルガーの希望に合わせてくださっていたツェントからの返事だとすぐには信じられず、わたくしは目の前が真っ暗になるのを感じました。
「何故却下されたのでしょう? 書面に不備があったわけではありませんよね? 婚約者候補であるケントリプスを嫁盗りディッターに出場させることが、ツェントにとってそれほど難しいこととは思えませんのに……」
二人いる婚約者候補を両方出場させるだけです。求婚者とその父親を強制的に出場させると条件に含めたのですから、婚約者候補が二人いるならば二人とも出すように命じるくらい問題ないと思います。
「姫様、ツェントにお願いするのはもう諦めて、別の手段を考えましょう」
コルドゥラはあっさりそう言いました。
「でも、コルドゥラ。少なくともツェントが最終的に認めてくださらなければ、ケントリプスの出場は絶望的ではありませんか?」
「……そうかもしれませんが、こうして文書で回答をいただいた以上、他の形で働きかける必要があります」
……他の形、と言われましても何かあるでしょうか?
何か少しでもツェントに繋がる方法を探していたわたくしは、講義でアナスタージウス先生の顔を見てハッとしました。ツェントの夫という最も近い方がここにいるではありませんか。ぼんやりと待っているだけで状況が変わるわけがありません。わたくしは講義の後にお願いしてみることに決めました。
「アナスタージウス先生、実はお願い……」
「……エグランティーヌに取り次げというつもりならば却下だ」
声をかけただけで用件を口にする前に、アナスタージウス先生に却下されました。
「え、その……お話を聞いていただきたくて……」
「たかが一領主候補生が個人的な願いのためにツェントに時間を作れと願うのか? 聞き入れられて当然だと思っているならば傲慢極まりない。其方はエグランティーヌに対して第二の女神の化身としての立場を振りかざすつもりか?」
「そのようなつもりは……」
射貫くような厳しい目で見下ろされ、わたくしは言葉を失いました。先程までの教師としての表情ではなく、王族らしい威厳に満ちた眼差しにわたくしは思わず一歩下がります。
「エグランティーヌの貴族院時代に面会依頼のやり取りをして社交をしていたせいか、其方等は少々馴れ馴れしすぎる。父上がツェントだった時代に、其方は同じように面会を求めたか?」
トラオクヴァール様に同じことをできたのかと問われて、わたくしは自分の言動がいかに王族への畏れと敬意を忘れたものだったのか理解しました。同時にツェントへの問い合わせをそれとなく止めようとしていた側近達の言葉が腑に落ちます。
「……申し訳ありません。ツェント・エグランティーヌに招かれて嫁盗りディッターについてお話しさせていただいたので、そのお話の続きとして受け入れられるだろうと安易に考えてしまいました。心よりお詫び申し上げます」
跪いてお詫びするわたくしを見下ろし、アナスタージウス先生はフゥと軽く息を吐きました。
「エグランティーヌも気にしていた。だが、アウブ・ダンケルフェルガーと協議して決めた条件をエグランティーヌはツェントとして全領地に向けて発表したのだ。その内容を其方だけの願いで、たった一人の婚約者候補のために変更したり、例外を認めたりすることはできぬ。複数領地の領主が絡む件なのだ。同じように例外を求められるからな」
まるで例外を求める存在がわたくし以外にもいるような物言いです。そこでツェントやアナスタージウス先生に例外を求める存在が予想できてしまいました。
「どうしても……と言うならば、せめてアウブ・ダンケルフェルガーからの申し出でなければならぬ。未成年の一領主候補生の我儘に付き合えるほどツェントは暇ではない。今回は教師からの指導で止めておくが、以降はアウブへの注意になるからな」
今回は見逃すと言い置いて、アナスタージウス先生が教室を出て行きます。わたくしは跪いたまま、指導の範囲で済ませてくださったことに感謝の言葉を述べて背中を見送りました。
……失敗しました。
ツェントは嫁盗りディッターに詳しくないから行き違いがあったことを話し合えばわかってもらえると思っていましたが、そうではありませんでした。そもそもツェントはわたくしが直接お話しできる対象ではないのです。
……このままでは求婚の条件を達成するのは無理かもしれません。
ツェントに働きかける他の方法など思い当たりません。どうすればツェントに働きかけられるのでしょうか。途方に暮れた気持ちになったわたくしは、半ば癖となっている動きで手首のお守りを握りました。
「縁結びの女神リーベスクヒルフェ、わたくし、ケントリプスを選びました。少し遅かったのかもしれませんが、まだ諦めたくはないのです。どうしたらよいでしょう?」
……あ、やってしまいました。
最近はなるべく祈らないように気を付けていたのに、八方塞がりの気分になってしまったせいでつい祈ってしまいました。正直なところ、何にでも縋りたいので女神様へのお願いを取り消すつもりはないのですが、少々迂闊であったことは事実です。
わたくしは気落ちしたまま立ち上がると教室を出て自室に戻りました。
「ハンネローレ様、ずいぶんと顔色が悪いですね」
「……アナスタージウス先生からお叱りを受けました。わたくしが悪いのですけれど……。それより、アンドレアが手にしている木札は何ですか?」
叱られた内容について詳細を口にしたくなくて、わたくしは話題を逸らしました。アンドレアは手にしている木札をわたくしに差し出しました。
「落ち込んでいるところ申し訳ないのですけれど、アレキサンドリアからのレティーツィア様からご相談があるようです。お茶会のお誘いがございました」
「レティーツィア様から?」
わたくしは急いで木札に目を通します。けれど、どのような相談があるのか内容については何も書かれていません。急ぎでお話ししたいとあるだけです。
……ローゼマイン様が不在のアレキサンドリアで何かあったのでしょうか?
「できるだけ力になるとお約束したのです。相談があるならば早めに受けた方がよいでしょう。早めに日取りを決めてくださいませ」
「かしこまりました」
色々と忘れているハンネローレがひどいのか。
幼い頃のことをしつこく覚えているケントリプスがヤバいのか。
そして、突きつけられた現実。
次は、レティーツィアの相談事です。




