責任と約束
……大して変わらない、ですか?
以前ならば……。そう、女神が降臨する前ならば同意したと思います。ケントリプスもラザンタルクも幼い頃から親しくしているけれど、結婚相手としては考えたことがありませんでした。そもそも結婚自体を自分のこととして考えられませんでしたし、ヴィルフリート様のことばかりが頭にありましたから。
……でも、今は少し違っていて……。
ケントリプスの言葉に違和感を覚え、何とか言葉にしようと考えていたわたくしの耳にラザンタルクの声が飛び込んできました。
「何を言っているのだ? 其方と私が変わらないわけがないだろう。何もせずに身を引こうとする其方と同じにするな!」
ハッと我に返ると、ラザンタルクがケントリプスの肩をやや乱暴につかんで立ち上がらせたのが見えました。
「ハンネローレ様が他領へ行くことを望めば助力するなどと、寝ぼけたことを言っていた其方より私の方がよほどハンネローレ様に相応しいぞ。図々しい。今の其方にはハンネローレ様のお情けで卒業式に良い思い出をいただいて退場するのがお似合いだ!」
……確かにケントリプスの助力をわたくしも不審に思いましたけれど!
寝ぼけた助力とラザンタルクは言いますが、その助力はわたくしがヴィルフリート様への気持ちに決着をつけるために必要でしたし、味方がいないと思い込んでいた中で唯一の協力者だったので心強かったのです。
「コルドゥラ、あ……」
ケントリプスを邪険に扱うラザンタルクを止めるために、わたくしはコルドゥラに協力を求めて視線を向けました。そこには「ケントリプスはずいぶんと寝ぼけたことを言っていたのですね」と目を細めて呟くコルドゥラの姿があります。
……そういえば、ヴィルフリート様に求婚したことはコルドゥラにも内緒でした!
ヒッと身を竦めて小さくなりたい心地でわたくしは口を噤みました。余計なことは言うと大変なことになります。コルドゥラの様子を横目で窺いながらラザンタルクに「もう止めてください」と狼狽えた声をかけるくらいしかできません。しかし、ラザンタルクにわたくしの制止は届いていないようです。
「ケントリプスが嫁盗りディッターに参加さえできない現状は可哀想だと思うが、ディッター前に全力で口説いてハンネローレ様に選んでいただき、正式な婚約者として領地内でお披露目をしてしまえば済むことではないか」
「いや、ラザンタルク。たとえ正式な婚約者であっても、ツェントの定める求婚者には……」
「うるさい! 勝手に制限を設けたツェントは腹立たしいが、何の抵抗もせずにその理不尽さを受け入れる其方にも私は本気で腹を立てているのだからな! 婚約者候補は対等であるべきだ」
ラザンタルクの言葉で自分が何を不愉快に思っていたのか明言化された気がして、わたくしはパァッと目の前が開けたような気分になりました。
「ラザンタルクの言う通り、婚約者候補は対等であるべきです。わたくしも正々堂々としていないのは嫌ですもの。ツェントの介入による強制的な排除などあり得ません。わたくし、お父様に相談します」
グッと拳を握ったわたくしをコルドゥラがチラリと見て、仕方なさそうに息を吐きました。
「勇ましいことをおっしゃっていますが、ツェントとお話しして管理下で行うことを提案したのは姫様ではありませんか」
……え?
ケントリプスが参加できないことになった一因が自分であることに気付いて、わたくしは血の気が引きました。内容に関してはお父様とツェントが協議した結果ですし、事前に全て知らされたわけではありませんが、事の発端であることは間違いありません。
「だ、だからこそ、お父様に相談しようと……。そのような指摘が出るということは、コルドゥラはケントリプスが嫁盗りディッターに参加できないことを知っていたのですか?」
「はい。ツェントのお知らせを聞いて講堂から戻った姫様から報告を受けた時、そうなるだろうと予想はできましたし、アウブにも確認いたしました」
淡々とした口調でそう言われ、わたくしは思わず「何故教えてくれなかったのですか!?」と非難の声を上げました。知っていれば、もっと早く対応できたはずです。
「アウブからの課題の一環でしたから」
コルドゥラの答えにヒュッと息を呑みました。領主候補生であるわたくしが気付かない内に試されていることは決して珍しくありません。
「自領に残すにせよ、他領へ嫁がせるにせよ、姫様の能力を把握しておく必要があるとアウブは考えたそうです」
自領と他領の認識の違いで痛い目を見たわたくしが、本当にその違いを理解できるようになったのか。細かい言葉の違いを読み取り、それが先々にどのような影響をもたらすか予想できるのか。「殺してはならない」という女神のお言葉があったことを覚えているのか……。
コルドゥラが指折り数える中、わたくしは神々が怒りを露わにしたことで剣舞の選出方法が変わった話を思い出しました。同じように女神のお言葉に合わせて嫁盗りディッターの常識を変えなければならない時が来ているのでしょう。
けれど、わたくしは女神のお言葉があったことも、剣舞の前例も知っていたにもかかわらず、今回の嫁盗りディッターがそれに当たると気付いていませんでした。
「……わたくし以外の者は皆、気付いていたのですか?」
「わたくしの見た範囲ですが、気付いてケントリプスの立場を心配しているのは細かい言葉の違いを読み取ることに長けている文官見習いに多い印象ですね」
コルドゥラは言うには、ケントリプスが参加できない可能性に気付いても、嫁盗りディッターなので婚約者ならば当然参加するものと、ツェントのお言葉よりダンケルフェルガーの常識を優先して考える者もそれなりにいるようです。
「姫様と同じように、先入観というか思い込みの強くて視野の狭い者ほど気付いていないと思います。ラザンタルクが気付いたことにわたくしは驚きましたよ」
「……側近仲間が話していたのを聞いただけで、自分で気付いたわけではありません」
ラザンタルクが後ろめたそうにそっと視線を逸らしました。
「お父様がわたくしに課題を課すのは仕方ありませんけれど、ケントリプスを巻き込むなんて……あんまりです」
「そうでしょうか? 確かにケントリプスが嫁盗りディッターに参加しなければ、領地の貴族はケントリプスが辞退したか、アウブが正式にラザンタルクを婚約者と定めたと判断するでしょう。けれど、それまでに姫様がケントリプスを選べば、婚約者候補ではなく正式な婚約者となります」
二人いる婚約者候補の片割れではなく、唯一の婚約者になればケントリプスを嫁盗りディッターに出すことは可能だとコルドゥラは言いました。現状は候補が二人いるので、片方を選ぶならば騎士見習いの方が戦力として有力だと判断しただけだそうです。
「多少期限に違いはあれども、姫様がケントリプスを選ばなければ自動的にラザンタルクになるという現状は、婚約者候補が決められた当初と大して変わりませんよ」
「お待ちください、コルドゥラ様。それは……」
驚いたようにケントリプスが何か言いかけたところで、ラザンタルクがダンとテーブルを叩きました。歯を食いしばった表情とテーブルの上で小刻みに震えている拳に視線が集まります。
「私は、そういう形で、自動的に決まるのが嫌なのだ! きちんとハンネローレ様に私を選んでほしい! ならば、伝わるように口説けとフェシュテルトに言われたし、自分なりに頑張って口説いているつもりだ。ケントリプスも少しは本気を見せろ!」
悔しそうな表情と声に、いつだったか訓練場でラザンタルクがケントリプスに食ってかかっていたことを思い出しました。あの時はローゼマイン様とのお茶会の内容やヴィルフリート様に対してどう動くのかケントリプスに問われたせいで揉め事の詳細が頭に入っていませんでしたが、ラザンタルクはずっと同じ歯痒さを抱えていたのかもしれません。
……ラザンタルクの望みに応えてあげたいのですけれど、その場合、わたくしは選ばなければならないのでしょうか?
肩にズシリと何か重いものが載ったような心地になりました。先程取り除かれたはずの重みを再び感じて少しずつ視線が下がっていきます。
「ラザンタルク、自分の願望を口にするなとは言わないが、あまりにも間が悪い。ハンネローレ様は奉納舞の休憩時間にオルトヴィーン様から想いを告げられ、真剣な気持ちは重いので言わないでほしかったと落ち込んでいたところだ」
「え? やはり奉納舞の時間を狙ってきたのですね。今度は……」
「馬鹿! 注目すべきはそこではない」
ケントリプスがガッとラザンタルクの口元を押さえ、「詳細は後で説明するから、今は黙れ」と強制的に黙らせます。
「……ハァ。想いを告げられると重いと感じるハンネローレ様に、私の本気など見せられるわけがないだろう」
「あの、ケントリプス。それでは、わたくしが望めば本気を見せるように聞こえますよ?」
ピタリと動きを止めたケントリプスがラザンタルクからわたくしへゆっくりと視線を動かしました。真意を探るような胡乱な目でわたくしを見た後、一つ息を吐いてニコリと微笑みます。
「ハンネローレ様は私の本気をお望みですか?」
「いいえっ!」
わたくしは反射的に首を左右に振りました。今までの戯れにも動揺しっぱなしだったのです。ケントリプスの本気など、とても受け止められると思えません。
「それから、正面から選ばれたがっているラザンタルクにとって残念な知らせになるかもしれないが、もうハンネローレ様に選択権はない。選択を迫る意味がないのだ」
ケントリプスの言葉に、その場にいる全員が眉を寄せました。わたくしは二人の婚約者候補から選ぶように言われています。もう選択権がないという意味がわかりません。
「……どういうことですか?」
「アウブが決めたからですよ。コルドゥラ様もご存じないようでしたが、何故ハンネローレ様がご存じないのですか? 昨日、領地に戻った時にアウブからお話があったのでは?」
わたくしは記憶を探り、お父様から選択について問われた時のことを思い出します。
「領地に残るかどうか問われましたし、裏切りは許さないと凄まれましたし、ケントリプスとラザンタルクのどちらを選ぶのか問われましたけれど、わたくしに選択権がないというのは覚えがありません」
そのような話が出たでしょうか。わたくしが首を傾げていると、ケントリプスが焦れったそうにやや早口で問います。
「ここで選ばないならばアウブが決めるから従えと言われたのではないのですか? ハンネローレ様は最後の最後まで自分で我々から選ばなかったとお昼に届いたレスティラウト様からの書簡にありました。ハンネローレ様は自分で選ぶまで待ってほしいとか、いつまでに決めるなどの交渉もアウブにはしなかったのですよね?」
そこまで言われて初めて思い当たるお父様の言葉にたどり着けました。記憶が繋がったことで、自分の失敗を自覚します。ケントリプスの言う通り、何の交渉もしていません。
「あれは……領地に残るかどうか選べと言われた時のもので、二人の選択にもかかっていると思いませんでした。わたくし、お父様に言われた通り、きちんと選択したつもりだったのです」
「姫様、わたくしはアウブからそのようなお言葉があったという報告を受けていませんよ。では、ケントリプスはもう婚約者候補ではないということですか?」
コルドゥラは家族で話している時に下げられていたので報告しましたが、わたくしでは不十分だと思ったのでしょう。ケントリプスに視線を向けます。
「今年の貴族院から領地へ終わるまで私の立場は婚約者候補のままです。嫁盗りディッターが終わるまで貴族院におけるハンネローレ様の守りは少しでも堅固な方が良いですから。ラザンタルク一人では送迎できない日もあるでしょう?」
「ケントリプスはそのような立場を受け入れたのですか? 何故です? 話を聞くだけのわたくしでも不快になるほど理不尽に思えるのですけれど」
ケントリプスが軽んじられて不当な扱いを受けているように思えてなりません。わたくしが苛立ちを感じているのに、当の本人は苦笑で流します。
「アウブと主の言葉を受け入れるのは当然では? それに、アウブがラザンタルクに決定した今から私が嫁盗りディッターに参加しようと思えば、求婚者になるしかありません。私にラオフェレーグ様と同じ愚を犯し、側近の制御もできない主という瑕疵をレスティラウト様に付けろとはおっしゃらないでしょう?」
言えるわけがありません。お父様やツェントと交渉して婚約者候補としてラザンタルクと対等に扱ってほしいと主張するなど、一介の上級貴族にできることではないでしょう。領主候補生であるわたくしでも聞き入れてもらえるとは思えません。
キュッと唇を引き結んでわたくしが黙り込むと、ラザンタルクがぐにゅっと眉を寄せて途方に暮れた顔でケントリプスを見ていました。勢いよく口にしていた言葉の数々を後悔していることが一目でわかります。
「ケントリプス、私は……」
「其方にそういう顔をさせたいわけではないから黙っているつもりだったのだが……」
やれやれと言いながら、項垂れてしまったラザンタルクの明るいオレンジ色の頭をケントリプスがぐしゃぐしゃと掻き回します。
「ラザンタルク、元々私はハンネローレ様には選べず、時間切れになるとわかっていた。それなのに、卒業式にハンネローレ様をエスコートさせていただけることになったのだから、貴族院に来た当初よりよほど良いと思っている」
……全然良くないです。
良くないのですけれど、どうすれば良いのかわかりません。結果として、ケントリプスが忠告した通り、わたくしが選択するまでに時間切れが訪れ、自動的にラザンタルクが婚約者になってしまいました。
「口説くなとは言わないが、自己満足のために迫ってハンネローレ様を困らせるようなことはするな。いいか? 約束だぞ。ハンネローレ様を泣かせたら其方であっても承知しないからな」
ケントリプスの立場を理不尽なものにしたのも、自動的に決まるのが嫌で選んでほしいと言っていたラザンタルクの望みを潰したのもわたくしです。それなのに、ケントリプスはわたくしを責めることもせずに、ラザンタルクを慰めつつ行動に釘を刺しています。その言い方が幼い頃のやり取りを思い出させて、わたくしは小さく笑いました。
「フフッ……。ケントリプスの約束、懐かしいですね」
「覚えていらっしゃるのですか!?」
息を呑んだケントリプスが驚いたように振り返りました。予想もしていなかった過剰反応に、わたくしは目を白黒させながら頷きます。
「……幼い頃はそんなふうに叱られて色々なことを約束させられました、よね?」
「あ、あぁ、そうですね」
失望の色を一瞬だけ顔に乗せたケントリプスが、すぐさま取り繕うような笑みを浮かべてわたくしから顔を背けました。
「あの、ケントリプス」
様子のおかしいケントリプスに声をかけましたが、彼は取り合おうとせずに「本日は一旦終了といたしましょう」とラザンタルクに乱暴に立たされたせいで乱れていた椅子を直します。
「そうですね。アウブのお言葉に関してはわたくしも存じませんでした。ジークリンデ様に確認した方が良いでしょう」
コルドゥラが溜息混じりにそう言ったことで、その場はお開きとなりました。
「コルドゥラ、わたくし、領地に戻ってもう一度お父様と話をしたいです。いくら何でもケントリプスの扱いが酷すぎますもの」
自室に戻って訴えると、コルドゥラは少し厳しい目でわたくしを見下ろして首を横に振りました。
「今の姫様が動く必要はありません。アウブの決定に手出しするならば、相応の理由が必要になります」
「相応の理由ですか? ケントリプスの扱いが理不尽だと訴えることは理由にならないのですか?」
お父様に掛け合うことさえ却下されると思わなくて目を丸くすると、コルドゥラは一つ頷きました。
「アウブが決めて、ケントリプスが受け入れたことです。アウブが決定した以上、ケントリプスとラザンタルクが対等である必要はなくなりました。貴族院中の姫様の守りが薄くなることもありません。それなのに、姫様は不服なのでしょう? どうしてケントリプスに今まで通りの婚約者候補でいてほしいのです?」
……今まで通りの婚約者候補でいてほしい理由?
わたくしがこれまでに述べた「ラザンタルクが対等でいたいと言ったから」とか「ケントリプスの扱いを軽んじられているのが嫌だから」という理由ではダメだということです。他に何が必要なのでしょう。
「姫様が選択しなかったことで、アウブが選択しました。従えと言われていたにもかかわらず、その決定に背く意味を考えなさいませ。領主候補生の言動には責任が伴います」
コルドゥラに厳しい表情でそう言われ、わたくしはお父様の言葉を思い出しました。
「少しでも自分の行動に伴う覚悟なり、勝負における領地の利益なり、自分の意見があればよかったが、アレの頭にあるのはディッターをしたいという欲望だけだ。嫁盗りディッターを申し込むことで起こる先々を全く考えていないどころか、ハンネローレを娶る意味さえわかっていない」
言葉自体はラオフェレーグに向けられたものですが、領主候補生であるわたくしにも当然当てはまることです。
……行動に伴う覚悟、領地の利益、自分の意見、行動によって起こる先々……。
わたくしは今まで家族の誰かに言われた通りに動くことの方が多くて、あまり自分で深く考えた経験が少ないことに気付きました。
色々なことを考えるのはややこしくて面倒臭いのですが、ここで逃げ出したり投げ出したりすると、ケントリプスは理不尽な立場に置かれたままになってしまいます。
……それは絶対に嫌なのですよ。
溜息と共にわたくしの脳裏にはケントリプスの諦めの籠もった笑みと、「約束」という言葉に対する過剰反応が過ります。
……それにしても、どの約束でしょうか?
昔からケントリプスは誰かを叱る時に「これからは○○するように。約束だよ」と口癖のように言っていたせいで、約束事が多すぎるのです。「嫌な人であっても笑顔で対応するように」「座る時はスカートが皺にならないように一度広げてから座るように」「怒りたい時や泣きたい時は私が隠してあげるので庭に隠れないように」「城の中であっても移動する時は護衛騎士を伴うように」「顔が遠くて話すのが難しい時は大声を出すのではなく近付いてほしいと合図するように」……。
……どれもこれもケントリプスが過剰反応するような約束だと思えないのですよね。
コルドゥラがお母様に書簡を書いている間、わたくしの頭の中にはケントリプスとの些細な約束事が巡っていて、肝心のお父様への交渉は何も浮かばないままでした。
領地の話し合いで色々と変更があったことに気づいて頭の痛いコルドゥラ。
責め立てたことを後悔して落ち込んでいるラザンタルク。
情報を得ていても活用の下手なハンネローレに活路を開けるのか。
次は、あやふやな気持ちです。




