休憩中のお話
……おかしいですね。オルトヴィーン様にとって求愛のお返事は重要ではないのでしょうか?
わたくしとしてはダンケルフェルガーで得た情報を共有し、あのお茶会での意見の食い違いについて摺り合わせを行い、オルトヴィーン様の求愛にお返事するつもりでした。先日のお茶会で求愛された折に「次に時の女神ドレッファングーアの糸が交わる日を心待ちにしています」と言われたはずです。
……ケントリプスの卒業式の方が重要だとは思いませんでした。
奉納舞のお稽古の途中にある休憩時間ですから、それほど長い時間が取れるわけではありません。お返事を待っていただいている以上、何を置いても真っ先に……と考えていたのですが、オルトヴィーン様がわたくしの答えより気にしているのはケントリプスの卒業式です。
「オルトヴィーン様はケントリプスの卒業式がそれほど気になりますか?」
「非常に」
簡潔に答えられたことに少々困惑してしまいましたが、非常に気になるならばそちらの話題を優先した方が良さそうです。わたくしはオルトヴィーン様の質問に答えることにしました。
「エスコートはお父様の命令ではありませんけれど、嫁盗りディッターの予定は卒業式後です。まだ正式な婚約者が決まっていない以上、婚約者候補であるケントリプスはわたくし以外の女性を誘うことはできません。わたくしがケントリプスのエスコート相手になるのは当然でしょう?」
わたくしの返答にオルトヴィーン様がわずかに眉を寄せました。
「卒業式でハンネローレ様が婚約者候補のエスコートに応じると、婚約者が決定したと勘違いされます」
「ツェントから嫁盗りディッターが行われると周知されたにもかかわらず、そのように見られるでしょうか?」
婚約者の決定は嫁盗りディッターの結果で決まります。ツェントが貴族院の全領地から上級貴族以上を集めて周知したのに、ディッター前に婚約者が決まったと勘違いする者がいるとは思えません。
「嫁盗りディッターは女性が望まない婚姻を強要するために行われるディッターですし、卒業式でエスコート相手を務めるのは婚約者か、卒業後に別れが決まっている恋人、もしくは年嵩の近親者です」
「そうですね」
「それなのに、正式な婚約者ではない者の手を取れば、想い人と見做される可能性は高いと思います。他の求婚者やもう一人の婚約者候補のことも考えると、今年の卒業式にハンネローレ様がエスコート相手を務めるべきではないと思いませんか?」
周囲が少々誤解したところで、最終的にディッターで決着がつくことです。オルトヴィーン様が何を懸念しているのかよくわかりません。
「もしケントリプスが卒業式に親族や別の方を伴えば、アウブの定めた婚約者候補に不満があるという表明に受け取られる可能性もありますもの。領地でのケントリプスの立場を考えると、尚更わたくしがエスコート相手を務めるべきだと思います」
わたくしの言葉に、オルトヴィーン様は「そうではなく……」と歯痒そうに眉を寄せました。
「わたくしを心配してくださるのは嬉しいですし、ご忠告には感謝いたしますが、オルトヴィーン様も周囲のお声などお気になさらず」
わたくしは噂されて居心地の悪い空気にはそれなりに慣れています。第二の女神の化身と騒がれる状況に比べれば、直後のディッターで明確な結果がわかる期間限定の誤解など何と言うこともありません。
「ハンネローレ様に求愛した私にとっては重要なことです。私は自分の目の前でハンネローレ様が他者にエスコートされる姿を見たいとは思いません」
「え!?」
今までの会話には全く出てこなかった理由がオルトヴィーン様の口から出てきて、わたくしは面食らいました。
……つまり、嫉妬ですか!?
「それは……回りくどすぎます。周囲の誤解やディッターの決着など、全く関係のない理由ではございませんか」
自分があまりにも的の外れた回答をしていたことに気付いたせいでしょうか。真剣な眼差しを向けられているせいでしょうか。顔が熱くなり、逃げ出したいような心地になって視線が定まりません。
「私が最初からそのように言えばハンネローレ様のお答えは変わりましたか? 私の想いに配慮してくださるのですか?」
……オルトヴィーン様の想い……?
その途端、先日のお茶会で言われた口説き文句が次々と思い浮かびました。しっかりと覚えている自分に動揺してしまいます。
「ハンネローレ様の糸を私に預けていただけますか?」
オルトヴィーン様の薄い茶色の瞳に熱を感じて、空気に呑まれたようにそのまま頷きたくなります。グラリと自分の心が揺れるのを感じた直後、お父様が「其方は敵に利する行為をしないと誓えるか?」と確認する厳しい眼差しが、ラザンタルクが「オルトヴィーン様がこちらの予想以上に強引なので警戒してしまうのです」と不安そうにしていた表情が、ケントリプスが「ハンネローレ様は勿体ぶった口説き文句に弱いですから」と揶揄した言葉が脳裏を過りました。
揺れた心を立て直し、わたくしはオルトヴィーン様を見つめ返しました。
「……申し訳ございませんが、オルトヴィーン様の想いに配慮することはできません。わたくしはダンケルフェルガーの領主候補生です。お父様からの言葉を伝えさせてくださいませ」
わたくしは昨日の土の日にダンケルフェルガーへ戻ったこと、婚約者候補が得た情報とオルトヴィーン様のお言葉に齟齬があることをお父様とお話ししたこと、その結果、大筋では合っているけれど、お互いに拡大解釈をしていることを伝えました。
「アウブ・ダンケルフェルガーは私がハンネローレ様を口説くことを禁じたのでしょうか?」
オルトヴィーン様はおそらくお父様の意図を理解した上で拡大解釈していたのでしょうし、今更お父様が前言を翻すとも考えていないのでしょう。その表情に変化はありません。
「いいえ。文官の影響が大きいドレヴァンヒェルならば、特に珍しいことではないと両親は言いました。領地によって特色がありますし、お父様も拡大解釈しているようですから領地間のやり取りはそういうものだとわたくしは納得しています」
「そうですか。安心いたしました」
オルトヴィーン様はニコリと微笑んでいますが、自分の本心を見せない文官らしい笑みにわたくしは気を引き締めます。オルトヴィーン様と相対する時は常に領主候補生として向き合わなければなりません。ほんの少しの情報を零すだけで、視線を動かすだけで多くのことを推測し、言葉を選んで誘導する文官の能力に長けた者との会話は常に緊張を強いられます。とても安心はできません。
「納得すると同時に、ドレヴァンヒェルの領主候補生であるオルトヴィーン様の求愛の言葉をどこまで信用して良いのかわからなくなりました。オルトヴィーン様の求愛が策略の一つに思えてならないのです」
領主候補生の婚姻で政略を切り離せないことは理解していますが、相手の心を求める求愛に政略や策略を感じると不愉快な気分になってしまいます。真心の籠もった求愛の魔術具を贈られるという憧れを踏みにじられるような気持ちになるからでしょうか。ジギスヴァルト様がローゼマイン様に渡した求愛の魔術具を思い出すせいでしょうか。
「私の言葉は信じられませんか? ハンネローレ様にとっては唐突に思えるかもしれませんが、突然のことではないのです」
「……領主会議でドレヴァンヒェルから婚約打診があったことは存じています」
「そうなのですか? 伏せられているのだと思っていました」
意外そうに言われ、わたくしは「昨日、聞いたばかりです」と言いました。領主会議の時点で婚約打診があったことを教えられていなかったからオルトヴィーン様の求愛に驚いたり動揺したりしていたのです。
「それだけではありません。わたくしへの婚約打診の前に、女神の化身であるローゼマイン様とツェント・エグランティーヌへの婿入りの打診があったことも存じています」
ダンケルフェルガーが領主会議で婚約打診を断った理由に気付いたのか、オルトヴィーン様の顔色が一瞬で変わりました。
「それは姉上の離婚に代わる領地の利を求めて父上が口にしただけで、私の心はありません」
けれど、オルトヴィーン様の言葉が事実なのかどうか確かめる術がわたくしにはありません。どこまで本心なのか疑わしく思ってしまうわたくしに気付いているようで、オルトヴィーン様は額を押さえました。
「ずいぶんと疑われているようですが、どこからお話しすれば信じていただけるでしょうか。初めて時の女神ドレッファングーアの糸が重なった時から、シュルーメの綻ぶ音が聞こえる心地がしていたことも本当ですし、当時はハンネローレ様のことを星の神シュテルラートの導くままに歩む方だと思っていたことも本当です」
「そ、そうですか」
……あの、あの、わたくし、先程お断りしたと思ったのですけれど。「オルトヴィーン様の想いに配慮できない」ではお断りにならないのですか!?
まさかまだ口説き文句が出てくると思わなくて、わたくしはそっと周囲に視線を向けました。どなたかが助けてくださらないかと思ったのですけれど、それぞれの会話や情報収集に忙しいのか、わたくし達の周囲には人がいません。時折チラリと視線を投げかけられるのを感じますが、こちらに近寄ってくる気配は微塵もありません。
「去年の貴族院で私はハンネローレ様を見て驚きました。ヴィルフリートと婚約していると思っていたのに婚約していないばかりか、側近との距離感が明らかに違ったからです」
わたくしは思わず息を呑みました。
「……どなたからそれを?」
「姉上から王族の不安要素について聞いた中に、エーレンフェストとダンケルフェルガーの嫁取りディッターに乱入した中央の騎士の話がありました。私は自分が知らないところでヴィルフリートとハンネローレ様がいつの間にか想い合っていたのだと考えましたし、嫁取りディッターでハンネローレ様がヴィルフリートの手を取ったならば、領主会議で婚約が承認されているものだと思っていたのです」
……アドルフィーネ様の情報源はルーフェン先生でしょうか?
ディッター後の領地対抗戦でダンケルフェルガーとエーレンフェストはお互いの齟齬を明らかにし、勝者であるエーレンフェストの言い分を呑みました。わたくしの嫁入りはその時に立ち消えになりましたが、その経緯を特に周知はしていません。
「二人は婚約しておらず、ヴィルフリートは以前と特に変わりないのに、ハンネローレ様はとてもディッターの勝利で恋を勝ち取った女性に見えませんでした。緊張感が漲っていて表情が硬く、周囲を警戒しているハンネローレ様の様子が、ジギスヴァルト様と結婚した後の姉上の様子と似ているように感じられて、私にはどうにも不愉快だったのです」
そこからオルトヴィーン様は情報収集を始めて、実は嫁取りではなく嫁盗りディッターだったことや、エーレンフェストとダンケルフェルガーの話し合いの下、婚約話がなくなったことを知ったそうです。
「事前の取り決めを破られたハンネローレ様が一人で不遇に耐えていることを知り、救えるならば救いたいと思い、父上に領主会議でダンケルフェルガーに婚約打診をお願いしました」
結果としては状況の変化や様々なすれ違いもあって、ダンケルフェルガーには真面に取り合ってもらえなかったけれど、「女神の化身の友人だから」「第二の女神の化身だから」という理由で求愛しているわけではないとオルトヴィーン様はおっしゃいます。
去年のわたくしをとても心配してくださったことや考えていたより以前から心を寄せてくださっていたことが伝わってきます。
「ハンネローレ様の個人的な望みがダンケルフェルガーから出ることで、婚約者候補から未だに選んでいないならば、私にもまだ機会があると信じます。ディッターの条件に振り回され、不遇の状況にあり、第二の女神の化身として騒がれ、コリンツダウムに圧力をかけられているハンネローレ様を私ならば守れます。以前に言った通り、まだヴィルフリートにお心が残っているとしても、それが変わる時を待つ度量はあるつもりです」
オルトヴィーン様の言葉に去年のわたくしが慰められ、癒やされていくのを感じました。味方のいない中、一人で立っていなければならないと思い込んでいたあの頃のわたくしが喜んでいるのがわかります。
「ドレヴァンヒェルであれば、ダンケルフェルガーらしさは不要です。第二の女神の化身となったハンネローレ様を私の持てる力の全てで守りたいと思います。誰かの手を取るならば、私の手を取ってください」
ゆっくりとオルトヴィーン様の手が開かれました。その手に縋りたいと思う心は去年のわたくしのものです。今のわたくしにその手を取るつもりはありません。オルトヴィーン様の言葉は嬉しいけれど、今はもう違うのです。
わたくしは領地の貴族達や両親、婚約者候補達の信用を取り戻したいと思っていますし、彼等を裏切ってドレヴァンヒェルへ行くつもりはありません。もうダンケルフェルガーを出たいと思っていないのです。
「一年前であれば……と思います」
エーレンフェストへ嫁ぐ道を自ら塞ぎ、故意にディッターの敗北をもたらしたことで身の置き所がなかった頃ならば。
エーレンフェストに嫁入りを断られて、嫁ぎ先に悩んでいる頃ならば。
側近達との関係がぎこちなかった頃ならば。
本物のディッターに参加して汚名を雪ぐ前ならば。
一年前の世界に行って、自分と周囲の食い違いを知る前ならば。
婚約者候補達から想いを寄せられていることを知る前ならば……。
「去年のわたくしであれば、躊躇わずにこの手を取ったでしょう。けれど、あまりにも様々なことが急激に変化してしまいました」
本物のディッターに参加したことで周囲からの扱いが変わりました。
時の女神の降臨によって第二の女神の化身になりました。
一年前の世界に行ったことで気付きを得て、側近達との関係が変わりました。
ヴィルフリート様への想いには自分なりに決着をつけました。
それに、ラザンタルクがダンケルフェルガーの領主一族らしいと言ってくれたことが、わたくしには殊の外嬉しかったようです。今のわたくしはダンケルフェルガーに留まることを特に息苦しく感じていません。
「自分でも短期間に大きく変化しすぎだと思いますが、オルトヴィーン様の語る救いは、今のわたくしにとっての救いでも望みでもないのです」
驚愕に目を見開くオルトヴィーン様の表情に、わたくしはヴィルフリート様に断られた時のことを思い出しました。「一年前であれば……」とおっしゃったヴィルフリート様のお言葉が今になってよくわかります。
人生で一番落ち込んでいて、みっともなかった頃の自分に想いを寄せてくれることも、心配してくれていたことも、救おうと手を伸ばしてくれたことも本当に嬉しいのです。嬉しいけれど、その想いを受け入れることはできません。オルトヴィーン様がおっしゃる救いが必要なのは、去年のわたくしなのですから。
「わたくしとオルトヴィーン様の糸が結ばれる機会はすでに過ぎ去っていました。……間が悪かったのです」
開かれていたオルトヴィーン様の手がゆっくりと握り込まれていきます。握り込んだ自分の拳が震えないようにもう片方の手が押さえ込むのがわかりました。自分の手を見つめるように俯いていたまま動かない彼がどのような表情をしているのかわかりません。
胸が痛みます。わたくしは自分の胸の前でギュッと自分の手を握りました。
嫌いだから断るのではありません。気持ちが嬉しくても受け入れることができないのです。自分が不甲斐なく感じられてなりません。
しばらくの沈黙の後、大きく息を吐く音が聞こえました。きつく握り込まれていた手が開かれていき、オルトヴィーン様がゆっくりと顔を上げました。その顔にはいつもの貴族らしい穏やかな微笑みがあります。
「……そうですか。残念です。けれど、嫁盗りディッターで協力し合うことはできますか? 私が次期アウブになるためにダンケルフェルガーと協力関係を築くことは可能でしょうか?」
確認するような問いかけは領主候補生らしいもので、わたくしも領主候補生として対応するためにニコリと笑顔を作りました。
「えぇ。わたくしもドレヴァンヒェルと共闘したいと思っています。共にコリンツダウムを下しましょう」
わたくし達が想いの線引きを終えた時、休憩時間が終わりました。
今回はちょっと短めですが、ここが一番キリが良いので。
オルトヴィーンと一緒に儘ならなさに落ち込んでください。
本当に間が悪かったのです。
次は、ケントリプスの立場です。




