ツェントのお知らせ
三と半の鐘で講堂に入ります。不本意ですが、わたくしは第二の女神の化身として注目を集めています。そのため、他領の方からあまり話しかけられないように少し遅めに入場した方が良いと側近達に言われました。周囲を婚約者候補や側近達に囲まれた状態で移動します。
「ハンネローレ様だ」
「時の女神が降臨したのだろう?」
講堂に入ると、側近達の予想通り多くの視線が自分に向かってきました。側近達が警戒しているので気安く話しかけてくる者はいません。遠巻きにひそひそと話しているだけですが、あまり気持ちの良いものではありません。
ダンケルフェルガーの席がある一番前に向かって歩を進めていると、周囲の声が次々と耳に飛び込んできます。
「上級貴族以上の学生を講堂に集めるなんて、ツェントから一体何のお話でしょう?」
「神々に招かれたローゼマイン様のことではなくて?」
「おそらくダンケルフェルガーのことだと思いますけれど……」
「ハンネローレ様に女神が降臨したことは存じていますが、ダンケルフェルガーが何かしたのですか?」
……ダンケルフェルガー「が」何かしたのではなく、ダンケルフェルガー「に」嫁盗りディッターを求める領地がいくつもあるのですよ。
心の中で反論するだけにして、わたくし達は進みます。領地によって得られる情報に差があるのはいつものことです。ここで一々訂正する気はありません。この後ツェントからお話があるでしょうから。
「ハンネローレ様」
エーレンフェストのマントの集団から少し強張った表情のシャルロッテ様が一歩前に出てわたくしを呼び止めました。
「何用だ?」
わたくしの護衛騎士でもないのに、ラオフェレーグが少し腰を落としていつでも攻撃に移れる体勢になりつつシャルロッテ様を威嚇します。領主候補生がすることではないでしょう。他領の貴族達からどのように見えるか考えると頭が痛いです。
「ラオフェレーグ、警戒する気持ちはわかりますが、お下がりなさい」
「だが……」
「わたくしはシャルロッテ様とお話をするので、貴方は先にダンケルフェルガーの席に向かいなさい」
聞き分けのないラオフェレーグにもう一度下がるように言って、彼の側近に目配せしている間に、周囲の声が大きくなっていきます。
「護衛騎士が警戒するならばわかるが、声をかけただけの他領の領主候補生に対して領主候補生が攻撃態勢を見せるのはどうなのだ?」
「あれだけ周囲を警戒しているダンケルフェルガーに声をかけるとは……大丈夫なのか、エーレンフェストは?」
周囲から様々な意味で心配する声が上がると、慌てた様子でヴィルフリート様が「今でなくても良かろう。後にしろ」とシャルロッテ様に下がるように注意してマントを引きます。
「謝罪はできるだけ早い方が良いのです。お兄様は黙っていらして」
ヴィルフリート様の手を払い、シャルロッテ様はもう一歩前へ出ました。「謝罪」という言葉に、アウブ・エーレンフェストからの書面を預かってきたのではないかと見当がつきました。
「シャルロッテ様、昨日のオルドナンツの件ですね」
「はい。こればかりはできるだけ早い方が良いと思いまして……。ハンネローレ様はもちろん、ダンケルフェルガーの皆様にご心労をおかけして申し訳ございませんでした」
シャルロッテ様が謝罪し、彼女の側近である文官見習いに封のされた書面が渡されます。わたくしは自分の文官見習いに視線を向けました。一つ頷いたルイポルトが前に出てそれを受け取ります。
「お早い対応をありがとう存じます。エーレンフェストの謝罪を受け入れます」
これからもエーレンフェストとは仲良くしたいと思っているのです。「嫁盗りディッターではオルトヴィーンに全面的に協力する」とおっしゃったヴィルフリート様の意図は今もわかりませんが、嫁盗りディッターでエーレンフェストがドレヴァンヒェルを支援するのでなければ構いません。
……でも、このような場合に領地を代表して謝罪するのがヴィルフリート様ではなくシャルロッテ様になっているのですね。
この講堂にいる学生達の何人が去年との違いに気付いたでしょうか。「私を次期アウブに望む者はいない」とおっしゃったヴィルフリート様の表情が脳裏に浮かび、何だかひどく苦い気分になりました。
「ツェント・エグランティーヌが入場されます」
ダンケルフェルガーの学生が最前列に並ぶのを確認した中央の文官が声を上げました。冬の貴色である白に赤の差し色のある衣装をまとったエグランティーヌ様がアナスタージウス様にエスコートされて入ってきました。檀上に立ち、全ての領地の学生達が揃っていることを確認して口を開きます。
「本日お知らせすることは必ず領地のアウブに報告してください。本来ならば関係する領地だけにお知らせすれば良いことです。けれど、今回は勝手な解釈で求婚者が増える可能性があること、正しい解釈を全領地に周知する目的があること、貴族院で大規模にディッターを行うため不参加の領地にも事情を伝える必要があることから、このように全領地の者を集めました」
エグランティーヌ様は学生達を見回し、「どこからお話ししましょうか」と小さく言った後、事の起こりから話し始めました。
「事の起こりは時の女神ドレッファングーアがローゼマイン様を神々の世界に招いたことです。ローゼマイン様を呼び出すために、時の女神ドレッファングーアはハンネローレ様に降臨されました。文官棟の奥にある東屋で直接見た者もいるでしょう」
そうは言っても文官棟にいる者以外は気付かなかった者も多かったでしょうし、わたくしやヴィルフリート様、オルトヴィーン様の側近が東屋を囲んでいて女神の御力で牽制されて近付けなかったので、実際に見た者はそれほど多くないと思います。
「時の女神ドレッファングーアが降臨したことで、ハンネローレ様が第二の女神の化身と言われるようになり、彼女の嫁ぎ先を巡ってダンケルフェルガーに多くの領地から嫁盗りディッターの申し込みが相次いでいます」
エグランティーヌ様はそこで一度言葉を切って、講堂全体をゆっくりと見回しました。彼女の瞳にはダンケルフェルガーに嫁盗りディッターを申し込んだ領地のマントが映っていきます。
「けれど、皆様は嫁盗りディッターがどのようなものか、本当にご存じの上で申し込まれたのでしょうか?」
エグランティーヌ様が嫁盗りディッターについて説明します。
嫁盗りディッターは親の決めた婚約者のいる女性に対して、横恋慕した殿方が仕掛けてくる戦いであること。アウブ・ダンケルフェルガーが決めた婚約者候補に異議を唱える行為で、無礼に当たる行為であること。嫁盗りディッターを申し込んだ者は婚約者候補ではなく、敵対する者として扱われること。嫁盗りディッターはダンケルフェルガー特有のディッターで、現在の貴族院で講義中に行われる「速さを競うディッター」とは大きく異なること。宝盗りディッターに近く、嫁を奪い合う親族同士の真剣勝負であり、死者が出ることも珍しくないこと。
ダンケルフェルガーで認識されている嫁盗りディッターについてエグランティーヌ様が言葉を重ねる度に、「まさかそのようなディッターだったとは……」「ダンケルフェルガーに無礼を働くことになるなんて……」と悲鳴のような声が上がり始めました。
「他領の認識が甘すぎて驚きますね」
「嫁盗りディッターが娶るために武力で奪う行為だという認識さえないとは思いませんでした」
ダンケルフェルガーと他領の反応の違いを見れば、事前に話の摺り合わせをすることがいかに大事なことか痛感します。
「本来は嫁盗りディッターを申し込んだ者達がディッターのためにダンケルフェルガーへ赴くのですが、今回は複数の領地が関与すること、嫁盗りディッターの特殊性、死者が多数出る危険性などを考慮し、アウブ・ダンケルフェルガーと協議した結果、わたくしの監視下において貴族院でディッターを行うことになりました」
ざわりとした驚きの声が上がりました。その中には「ディッターを貴族院で行うのは当然では?」という声があります。ダンケルフェルガーでは騎士の訓練兼楽しみとしていくつかのディッターが取り入れられていますが、他領は貴族院以外でディッターをあまり行わないようです。
……やはり他領との常識の違いは大きいのですね。
「嫁盗りディッターは女性側と男性側の一族の戦いになります。今回はダンケルフェルガーの領主候補生に対する求婚なので騎士団を出陣させる予定だとアウブから事前にお言葉をいただきましたが、あまりにも大規模になりすぎるため却下いたしました。今回の求婚者は領主一族ばかりなので、出場者は領主一族とその護衛騎士に限らせていただきます」
今回のディッターの出場者に制限をかけることは初めて知りました。嫁盗りディッターは親族同士の争いになるので、人数制限は特にないのです。
「……領主一族とその護衛騎士ですか」
顔を顰めたケントリプスと同様に、側近達も困った顔になりました。
「え? 騎士団は出られないのですか? 領主候補生であるハンネローレ様の嫁盗りディッターですのに?」
「貴族院で行うならば大規模すぎるのも困るでしょうけれど、複数の領地を相手にするならば、人数制限があるとダンケルフェルガーがかなり不利になりますよ」
「皆の前でエグランティーヌ様が口にしている以上、お父様が同意したのは間違いありません。でも、攻撃用魔術具の威力や参加者に制限がかかっても勝てる自信があるのでしょうか? いくら何でもダンケルフェルガーに厳しいと思うのですけれど……」
わたくしの呟きを耳にしたラザンタルクが「余裕だと思いますよ」と小さく笑いました。何故そう言い切れるのか、わたくしはすぐにわかりません。
「嫁盗りディッターを申し込んだ領地も護衛騎士を率いて構いませんが、婚姻を賭けた勝負である以上、婿として申し込んだ当人とアウブの参加は必須になります」
エグランティーヌ様の言葉に驚きと悲鳴の混ざったような声がまたしても上がりました。
「え? アウブや領主候補生がディッターに出るということですか? 危険過ぎません?」
「騎士見習い達の戦いではなく、領主一族と護衛騎士の戦いとおっしゃいましたよね?」
ラザンタルクが「他領の領主一族はダンケルフェルガーの領主一族ほど鍛錬していませんから」と自信たっぷりに胸を張っていますが、わたくしはどうにも同意できませんでした。
……だって、ローゼマイン様やフェルディナンド様にわたくし達は負けているのですもの。
あのお二人は神殿に籠もっていたにもかかわらず、ダンケルフェルガーにディッターで勝利しているのです。他にも同じような方がいる可能性がある以上、わたくしはエーレンフェスト以外の領地にも厳重な警戒が必要だと思います。
「でも、以前のダンケルフェルガーとエーレンフェストの嫁盗りディッターは学生同士でしていたはずでは?」
「今回だけ領主一族の参加が必須だなんておかしくありません?」
……おかしいのはそちらでしょう! まさか学生の騎士見習いにご自分の嫁盗りを任せて、求婚者当人は出ないつもりだったのですか!?
周囲の声にわたくしは頭を抱えたくなりました。お兄様のせいで、エグランティーヌ様と同じように他領の方々も色々と誤解しているようです。
お兄様が策を弄して貴族院の学生だけで行った嫁盗りディッターですが、求婚者のお兄様、求婚されたローゼマイン様、その婚約者で兄だったヴィルフリート様が先頭に立っていました。一応花嫁を巡る親族同士のディッターという形だけは整っていたのです。
……うぅ、他領との常識の違いが多すぎます。
今回の嫁盗りディッターにおいて、ドレヴァンヒェルではオルトヴィーン様とアウブ、コリンツダウムではジギスヴァルト様の参加が必須になります。ジギスヴァルト様の父親はトラオクヴァール様ですが、彼は領地が異なるアウブで、すでに息子の婚姻に口出しできる立場にはないため、むしろ嫁盗りディッターに参加してはなりません。ジギスヴァルト様は領主一族が少ないので、かなり不利だと思います。
対するダンケルフェルガーでは求婚されたわたくしとお父様の参加が必須です。親族同士の戦いになるので、次期アウブであるお兄様も参加するのは間違いありませんし、おじい様や叔父様方も張り切っています。
……本物のディッターに参加したかった方々ですものね。領地のお留守番は伯父様かしら?
ローゼマイン様から本物のディッターのお誘いを受けた時は本当に王族の許可があるのかわかりませんでしたし、最悪の場合に切り捨てても良い領主一族としてわたくしが選ばれました。けれど、今回の嫁盗りディッターは一族が一丸となって戦うのです。複数の領地を相手に勝利しなければならないということで、お母様達も張り切る殿方を特に止めていないようです。
「嫁盗りディッターの日程ですが、複数の領地の者達が貴族院に集まることを考慮し、卒業式の翌日の三の鐘に開始します。認識の相違による辞退者は、領地対抗戦でアウブ・ダンケルフェルガーに直接申し出てください。その際、非礼を詫びることをお勧めしておきます。知らなかったとはいえ、アウブ・ダンケルフェルガーの決めた婚約者候補に異議を唱えたわけですから」
エグランティーヌ様が「辞退」について説明すると、ホッとしたような声も響いてきます。
隣に立っているラザンタルクが「これは当初の予定より敵が減りそうですね」と囁きました。
わたくしも嫁盗りディッターの敵が減ったことに安堵してラザンタルクに同意しましたが、側近達の意見は違うようです。
「領地対抗戦で辞退を申し出るということは、それまで正確な参加領地がわからないということでは?」
「敵の数に見当が付かないと、何をどのくらい準備すれば良いのかわかりませんね」
「いくつもの領地の方々から嫁盗りディッターの申し込みや問い合わせがあって、それに翻弄されたことを思えば、辞退のために学生達をこれ以上使ってはならないという配慮でしょう」
「あぁ、あれは大変でしたから、アウブに直接辞退を申し出てくださるのは助かりますね」
側近達が遠い目になっています。わたくしがユレーヴェに浸かっている間に起こったことなので詳細は存じませんが、複数の領地から嫁盗りディッターの申し込みが殺到した時期は仲立ちを頼まれたり質問攻めに遭ったりする学生達が非常に大変だったようです。
「ディッターにおける契約にはツェントであるわたくしが立ち会い、両者に不都合がないようにするつもりです。けれど、領地対抗戦における契約後はわたくし達が協議して設けた禁止事項以外はダンケルフェルガーの基準に則ってディッターが行われます。後から認識の相違が発覚しても異議の申し立ては受け付けません」
契約までに詳細を詰めて、話の摺り合わせを行うのは大事なことです。二年前の嫁盗りディッターでの話し合いや確認が足りずに失敗したことは身に染みています。同じ失敗はできません。
「ツェントといえど、ダンケルフェルガー特有のディッターに関してお答えできることは多くございません。疑問点がある場合は領地対抗戦でアウブ・ダンケルフェルガーに直接お尋ねくださいませ」
エグランティーヌ様もディッターに関する質問を受ける気はないようです。お忙しいでしょうし、ディッターに関する認識にずいぶんと差があったので、先に断っておくのが一番良い対処方法だと思います。
「今回のディッターにおける禁止事項についても説明いたします。今回の花嫁が領主候補生であり、親族同士の戦いが領主一族同士の戦いになることを踏まえ、できるだけ死者が出ないように攻撃用魔術具の威力に上限を定めます。けれど、それは危険性を下げるだけで、死者が出ないことを保障するものではありません」
ざわりとした声からは「アウブや次期アウブが死亡する可能性もあるということか」という声が漏れています。
「それから、ディッターに参加しない領地が参加領地の後援をしたり協力したりする行為を禁じます。無関係な領地の後援や協力が確認できた時点で、わたくしが設けた攻撃用魔術具の殺傷力の制限が解除されることになっています。また、ダンケルフェルガーだけではなく、ディッターを管理するわたくしにも敵対する意思があると見做します」
元負け組領地が震え上がるのがよくわかりました。ツェントの交代によって、ようやく政変時の負け組領地の扱いが変わったところなのに、新しいツェントに睨まれることはできないでしょう。
ここまで説明すれば、申し込んできた領地の全てが取り下げる可能性もあります。もしかすると嫁盗りディッターが成立しないかもしれません。
「問い合わせは領地対抗戦の際、アウブ・ダンケルフェルガーにお願いしますと、必ず各領地のアウブに報告してください。ハンネローレ様を始め、ダンケルフェルガーの学生達を煩わせてはなりません。わたくしからのお知らせは以上です」
ツェントのお知らせが終わると退場するわけですが、何だか他領の方々が逃げ腰になっていたり、あからさまに視線を逸らしたりしています。入場した時と違う空気に、わたくしはとても気が軽くなってきました。
「何だかご機嫌ですね、ハンネローレ様」
ラザンタルクの言葉にわたくしは「ふふっ」と笑うと、エスコートしてくれている婚約者候補達には聞こえるけれど、周囲の側近達に聞こえるかどうかわからないくらいの小声で「皆様から不躾な視線を向けられなくなりましたもの」と返しました。
「……遠巻きにされて怖がられるのは良いのですか?」
ケントリプスも周囲を見ながら声を潜めます。わたくしも彼と同じように周囲を見た後、少し考えてから頷きました。
「仲の良い方に遠巻きにされるのは悲しいですよ。でも、わたくしは元々他の方から注目されることが得意ではありませんもの。見世物のように扱われるよりは遠巻きにされる方が安心できます」
女神の化身という大義名分があれば許されると思うのでしょうか。集団になると躊躇がなくなるのでしょうか。遠慮なくじろじろと見てきたり、護衛騎士がいるのに近付こうとしてきたり、ダンケルフェルガーの領主候補生に対する態度としては随分と礼を欠いている方が多かったのです。
「それに、厳しく警戒する必要がなくなれば護衛騎士達も多少気が楽になりますし、ラザンタルクやケントリプスにエスコートをされなくても動けるようになるでしょう?」
わたくしがそう言った途端、二人が「え!?」とひどく驚いた顔でこちらを見ました。喜んで同意してくれると思っていたので、二人の反応の理由がわからなくてわたくしも「……え?」と首を傾げます。
「……あの、ハンネローレ様。我々のエスコートは不快ですか?」
「違います! 不快ではありません。ケントリプスとラザンタルクはわたくしの側近ではないのに、毎日のように領主候補生コースの教室まで送り迎えするのは大変でしょう? 文官棟や騎士棟は決して近くありませんもの。わたくし、申し訳なくて……」
側近達は交代で送迎していますが、二人はよほどの予定がない限り交代しようとしません。自分の講義にはかなり急いで行かなければなりませんし、講義が終わると他領の方との交流に時間を割くこともできず迎えに来なければならないのです。
「不快でなければ続けさせてください。レスティラウト様のお供をしていたので慣れていますから、負担に思っていません」
「ケントリプスの言う通りです。それに、私は少しでもハンネローレ様といたいですから」
エスコートに預けていた右手をギュッと握ったラザンタルクに真剣な目でそう言われると、わたくしは狼狽えることしかできませんでした。
「ラザンタルク……あの……」
どう返せば良いのかわからなくて、周囲に助けを求めて視線を向けます。けれど、側近達は微笑ましそうに見ているだけで、ラザンタルクの手を払ったり窘めたりはしてくれません。
「ハンネローレ様、愛されていますね」
「ここで困って立ち止まるのではなく、笑顔で受け流せるようになってくださいませって、コルドゥラならば言いますよ」
……え、笑顔で受け流す……それから、立ち止まらない……?
とりあえずコルドゥラに叱られたくないので、アンドレアに言われた通り笑ってみました。多分取り繕った情けない感じの笑顔になってしまうと思うのですが、何とか笑みを浮かべます。
「……ラザンタルク、動かなければ邪魔ですよ」
「このまま時が止まれば良いと思います」
「ひぁっ!?」
握る手に更に力が加わって、何だか手に擦り寄られています。受け流しは明らかに失敗です。
「こら、ラザンタルク。ハンネローレ様をあまり困らせるな」
ケントリプスがラザンタルクの頭を軽く叩き、呆れた目で見ながら歩き始めます。わたくしは左手をケントリプスに預けたままだったので、つられて歩き出しました。そうなるとラザンタルクも「せっかく良いところだったのに」と文句を言いつつ足を動かします。ようやく動けました。
「ケントリプス、もっと早く助けてくださいませ」
「善処します」
寮に戻ると、昼食の時間です。わたくし達が寮に戻ると、寮で待機させられていた中級や下級貴族達が食堂に向かうところでした。
側仕え達が昼食の準備をしている間に、わたくしはツェントのお知らせについて情報共有します。複数の領地を相手に嫁盗りディッターを行うと決まってから神経を尖らせていた皆の顔がパッと明るくなりました。
「ツェントにご協力いただけてよかったです。これで講義の際に他領の方々に呼び止められることもなくなりそうですね」
「辞退する領地が多そうで一安心だな。さすがにあれだけの数の領地が敵に回ると厄介だと思っていたのだ」
「ハンネローレ様がツェントの協力を取り付けてくれたおかげですね」
ダンケルフェルガーの食堂は明るい空気になっています。ツェントの協力を取り付けたことを褒められて、わたくしは嬉しくなりました。
「今後の講義で他領の情報を得ることを忘れないでくださいね。辞退を申し出そうな領地の情報は早めに把握しておきたいです」
「はい!」
美味しい昼食を終えたら、午後は領主候補生コースの講義です。ケントリプスとラザンタルクにエスコートされ、側近達に周囲を守られて教室まで移動しました。
「ハンネローレ様、少しよろしいですか?」
わたくしは教室に入った途端、オルトヴィーン様に声をかけられて思わず息を呑みました。ツェントに釘を刺されたのですから遠巻きにされることはあっても、直接声をかけられることはしばらくないと思っていたのです。
「講義の後にお時間をいただけますか? 私はそれでも構いませんが……」
オルトヴィーン様はそう言いながらチラリと奥に視線を向けました。そこには申し訳なさそうな顔でこちらの様子を窺っているヴィルフリート様の姿があります。おそらくヴィルフリート様が「全面的に協力する」と言ったこと、エーレンフェストが「領地としては与り知らない」と言ったことに関するお話でしょう。
アナスタージウス先生が来るまであまり時間はありません。すぐに終わるならば良いのですが、講義の前にお話を伺うと中途半端なところで切れて、講義中ずっと悶々とする可能性も高いです。
「先に一つだけお聞かせください。ツェントからのお知らせがあって尚、オルトヴィーン様は嫁盗りディッターに挑むのですか?」
「当然ではありませんか。ドレヴァンヒェルは理解した上で申し込んでいます」
薄い茶色の瞳が真っ直ぐにわたくしを見ています。オルトヴィーン様に辞退の意思がないならば、お話は長くなるでしょう。
「講義の後で伺います」
ツェントのお知らせで現実を知った他領の皆様。
ダンケルフェルガーがマジでヤバいと認識できたようです。
他領にドン引きされた方が「安心」と思えるハンネローレ。
それでも辞退する気のないオルトヴィーンは何を考えているのか。
次は、オルトヴィーンの思惑です。




