■scene 4-5■
■scene 4-5. 盲目の信者は幻想に縋るよりほか術を存ぜず■
次にヨハンが向かったのは、教皇庁の交換局であった。出納室を持つ交換局は、教皇庁に搬入出されるすべての物品や金銭の授受を行う部署であり、当然その中には出入りする手紙も含まれていた。
雑然とした局内は、魔導蒸気機関によるカセット転送によって、迅速なやり取りを行っていた。壁を走るパイプオルガンのごとく伸びた鈍色の配管を見ると、歴史ある情報伝達手段が現役であると物語っている。
そして書類が山と積まれた机が並ぶ最奥に、眼光が鋭く覇気のある老人がいた。円筒形で機械仕掛けの計算機の発条を、片手でカリカリと巻く仕種が様に入っていた。
「 ぁあ? ヨハン司祭がこんなところに珍しいじゃないか。」
聖職者、というより老獪な商人の雰囲気を隠しもしないのは、その男が30を過ぎるまで実際に商人であったからだろう。書類の山の中にいて、パイプを噴かす事が許される立場であった。
その聖職者らしからぬ司祭、交換局長マグナ翁は自身の机から離れもせず、それどころか目を落とす書類から視線を上げもせず、声のみでヨハンに対応した。
「マグナ翁、失礼します、ね。」
ややもすると埃っぽい室内は、掃除の頻度が低いからだろう。ヨハンは、髪の毛を撫で付けたポマードに貼り付いた埃を櫛で落とし、そしてその汚れをマグナ翁の机にあった裏紙で拭って近くの屑籠に棄てた。
「おいおい、そいつが捨てる前だってよくわかるな。まあ、色男にお小言は言わんが、その辺の書類もいくつか大切な物があってだな。」
「ええ、ええ。ですが、そんなですから、見習いが、掃除もできない、だなんて嘆くのです、よ。」
「ああヤダヤダ、俺が小言をもらってるじゃないか。」
そう言ってマグナ翁は、ようやく書類から視線を外し、下げた四角い眼鏡を人差し指の背中、第一関節の山で押し上げた。指も、手の平も横もインクで汚れていたためであった。
「で? 世間話をしにきた、だなんて口じゃないんだろう?」
そうでなければ追い出すぞ、と言っているかのような凄みがあるが、同時にそうだろうという確信があるから冗談を告げただけだという、僅かに緩んだ声の響きが重なっていた。
ヨハンと同じく、重要な書類とそうでない書類の見分けがつき難い中から無造作に選んだ裏紙で指を拭い、そして自身の禿げ上がった頭皮をパシンと叩き、緩い袖口を雑に捲って腕組みをした。
視線は険しく、ともすれば怒らせたかと思うだろう。
しかしこれが、マグナ翁が聞き手になったと示す姿であった。
「ええ、はい。ここひと月ふた月ほどの、手紙の交換記録を、見せていただきたく、ね。」
「手紙、か。」
「はい。」
マグナ翁が渋ったのも無理はない。交換局にはそれこそ、毎月何百という手紙がやり取りされる。
「届け先は?」
「……。」
ヨハンが言い倦ねたのは、それを疑いの疑いと取って欲しくなかったからである。少なくとも、この時点では。
「いや、」
「ザルトリアス・ウィンカーロッチ大司教猊下のものを。」
であるから。
一度は躊躇したという姿勢は、示しておく必要があった。
「――ほう。大物だな。」
「いえ、捜査に必要なすべての事を済ませておく、それだけです、から。」
「なるほど、なるほど。」
マグナ翁はクツクツと笑った。
そして交換局内では小綺麗に纏まっているという、やけに丁寧な対応をされている引き出しのひとつを無造作に開けて、中の手紙をヨハンに差し出した。
「良いところに来たな、ヨハン司祭。……これが、つい今日届いた手紙だ。内容は、ミーシャとかいう見習いがやって来ないことへの心配と……まあ、催促だな。孤児院の経営が芳しくないらしい。」
交換局は、検品を行う部署でもあり、手紙の内容も含まれる。真に重要な書類であれば、使者が直接持ち込むであろうし、そうでない場合でも、開封時には記録官の同席が必要となる。
ザルトリアス大司教ほどの人物が帝都内の施設に手紙を出すのであれば、交換局を通さない方法など数多ある。返信の受け取り方しかり。ならば、ひと月前の大司教にとって教皇庁の交換局を通す事の意味は、交換局を通すことそのものであると言えるのだ。
ともあれ、普段であれば見習いの未着と金の無心など、よくある内容であった。
「ありがとう、ございます、ね。」
「幸運なことだ。」
マグナ翁は、使い込まれた鉢にひとつだけ入っていた古い銀貨を摘んで落として、鐘の音のごとく鳴らした。
本来は「繁栄を。」の意味である。しかし商人にとって繁栄とは、良き商売、良き交流、良き巡り合いと運気について指すことが多かった。それを祈る場合と、寿ぐ場合。どちらにせよ商人が何かに臨むとき、鐘の音とともに聖句を口吟む。
「そうだ、ヨハン司祭がその手紙を運ぶかね?」
「いえ、それには及びません、よ。」
文面にサッと目を通し、そして手紙を戻した。
確かにひと月ちょっと前、大司教はミーシャ・ロウを手近な教会に置きたいと目論んで修行先を指定していた。
「交換局で、この手紙の内容証明だけ、とってくださいます、か?」
「――いいだろう。」
話が終われば、それまでだ。と、ばかりにマグナ翁は書類に視線を戻した。
その実利的な仕種に、ヨハンが思うところも含むところもない。むしろ善悪の区別ない職人気質な面を好ましく思っている。
(さて、コロナ市のガンルガンチュア助祭にも、またひとつ指示を出さなければなりません、ね。)
大理石のような、滑るりとしっとりとした乳白光沢のある石造りの床に靴音が響く。
教皇庁、大司教の執務室へ向かう廊下は、相応に設えてあった。
重く、複雑な意匠の扉の前に並ぶ聖騎士――大司教が貴族と同等の立場であることを示すために集められ、直属となっているギリアム騎士団のひとり――に声をかけ、待たされる間にヨハンは思案を重ねていた。
考えるのは、帝都のことである。
歴史ある帝都だ。金の欠片が散らばる雲母が嵌まった窓のある室内は、ガス燈が点かなければ外よりも暗く、ゆえに外がハッキリと見えた。
遠くに大型の魔導蒸気機関を動かす工場が見える。そうでなくとも近代化でアレコレと交換が進んだ帝都は、昔よりも空が狭くなったような趣だ。
(これも移ろいと、思うべきなのでしょう、ね。今、囚われているアリス嬢の生きる世の中を、垣間見るよう、でしょう、ね。)
そしてヨハンはザルトリアス大司教の室内へと招かれた。筆まめな大司教の机には色取り取りの紙が折り畳まれて置いてあって、そして今まさに何処へかと何かを書き記しているところであった。
「……おや、ヨハン司祭ではないですか。コロナ市へ向かったのでは?」
「ええ、ええ。ちょうど、イェリンガ市からの商団が、こちらへと来る、という報告を得たものです、から。それを問い質した後で、赴こうか、と。」
「そうですか。……それで、本日は、どんな用向きで?」
「ミーシャ・ロウという――、」
一瞬、大司教の顔が顰められたことを、ヨハンは見逃さなかった。
「――娘を存じ上げない、か、と。」
「はい。はい。……痛ましいことです。あの子は、ちょうど修道女として、帝都の教会へ向かうところでした。私も、すでにあちらで励んでいると思っていました。……それが、このような事になるとは。」
大司教は饒舌であった。
「ええ、ええ。」
「それが、どうかしましたか?」
「いえ。」
それは、決定的な違和感であった。
隣人を嫌悪する大司教が半隣人のミーシャを優遇していた過去があった。おそらく、ミーシャが半隣人だと知らなかったのだろう。その後に、どういうことか大司教はミーシャが半隣人であったことを知ったのだ。
(その蟠りが解決する以前に、不運が重なった、ということでしょう、か。)
しかし、それだけでは大司教がミーシャを亡き者とするには証拠が弱かった。いや、大司教ほどの人物が、それだけのことでミーシャを害するのだろうか、などとヨハンは考えていた。もちろん、様々な可能性のひとつとして、である。
しかし、それはヨハンがとある事実を知らなかったためであった。ひとつは大司教が帝都において違法奴隷を使った惨劇の元締めであること。そしてもうひとつは、その惨劇を要人の接待に使っていたことである。
さらに現在、空席となっている枢機卿の席を巡り、大司教どうしが水面下で争っていることと重ねると、自ずと答えが見えてくる。けれどもやはり、まだ、ヨハンはその答えに辿り着くだけの判断材料を持ち合わせていなかった。
「それよりも、ヨハン司祭には早く事件を解決してもらいたいものです。」
「ええ、ええ。」
「一刻も早く、イェリンガ市に巣くう悪党を、捕らえて欲しいものです。」
「ええ、ええ。」
それはまるで、ヨハンが帝都にいない方が良いと言っているようなものであった。
そしてまた、ヨハンが帝都にいることを非難しているかのようでもあった。
~to be continued~
登場人物のまとめは次回更新後に掲載する予定です。







