興奮と同じ匂いと飢えた獣
◇
「……お前、何で笑っている?」
重傷を負ったサンタを眺めながら、全盛期の力を取り戻した魔王を見つめながら、私の身体は笑みを浮かべる。
多分、絶体絶命の状況に耐え切れず、頭がおかしくなったったんだろう。
気がつくと、私は笑い声を上げていた。
笑い声を上げる度、どうしようもない現実が私の肩に襲いかかる。
頼みの綱であるサンタがやられた。
私の力じゃ、今の魔王──完全に力を取り戻した魔王を止められない。
唯一の対抗策であると思われる聖女の証も、今の魔王には通用しなかった。
「………」
客観的に見ても絶望的な状況だ。
自分がサンタに頼り切っていた事を再確認する。
サンタがいたから、危機を乗り切る事ができた。
ここまで辿り着く事ができた。
私一人だったら、とっくの昔にくたばっていただろう。
いや、あの時サンタが駆けつけてくれなかったら、私は間違いなく異形となった商人に殺されていた。
それを確信できる程、私は無力な存在だ。
この状況を……サンタでさえ太刀打ちできなかった現状を、私一人の力で何とかできる筈がない。
奇跡でも起きない限り、この状況をどうにかする事なんてできない。
そんな子どもでも分かるような事、私は分かっている筈なのに。
………分かっている筈なのに。
「──『聖女たるもの、いついかなる時も笑顔であれ』」
私如きのじゃ、太刀打ちできない。
そんな事、分かっている筈なのに私は考えてしまう。
この状況を切り抜けるための方法を考えてしまう。
魔王の口から滑り落ちた言葉を聞き流し、私は考える。
鼻を鳴らす。
嗅覚を、視覚を、聴覚を、触覚を、味覚を、フルに活用する。
この状況を切り抜けるために必要な情報を模索する。
「危機的な状況であっても、笑顔を崩すな。聖女が狼狽えたら、危機に陥った人達を不安にさせてしまう。……先代聖女が聖女に教えた言葉だ」
魔王が何か言っているが、無視。
今はそれどころじゃない。
今は魔王に構っている場合じゃない。
「聖女。自覚していないだろうが、お前は聖女を辞め切れていない。今も聖女としての役目を全うしようとしている。──お前はまだ先代聖女に洗脳されたままだ」
何故か胸が高鳴る。
呼吸が少しだけ乱れる。
身体の奥が熱を帯び、頬の筋肉が緩みそうになる。
「その笑みが何よりの証拠だ。普通のヤツだったら、絶対に笑わない状況でお前は笑みを浮かべている。救うべき対象がいないというのに、お前は笑みを浮かべている。他の人を安心させるための笑顔を、お前は現在進行形で浮かべている」
ああ、五月蝿い。
魔王の声が私の思考を遮る。
今、いいところなんだ。
私の『愉しみ』を邪魔しないで欲しい。
「聖女、改めて問う」
鼻を鳴らす。
極限まで集中したお陰で、ようやく嗅ぎ取った。
魔王の匂いを。
魔王の身体を覆う不可視の『何か』を。
そして、私が持っている『聖女の証』の匂いを。
「お前のやりたい事はなんだ? お前は何でここにいる?」
──掴んだ、……かもしれない。
この状況を打破するための鍵を。
確実に結果を出すための方法を。
「お前は『自分のため』と答えた。『浮島が滅亡したら、自給自足の生活を送らざる得ない状況に陥る』と答えた。それは本当にお前の言葉なのか?」
試してみたいと思った。
確かめてみたいと思った。
私の挑戦が正しいかどうか、を。
「なあ、聖女。お前、オレの話を聞いて……」
「神威」
サンタから手渡された神造兵器──聖女の証に魔力を注ぎ込む。
魔王の視線が私の手元──神造兵器に吸い寄せられる。
私は彼の身体から放たれた匂いを嗅ぎ取ると、ゆっくり前に向かって歩き始めた。
「魔王、私が間違っていた」
敢えて魔王好みの言葉を発する。
魔王の視線を引き寄せようと、彼好みの匂いを放つ。
私の思惑通り、魔王は私の所作に注目し始めた。
「魔王の言う通り、私は聖女を辞め切れていない。まだ先代聖女の洗脳が解けていないんだと思う」
魔王好みの所作を披露しながら、魔王が求めていたであろう言葉を口にしながら。ゆっくり確実に魔王の下に歩み寄る。
身体から甘ったるい言葉を放ちながら、私は魔王の視線を引き寄せる。
「私の力じゃ先代聖女の洗脳を振り解く事ができない。サンタでも私を変えられなかった。だから、魔王──」
魔王の目と鼻の先まで歩み寄る。
私の事をじっと見つめる魔王の瞳を見つめ返す。
魔王の瞳に映る私は無邪気かつ妖しい笑みを浮かべていた。
幼い顔には似つかわしくない大人びた笑み。
そんな笑みを浮かべながら、私は口から甘い言葉を敢えて放つ。
「──私を、助けて」
魔王が求めていたであろう言葉を放つ。
敢えて彼が求めている言葉を──甘い匂いを放つ事で、魔王の感情を揺さぶろうとする。
魔王を挑発する事で、隙を生み出そうとする。
「お前、何を言って………」
私の態度に違和感を抱いたんだろう。
私の挑発に苛立っていないのか、魔王の身体から放たれる匂いは怒りよりも困惑の方が際立っていた。
「何でそれを今言った? オレをおちょくって、……っ!?」
魔王は思い出す。
レベール街で行った戦闘を。
私が魔術の力で瓦礫を強化した時の事を。
私が魔術で強化した瓦礫を魔王に踏ませた時の事を。
──私を注視し過ぎた所為で、サンタに不意打ちを貰った事を。
「ちっ……!」
私の意図に気づいた魔王は視線を逸らす。
重傷を負った所為で気絶したサンタの方に向ける。
魔王の視線が地面に伏せているサンタに向けられた瞬間、私は右の拳を握り締めた。
声を発する事なく、右の拳を振るう。
魔王の股間目掛けて、右の拳を叩き込む。
私の拳は魔王の身体を覆う不可視の壁に弾かれ──なかった。
「っ!?」
股間を殴られた魔王は驚きながら、私から距離を取る。
その間、サンタが動く事はなかった。
「あはは。やっぱり、思った通りだ」
身体を覆う不可視の壁──絶対性を破られた事に驚いているんだろう。
魔王は股間を右手で押さえながら、私を見つめる。
彼は信じられないものを見るような目で、私を見つめていた。
「その『絶対性』と呼ばれるヤツと『聖女の証』が生み出す結界は同じだ。同じ理屈で動いている。聖女の証を使えば、魔王の身体を覆う不可視の壁を操作できる」
私の鼻は感知した。
魔王の身体を覆う不可視の壁は無敵じゃない事を。
「これで魔王は無敵じゃなくなった。聖女の証さえ手元にあれば、貴方にダメージを負わせる事ができる」
「……だから、どうした。聖女、お前の攻撃力じゃオレを殺せな……」
「分かっているよ。攻撃が通じるようになっても、私の火力じゃ魔王を殺せない事くらい」
胸が高鳴る。
身体が熱を帯びる。
鼻息が荒くなり、身体の中心が熱くなり始める。
多分、今の私の頭はおかしくなっているんだろう。
危機的状況、絶望的な状況であるにも関わらず、私は思ってしまう。
『愉しい』と思ってしまう。
「でも、それがいいじゃん。簡単に越えられる壁なんて、つまんない。せっかく挑戦するならさ、難しい方が愉しいじゃん」
「……? 聖女、お前、何を言って」
「愉しくなってきたって言ってるの」
魔王の身体から怯えと困惑の匂いが放たれる。
その匂いを嗅いで、私の気分は高揚してしまう。
眉間に皺を寄せる魔王の顔面を、魔王の情緒をメチャクチャにしたいと思ってしまう。
ああ、本当に頭がおかしくなっているんだろう。
理性が働いていない。
本能に赴くまま、身体が動いてしまう。
思い浮かんだ言葉を深く考える事なく、呟いてしまう。
「あのサンタさえも敵わなかった挑戦が目の前にいる。私が負けると、この浮島にいる人達は絶滅してしまう。私の背に沢山の人の命運がのしかかっている。そう考えると愉しくなってきたというか、……こんな状況、もう二度と経験できないというか、……ああ、何て言葉にしたらいいんだろう。とにかく私はさ、魔王に感謝しているんだ」
魔王の瞳を覗き込む。
彼の瞳に映った自分の姿を一瞥する。
幼くなった顔を紅く染めながら、鼻息を荒上げながら、蕩けた瞳で妖艶な笑みを浮かべている少女──今の私の姿を知覚する。
聖女というより売女にしか見えない少女──今の私の姿を知覚する。
それを知覚した瞬間、私の中で暴れている興奮が更に膨れ上がった。
「魔王、本当にありがとう。こんな状況、用意してくれて。貴方のお陰で、私は自分の限界を試す事ができる。この上ない悦びを感じる事ができる。生きている実感を得る事ができる」
今まで考えていなかった事を口にしてしまう。
今まで思っていなかった事を口走ってしまう。
聖女だった時の自分だったら、絶対に言えない事を──聖女失格の言葉を口から吐き出してしまう。
「いくよ、魔王」
でも、止められない。
止める理由がない。
聖女という皮を脱ぎ去ってしまった私は、本能に突き動かされるがまま、理性を手放す。
己の愉しみのためだけに、目の前の魔王を味わおうとする。
「──骨の髄までしゃぶってあげる」
お腹を豪快に鳴らしながら、私は魔王を見つめる。
私が見つめた途端、魔王は一歩退いた。
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次の更新は4月27日(土)22時頃に予定しております。




