忘れていた理由と自滅した理由と聖女の瞳
◇
水の中にいるような感覚だ。
身体全体が浮いているような気がする。
魔力の匂いが身体を包み、私の目蓋を塞ごうとしている。
夢だ。
そう断言するには意識が明瞭で。
夢じゃない。
そう断言するには感覚が不明瞭で。
夢と現実の間にいるような、夢と現実の境界にいるような、不確かかつ矛盾した感覚が私の脳を刺激する。
『幻覚極めているヤツらは、無闇矢鱈に幻覚を使おうとしねぇ』
旅の道中、サンタが言っていた言葉が脳裏を過ぎる。
いつ言ったのかは覚えていない。
けれど、昼ごはんを食べながら、彼の話を聞いていた事だけは覚えている。
『幻覚極めているヤツらはな、幻覚が使い物にならねぇ事を熟知している。だから、ヤツらは余程の事がない限り、幻覚は使わねぇんだよ。一流の幻覚使いは、幻覚を極めている事実を最後の最後まで隠し続けている』
『どうして?』
『一瞬の隙を突くためだよ。同格格上相手でも、幻覚は一瞬だけ通じる。ほんの一瞬だけ、格上相手でも幻覚で騙す事ができるんだ。だから、一流の幻覚使いは幻覚を極めている事実を隠し続けている。ほんの一瞬の時間を奪うため、真の幻覚使いは命を賭けているんだ』
『ええ……、幻覚を極めるのって、かなりの時間かかるんでしょ? それなのに、ほんの一瞬だけ相手に幻覚をかけるために、一流の幻覚使いは幻覚を極めるの? 時間の無駄というか、その極めている時間を他の事に費やした方が……』
『ああ、嬢ちゃんの言う通りだ。幻覚を極める時間があるんだったら、他の事に時間を費やした方が効率的だ。だが、一流の幻覚使いは違う。あいつらはな、敢えて幻覚を極めているんだよ』
あの時のサンタは焼き魚を頬張っていたような気がする。
多分、私はサンタの話を軽く聞き流していたんだろう。
だから、このやり取りをあまり覚えていなかった。
『一流の幻覚使いは無闇矢鱈に幻覚を使わねぇ。幻覚を酷使しているヤツらは、例外なく二流三流の幻覚使いだ。雑魚としか戦った事がないお調子者。幻覚を万能だと思い込んでいる愚か者』
記憶の中にいるサンタが少しだけ霞んでいる。
あの時の彼がどんな表情を浮かべていたのか、よく覚えていなかった。
『故に、二流三流の幻覚使いは自滅する。自分を過信している所為で、相手の力量を見誤って、越えちゃいけねぇ一線を越えてしまう。だから、嬢ちゃん、二流三流の幻覚使いと遭遇した場合、何もするな。いつも通りしとけば、あいつらは勝手に自滅する』
『一流の幻覚使いだった場合は?』
『安心しろ。どんなに対策を講じようが、今の嬢ちゃんじゃ対処できる相手じゃねぇから』
『いや、安心できないんだけど』
ああ、忘れていた理由を思い出した。
覚えている理由がなかったからだ。
幾ら策を用意していたとしても、今の私では一流の幻覚使いには敵わない。
私が何もしなくても、二流三流の幻覚使いは勝手に自滅してしまう。
だから、忘れたのだ。
だって、幻覚使い相手に私がやれる事は、やるべき事は何一つないのだから。
◇side:???
逃げる。
逃げる。
逃げる、逃げる、逃げる。
真っ暗な闇の中を延々と走り続ける。
聖女エレナに幻覚の主導権を奪われた。
今の私は板の上の魚。
相手のなすがままに任せるより仕方ない状態。
幻覚の主導権を奪われた私では、この状況をどうにかできそうにない。
だから、逃げる、逃げる、逃げる。
私の魔力が尽きたら、何とかなる筈だ。
ここから逃げられる筈だ。
だから、逃げる、逃げる、逃げる。
逃げ、……
「──もうやめましょう」
ぱん。
乾いた音と共に私の意識が引き戻される。
聖女の前に引き戻される。
「……お久しぶりです、◾︎◾︎」
聖女が私の名を呼ぶ。
捨ててしまった自分の名を聞いた途端、私は悟った。
逃げる事さえできない事を。
「…………覚えて、いたのですか」
「ええ、覚えています。貴方の名を、貴方が騎士団長のような騎士を目指している事も」
「……そう、ですか」
私と聖女は沈黙を選んでしまう。
何を言ったらいいのか分からなかった。
だって、今の私は、……王族や貴族だけでなく、他の騎士も殺している。
今の私は、ずっと目標にしていた騎士団長とかけ離れた存在に成り果てている。
いや、私だけじゃない。
憧れだった騎士団長も、私が憧れていた時とかけ離れたものに──
「私は、間違っていない」
変わり果てた自分の身体を揺らしながら、大きい犬の身体と化した自分の身体を小刻みに揺らしながら、私は言葉を紡ぐ。
「王族も貴族も、民を見捨てた。魔王が復活した所為で、困窮した民を見捨てて、王都から離れてしまった。王族貴族だけじゃない。他の騎士も。私の憧れだった騎士団長も。民を見捨てるだけじゃ飽き足らず、王族は民に重税を課した。貴族は民に負担を強いた。他の騎士も、憧れだった騎士団長も、苦しんでいる弱者から目を背けた。だから、私は殺した。私は、民を守るため、王族と貴族と、騎士を、殺した」
口から出た言葉はとても弱々しいものだった。
「私は間違っていない。私は、弱者を守るため、力を得た。弱者を守るため、人を殺した。あの日、憧れた騎士団長のようになるため、私は、──」
聖女が私の名を呼ぶ。
──聞きたくない。
聖女の声が私と鼓膜を揺さぶる。
──聞きたくない。
聖女の呼吸音が、
──聞きたくない。
私の鼓膜を刺激する。
目を瞑った。
口を閉じた。
耳を塞ぎ、意識を闇に委ねる。
けれど、聖女はそれを許さなかった。
「私は強くなった……! 強くなったから、あの時、憧れた騎士団長に近づく事ができた……! 今の、民を見捨てた騎士団長じゃない……! だから、この力で弱者を見捨てた奴らに罰を……」
「それで、一体誰が救われるのですか?」
閉じていた目蓋が開いてしまう。
閉じていた口が開いてしまう。
塞いでいた耳が、闇に委ねた筈の意識が、聖女の前に引き摺り出される。
聖女と目が合った。
星のように煌めく聖女の瞳に私の姿が映し出された。
巨大な犬と化した私の姿が、彼女の瞳に映し出された。
化け物になった私の姿が、他人の血で真っ赤に濡れた私の姿が、聖女の瞳に映し出された。
「──コレが貴方のなりたかったものなの?」
手負いの獣の断末魔が響き渡る。
それが自分の口から出たものだと気づいた途端、私は聖女の首を絞めてしまった。
いつも読んでくれている方、ここまで読んでくれた方、ブクマ・評価ポイント・いいね・感想を送ってくれた方、そして、新しくブクマしてくれた方に感謝の言葉を申し上げます。
次の更新は明日10月5日(木)20時頃に予定しております。
まだストック溜まっていないので、毎日更新は無理ですが、少しずつ更新頻度増やしていく(多分)ので、今月もお付き合いよろしくお願い致します。




