E70 それでも諦められないってことは
――絶え間なく続く雨の音が、耳に痛い。
なんとかする、と言ったは良いが。テイガ・バーンズキッドは、俺の前からまるで消えてなくなるかのように、嵐に紛れた。残された俺は、この異様なまでに降り続く雷雨と、『法による裁き』という名の無法が許される場所――セントラル大監獄――に、取り残された。
地面は遥か下、公開されていないが実に百階を超えるのではないかとも言われる塔の屋上だ。これから壁にしがみつき、雷と雨と強風に耐えながら下まで降りる事など、まず不可能と言っていいだろう。かと言って、俺にはテイガのように空を飛ぶ手段はなく、何より既に体力が残っていない。
塔の上では魔法が使えない。壁にしがみついている間は有効だった<ホワイトニング>も<キャットウォーク>も、屋上に立った瞬間に魔法陣の敷地内となり、消えてしまった。
上空は、どこまでが魔法公式の範囲なのだろうか。それは分からないが――……
どうしようもなく、空を見上げる。
「さーて、どうしようかね……」
口ではそう言ってみるも言葉には余力がなく、俺は思わず自分の情けない声に自分で笑ってしまった。
正面のベティーナは見張り役だ。俺が不審な動きをしないよう、見張っているといった所だろう。
かなりの人数で、階段を上がってくる音が聞こえる。百階もある建物を階段でしか登れないなんてご苦労なこって、などと下らない事しか頭に浮かんで来ない。
……まいったな。今回ばっかりは本当に、どうしていいのか分かんねえや。
魔力が封印されているんじゃ、足掻く事もできない。
せめて、魔法公式を崩す手段さえあれば――――…………
…………いや、無駄か。
この状況で俺が魔法を使った所で、出来ることは<ホワイトニング>に<キャットウォーク>、物理攻撃は<刺突>と<飛弾脚>、防御に<パリィ>、精々動体視力の向上を狙って<イーグルアイ>を使う程度だ。
<ヒール>で疲れを癒やす事ができると言ったって、出せる手札がこれしかないんじゃ、とてもじゃないが戦えないだろう。
たった一つ、<限定表現>というジョーカーはあるが。多勢に無勢だ。せめて鈍器でもあれば――……いや、それらは全て、魔法が使えるという前提の話じゃないか。無い物ねだりはよせ。
…………相変わらず、弱点の多い戦闘スタイルである。
武器が無くなっただけで、魔法が使えなくなっただけで、これ程までに弱体化するのだ。
まあ、世の冒険者なんて皆そんなものかもしれないけれど――……。
ナイフナイフってそこまで言うなら、武器なんかくれてやるよ。そう思った事もあった。……アカデミーを出て間もない頃は、何でもできると思っていたな。
そんじょそこらのギルドメンバーにだったら、負ける事はないだろうと。
今、同じ事を思えるだろうか。
「武器を捨てろ!!」
屋上の扉から、四名の治安保護隊員が現れた。手にしているのは弓――……でも、きっと扉の向こうには、もっと多くの治安保護隊員が構えているのだろう。
「遅いわよバカ!! 何、下で寝てたの!?」
やっと到着したのか。ようやく、俺も動ける――――俺に少しでも近寄る空気があったら、ベティーナは後ろに隠れていただろう。……それだけは、避けないといけない。
何を思い付いている訳でもなかったが、今この場で『魔法の使えないベティーナ』はジョーカーだ。何としても、あいつが油断して前に出ているこの状況は守らないといけない。
そう、思っていた。
屋上の扉を、治安保護隊員が慎重に守る。連中にとっては、そこさえ固めてしまえばもう逃げる事は叶わない訳だからな。そう、例えば蝙蝠を呼べるだとか、そういう特殊な能力が無ければ。
俺は不敵な笑みを浮かべ、屋上の柵に凭れ掛かった。
「脱獄したって聞いたから来てみれば……アンタだったのね」
ベティーナは鼻で笑うように、俺に言う。
まあ、こいつもこの場所では魔法が使えない訳だから、どうとでもなる。問題は、横に居る治安保護隊員だ。
この『セントラル大監獄』に居る以上、ある程度の上級モンスターと戦闘――……最悪、逃げる手段くらいは心得ている。一番下のレベルがその位の実力者だ。
そういう人間が集められるから、ギルドメンバーも迂闊に罪を犯せない訳であって。
「ちょろすぎるな。もう一人、逃げちまったぜ。警備が甘いんじゃないのか?」
テイガ・バーンズキッドの下調べ能力や、脱出までのプロセスがほぼ完璧だったということもあるが。それにしたって、囚人を寝かせるための消灯時間を逆に利用されたってんじゃ、世話ないぜ。
「あんたバカ? ……脱獄した重罪人ってのはね、次は監獄に入れられる事もなく即処刑になるのよ。その場で殺したって構わないんだから。……まあ、あんたの話だけど?」
ベティーナの言葉に、俺は少し大袈裟に肩をすくめて見せた。
「どうせ、俺は三日後に処刑されるんだろ? だったら同じじゃねえか」
すると、ベティーナの表情が少しだけ険しくなる。
「…………どこから聞いたのよ、その情報」
「さあね」
やっぱり、この情報ってのは本当だ。テイガ・バーンズキッドは嘘を付かない――――あいつの情報は本当だ。そこは、信頼できるってことだ。
いい加減な奴ではないことは、分かっていたけれど。
「まあいいわ。あんたは今日ここで、死ぬのよ。何のために屋上に登ったの? 飛び降り自殺でもしたかった?」
「ちょっと、空が見たくてね。センチメンタルな気分になる時もあるんだよ」
ベティーナは明らかな嘲笑を俺に見せて、腹を抱えた。
「その顔でセンチメンタルとか!! マジ有り得ないんですけど!」
そうして――――ベティーナの親指が下に向くのと同時に、治安保護隊員は弓を構えた。そのまま――――俺に向かって、矢を放つ。
その瞬間に、戦いの火蓋は切って落とされたのだ。
「<スマッシュ・アロー>!!」
治安保護隊員は、一斉に矢を放ってきた。
俺はすぐに、放たれた矢を確認する。<イーグルアイ>が使えないから動体視力は良くないけれど、飛んでくる矢の先端は尖っていなかった。
本当に、使ってきたのは<スマッシュ・アロー>だ。ってことは、装備しているのは『鉛の矢』。<ホワイトニング>すらない今の俺じゃ、一撃貰えば行動不能だ。
どうするよ。いきなりピンチじゃねーか。
なあ、ゴボウよ。
「<パリィ><パリィ><パリィ><パリィ>ッ!!」
不思議と、笑みが零れた。
この屋上で俺が抵抗した所で、どうにもならない。既に出口は塞がれていて、その先にはごまんと居る治安保護隊員。こいつらを出し抜かなければ、魔物だらけの下にさえ、到達できない。
既に脱出は絶望的だ。どうにもならない。
分かっているさ。
ベティーナが目を見開いて、憎々しげに俺を見た。
「まるで曲芸ね。猿みたい」
俺がジャケットの裏ポケットから取り出した皿で、治安保護隊員の<スマッシュ・アロー>を防いだからだろう。
隠しておいた皿は二枚。両手で弾いたというわけだ。
「すごいだろ? 金を恵んでくれても良いんだぜ?」
「抵抗してどうなるの? …………分かってるでしょ? あんたもう、死ぬのよ?」
そうだ。抵抗したって、どうなるものではない。そのうち体力が尽きて動けなくなれば、俺はそれまでだ。
――――それでも、どうにかすれば何とかなるって、信じるしかないのだ。
「んっとに、何でだろうねえ」
ベティーナの言葉に、俺は思わず笑ってしまった。ベティーナは俺の事を、気がおかしくなったと思うだろうか。……それでもいいさ。
俺は既に、気がおかしくなっているのかもしれないからな。
「こっち来てすぐ、捕まっちまったからな。しかも、訳の分からない冤罪で――……仲間がいてさ。顔を見せて、安心させてやりたいんだ」
ベティーナは俺の言葉を聞いて、初めておかしな反応を見せた。少しだけ、悔しそうな……なんだ? 今更、同情でもしているのだろうか。
<スマッシュ・アロー>を弾いた所で、何が変わる訳でもないと思うんだが。
「なっ……こんな時に人の心配してる場合!? さっさと死んじゃえば!!」
――――――――いや、待て。
<スマッシュ・アロー>だと?
「ベティーナ・ルーズ!!」
「わひっ!?」
俺は二枚の皿を捨て、胸を張ってベティーナを見据えた。咄嗟に俺が大声を出したからか、ベティーナは少し驚いた様子で、俺から飛び退いた。
挙動不審な声が漏れたからか、ベティーナは少しだけ恥ずかしそうに身体を抱いて、パーマの掛かった後ろ髪を撫でるように払った。
「……な、なによ!! びっくりさせないでよね!!」
思考を停止させるな。何考えてるんだ、俺は――――希望はない、だって?
あるだろ。こんなにも分かりやすい場所に、ヒントがあった。右手で拳を作り、左手に打ち付ける。背中で雷が落ち、俺は背後から一瞬だけ光に照らされた。
大丈夫。下までは行ける。
下までは、行けるぞ。
――――さあ、逆転劇を始めようか。
「俺に協力するチャンスをやろう!!」
ベティーナはすっかり目を丸くして、一瞬だけ思考が停止したようだった。……まあ、そうだろうな。この状況で協力など、何を言っているんだと思うだろう。
或いは、時間稼ぎだと思うだろうか。誰か別の助けが現れるとか――――俺にとっても残念だが、それは見込めそうにない。四方をきょろきょろと見ているベティーナを見ながら、心の奥底で呟いた。
「何言ってんの? やっぱりアタマ、どうかした?」
「この『セントラル大監獄』では、魔法が使えない。……つまり、お前も使えないんだろ。『大魔法』」
そう。魔法は使えない。<ホワイトニング>と<キャットウォーク>が屋上に立った瞬間に消えた事を考えても、それは明らかだ。ベティーナは顔を赤くして、腕を組んだ。
「ばっ……バカにしないでよね!! 大魔法なんか使えなくても、アンタを捕らえるのに苦労なんかしないわよ!! 後ろに何人居るか、気付いてない訳じゃないでしょ!?」
さて、俺も今の今まですっかり忘れていたが、<スマッシュ・アロー>ってのは、単なる強打じゃない。魔力を重みに変換して――――正しくは、魔法公式で矢の重みを加算させて撃つ弓スキルだ。
俺はベティーナを指差し、その手を広げて下に向けた。
「いーや。お前は協力することになるぜ」
さて。<ホワイトニング>は消えたのに、<スマッシュ・アロー>は撃つことができた。これが一体どういう結果になるかと言えば、答えは一つしかない。
使えるんだ。
「<限定表現>!!」
『魔力を使用して何かを具現化させる』魔法以外は。
俺は瞬間的に地面を蹴り、俺を追い詰めようと前に迫っていた治安保護隊員の後ろに回った。魔法使いのベティーナには、俺の速度に付いて来る事など出来ないだろう。
治安保護隊員ですら、俺の行動に反応できている人間は居なかった。遠慮無く、俺は脚に発動させた<限定表現>を使い、弓を持っている治安保護隊員の背中を蹴り飛ばした。
「<飛弾脚>!!」
――――圧倒的な、速度で。
仲間の一人が吹っ飛び、屋上の柵に激突する。……ここが柵のある屋上で良かったな。そうでなければ、恐ろしい高さの屋上から生身でダイブしている所だったぜ。
蹴られた男が弓を手放した瞬間、ようやく俺の動きに気付いた治安保護隊員が事の大きさに気付く。
そうだよなあ。反応出来ないよなあ。
だってお前達は今、動体視力を底上げする<ホークアイ>も、筋力と体力を強化する<タフパワー>も、使えないんだからな!!
「<刺突>!! もいっちょ……<刺突>!!」
ベティーナの両脇にいた治安保護隊員の腹に、俺は素早く二連の突きを放った。残る一名が振り返る前に、俺はベティーナの手を取り、背中を向けさせた。
要するに、禁じられているのは魔力を何らかの形で具体化する魔法――『攻撃魔法』と、『付与魔法』ということだ。<スマッシュ・アロー>は矢の重みを加算するだけのスキルだから、魔力を使って威力を底上げすることができた。
なら、同じ理屈で『大地の魔力』を『自身の魔力』と融合させる魔法公式は、厳密に言えば『俺に付与する』魔法でもなければ、『魔力を何らかの形で具体化する』魔法でもない。
自身の魔力に異質なものを加算するだけの魔法公式。なら、俺でも使う事ができる。当然、俺に加わった魔力がどのような変化を俺に齎したとしても、それは二次的な作用だ。
魔力が使えなくなった訳じゃないんだ。……そもそも本当に魔力が使えないのなら、俺達は立っている事も困難になるはずだ。
ここに組まれた魔法公式は、ある特定された魔法の『禁止』であり、魔力そのものの『無効化』ではなかった、ということ。
それに気付いた奴が、過去に何人居たかは分からないがね。
俺はベティーナの首に腕を回し、きつく締め上げた。いかに早口で魔法が撃てると言ったって、大魔法が使えない魔法使いなど俺の敵ではない。
それが怖かったからこそ、ベティーナは他の仲間が到着するまで、俺に攻撃を仕掛けなかったのだ。
後から慌てて登場した治安保護隊員に、俺は右手を突き出して制止を掛ける。……状況を把握して、治安保護隊員の男達は顔色を変えた。
「おっと!! ……良いのかな、こいつがどうなっても?」
……しかし俺、こんなんばっかりか。




