F100 神よりも尊く、己よりも愛しいひとへ
さて、俺が嘗てシルバード・ラルフレッドと戦い、剣技を破った瞬間に剣を捨てられ、まるで今と全く同じ戦況になったことを、こいつは知っていたのだろうか。
恐らく知らなかったのだろう。あの時の様子まで事細かくゴールバードが説明している筈はないし、仮にこいつが見ていたとしても、この戦いにまで結び付けて考えられたとは思えない。
引き金を引く瞬間、こいつは『勝った』と、そう思っただろう。
数々の罠を張り、俺が動く先の状況まで想定して策を練っておく事で、どうあっても逃げる事の出来ない底なし沼に俺を嵌めたのだと、そう思っただろう。
だからこそ、見えない。
この時、この瞬間のために、俺が動いて来たことは。
「がっ…………なっ…………?」
風が吹いている。
それは銃弾の軌道を逸らすような力を持っている訳ではないし、風そのものが何らかの奇跡を起こす訳でもない。ただの、室内に吹く、風だ。
だが、その風は俺が、幻覚の中に居ないことを教えてくれる。突き動かしているものが、まだこの世に俺を繋ぎ止めていることを教えてくれる。
俺に向かって放たれた銃弾が、反転してフォックス・シードネスの胸を撃ち抜いた事実を伝えていた。
俺は脇腹に剣が刺さったままで。目の前で驚愕に目を見開いて、口から血を吐いているフォックス・シードネスを見詰めた。
特に、何かの感情が湧いてくる事はなかった。
「お前がこの塔の上で、どうやって俺を追い詰めるのかなんてことは、勿論分からなかったけどな」
笑いはしない。こいつは俺の事を嘲笑しながらも、一瞬の油断もせずに俺を追い詰めてきた。そのことは、俺が一番良く分かっている。
「最後には必ず、銃で俺を撃ってくると思っていた。……いや、信じていたよ」
読めない罠もあった。まんまと騙される格好にもなった。
互いは別々の事を考え、別々の思惑に従って動いていた。
フォックス・シードネスは、俺を利用するために。
俺は、フォックス・シードネスの度肝を抜くために。
だから、笑う事は出来なかった。一歩間違えれば、負けていたのは俺、だったのだから。
信じられないのかもしれない。今のこいつには、俺の事が化物か何かのように見えているだろうか。それとも、死の淵から這い上がった鬼のように見えているだろうか。
その、どちらでもない。
俺は、人間だ。
人間だから、人間であるからして、人間のこいつを上回ったのだ。
「だから、仕込んでおいたのさ。お前がご丁寧に用意してくれた、幻想空間の中でな」
玄関扉の前に描いてあった、俺をこの塔から突き落とすための魔法陣。その空間の中で、俺はたった一つ、魔法公式を組み上げていた。
魔法が発動したのは、その瞬間。魔力はたった一度、その<計画表現>のために消費されたのだ。
<ホワイトニング>を満足に発動出来なかったのは、<計画表現>と重複して発動するだけの魔力が確保出来なかったから。それでも、この短い時間に強化できただけでも優秀だった。
既に、限界など超えているのだから。
「馬鹿な……いつ……いつ…………」
左胸に手を当てて崩れ落ちるフォックス・シードネスを、俺は見下ろしたままでいた。
じき、気付くだろう。
<反射>の魔法陣を仕込んだのは、フォックス・シードネスと戦い始める前のこと。その一瞬、俺は確かにフォックスに示していた。
最も、服の中に魔法陣を仕込んだのだと、気付く事が出来るかどうかは別の話だが。
『――――だけど、欲しいだろ? お前が丁寧に作ったアホトラップでも死ななかった、こいつがよ』
あの時だ。
フォックスは、目を見開いた。
「まさか――……」
おそらく、気付いたのだろう。
胸を叩いた時に、発動しておいた。威力の高い攻撃は弾く事が出来ないが、『矢の一発、銃弾の一発程度なら弾き返す事のできる』、<反射>の魔法陣を。
言葉がトリガーになっていない魔法の強みでもある。
ついにフォックスはその場に仰向けに倒れ込み、息を弾ませていた。……チャンピオン・ギャングの使う『銃』って武器は、狡いな。弓矢に飛距離でも攻撃力でも劣る癖に、人を撃ち抜く事に関しては何よりも優れていやがる。
故に油断して喰らえば、たった一発でも致命傷。死に至る。
「しかし……わからない、はずだ。わた……しが、じゅうを……つかう……こと……」
まだ、声は届いているだろうか。
俺はただ、自らの攻撃で死に逝くフォックス・シードネスを見下ろしたままで。
「塔の前で俺と対面した時、フィーナが現れた。俺が咄嗟にフィーナに手を伸ばした時、お前は腰の剣じゃなくて、懐に手を伸ばした」
ただ、俺が組み立ててきた勝利への道筋を、語る。
「それがお前の『誤算』だ、フォックス・シードネス。――――てめえの罠にてめえで堕ちやがれ」
クール・オウルが、最後に俺へ残してくれた。たったひとつ、唯一の勝ち筋だった。
「――――そうか」
フォックス・シードネスは目を閉じ、動かなくなった。……自らの攻撃で自らを傷付け、そして倒れていく。それは何とも悲しい光景ではあったが。俺は無言のままで振り返り、フィーナの下へと駆け寄った。
「フィーナ!!」
抱き起こすが、眠らされているフィーナは目を開けない。俺は何度も肩を揺さぶり、フィーナの目を覚まさせた。
「起きろ!! 起きてくれ!! ここから離れるぞ、フィーナ!!」
フォックス・シードネスがここで倒れた事は、一体どれだけの時間を掛けて、他の人間に伝わるだろうか。……或いは、いつ何時でも伝わるように、何らかの細工がされているという可能性もある。
例えば、魔力反応が途切れたらどうこう、などだ。やりようは幾らでもあるのだ。
澄んだ空気の中では、どうにも眠ってしまったフィーナが二度と目を覚まさないかのような気持ちになり、俺の気を流行らせる。ベランダから僅かに差し込む柔らかい光をフィーナの顔に当て、俺は呼び掛け続けた。
そして、薄っすらと。フィーナは、目を開いた。
「……よし!! フィーナ、俺が分かるか?」
俺を見ると、フィーナは不安そうな顔になり――……まだ、はっきりと目覚めていないのか? いや、どうにも様子がおかしい。屋上に辿り着いた時から、フィーナの様子はおかしかった。
もしかしたら塔の前で出会った時も、変だったのかもしれないが……
「フォックス? …………フォックス、来てください!! 私、またおかしくなっているみたいで……」
口を開いた瞬間、俺は気付いた。フィーナの舌――――奥の方に、何か見たことのない魔法陣が刻まれていたのだ。ベランダから差し込む光を顔に当てることで、初めて気付いた。
これは、どう考えたって幻覚・錯覚魔法の類だろう。感情のコントロールを抑制するようなものか……? 内容は分からないが……
野郎、誰も気付かない場所を狙って、こんな所に魔法を仕掛けて行きやがったのか。
「フィーナ、違う。俺だ。気付け……!!」
どうする? 中身は分からない。魔力を放出すれば、かき消す事が可能か? 頬を引っ張ってみるか。フィーナはどうにか暴れて、俺から逃れようと必死になっている。
「嫌…………怖いです。フォックス、早く!!」
ああもう、めんどくせえ。
「んっ――――…………」
無理矢理抱き締め、躊躇なく、俺はフィーナの唇に口付けた。
口内を押し開け、舌で魔法公式を舐め取る。対象が舌なら、物理的に刻まれた魔法陣じゃない。放っておいてもフォックスの魔力は何れ尽きるだろうが、そんなものを待っている暇はなかった。
フィーナの瞳が見開かれた。
どうにも、激戦の後の柔らかい感触は、このまま眠ってしまいたい衝動に駆られるが……結構、舌を奥までねじ込むのは難しい。そこらのカップルってどうやってるんだ、こういうの。
力の加減が分からず、一度口を離して、フィーナの下顎を指で開いた。
中を覗き込む――……
「…………ラッツ、さん?」
不意に、俺の名が呼ばれた。
口の中を見ていた俺は、唐突にその口が動いたことで、驚いてフィーナの目を見る。
澄んだ川のような透き通った碧眼は、俺を見ると僅かにその瞳孔を振動させた。
「……本物、ですか?」
直後、俺の全身を見て、その顔を真っ青にした。……今、自分が一体どのような姿をしているのか、自分でも分からない。すっかり視野は狭くなり、また視線の移動すら、今では面倒に感じられた。
「良かった、フィーナ。目が覚めたんだな」
全く、様子が分からずに居るようだった。そりゃあ、そうだろうなあ。どうにもフィーナには、俺が現実のそれではないように錯覚させるような、何らかの魔法が掛かっていたようだし。今更これが本物です、と言われてもしっくり来ないのかもしれない。
そして、奥に居るフォックスを見て、またフィーナは驚くのだろう。
「俺のリュックに、思い出し草が入ってる。……レオも、ロイスも、そこに、いる」
――――――――あれ。
フィーナの目が覚めて安心したのか、俺は全身に激痛を覚えた。叫び声を上げることも出来ないまま、全身が重たい鉛か何かになったかのように、その場から動く事も、声を発する事も出来なくなっていた。
真っ白いワンピースが、俺の血で赤くなる。
「ラッツさん!? ――――ラッツさん!!」
その血だまりに、俺は顔から突っ込んだ。
強制的に目が閉じていく。意識が遠く、そこに居る筈の自分がそこには居ないかのような――――それはどうにもあやふやで、地面に足が付いていないような感覚だった。ふわふわと宙に浮いているようで、底なし沼に嵌っていく瞬間にも似た。
「ここは、…………離れ、よ――――」
俺は。
○
どこか遠い場所で、誰かの声が聞こえる。俺は既に目を閉じて、指一本そこから動かす事が出来ない程になっていた。
限界を超えた<暴走表現>からの、<計画表現>、そして<ホワイトニング>。考えてみれば、それは当たり前だったのかもしれない。俺が正常に生きて行く為に必要な魔力さえ、そこに注ぎ込んだとも言えるのだから。
……まいったなあ。死んだら、意味ないんだけどなあ。
「出て行きなさい!! この人には、私が指一本触れさせません!!」
フィーナの声が聞こえる。俺はまだ、部屋の床に寝かされている。直感的に、俺の前に立ち、フィーナは両手を広げて俺を隠すように立っていると感じた。
もう一人、何者かの気配を感じた。……フォックス・シードネスか? いや、あいつはもう動く事はない。それは、確認してから倒れた筈だ。
ならば、他の誰か――――
「……何で、一人なんだ。……まさか守り切れなかった、なんて言わせねえぞ」
誰だ?
低く、艶っぽい声色。何故か俺を見て、何者かの身を案じているように聞こえた。
「俺は別に、ここに居る奴等の事は興味ねえよ。依頼人は死んじまったし……ラッツ・リチャードも、万全の状態で潰さねえと意味ねえしな」
どこかで聞いたような声がした。
いや、待てよ。
フォックス・シードネスは、この『流れ星と夜の塔』に居るダンジョンマスターを『ノーマインド』の魔物から、魔族にすり替えたと言っていた。その殆どは俺が倒して――――そして、フォックスが持っていた赤い宝石の餌になって消えて行った。
でも人間であるフォックス・シードネスが、五十人もの魔族を用意し、すり替える事なんて出来る筈がない。そこには必ず、『魔族』側の協力が必要な筈で。
「『深淵の耳』を出せ、嬢ちゃん。殺されたくないならな」
いや、どこかで聞いた事がある声の筈なんだが……。うまく思い出せない、どこで聞いたっけな……
そういえば、『深淵の耳』って結局、誰も持ってなかったな。予定では、『ドッペルゲンガー』が持っていた筈なんだけど――……あ、そうか。魔族とすり替えられたって事は、当然ドロップアイテムなんて出ない訳だから。
…………まいったなあ。チークに何て言えば良いんだ。
「そんなものは、ここにはありません。だから早く、ここから立ち去りなさい」
「ふーん…………いや? どうやら、あるみたいだぜ。ちょっとポケット見せてみろ、嬢ちゃん」
足音が聞こえた。何やら、フィーナと誰かが話をしているようだが――――既に視界も機能せず、身体も動かない。この場で相手が誰なのかを見極める事は、名乗ってくれなければ分からないだろう。
わざわざ名乗る奴は居ないだろうが……。
「よっし、これで二つ目、ゲットってとこか」
「…………フォックスと貴方達の目的は、一体何なのですか」
「別に、そいつの目的は知ったことじゃねえよ。……ただ、既にこの世に居ねえ権力者に仕えてるとかいう執事が、『深淵の耳』の情報を持ってるって言うから協力したまでだ」
「お父様を、何処にやったのですか!?」
暗闇の中、男は笑ったような気がした。
「殺したって言ってたぜ? お前の信頼しているこの執事が、俺にな」
絶句するフィーナ、楽しそうに笑う男。……ゴールバードとフォックス・シードネスが繋がっていると分かった今、この男も『ギルド・チャンピオンギャング』の一人である可能性はあるか。どうにも、フォックスとは利害が一致した関係、という様子ではあるが。
傷は塞がっている、のだろうか。いまいち判別は付かなかったが、一度は浮き上がった俺の意識は、再び深海の奥深くへと潜って行く――――…………
「そいつに伝えとけ。お前も『深淵の耳』を探していたのかもしれないが、そいつはこの、ロゼッツェル・リースカリギュレートが持って行ったとな」
…………あ、名乗った。




