(8)あなたのためについた嘘
美月はクッと顔を上げ、
「ええ、そうでしょう? 気にしないで、本当のことだから」
「まさか……君が、本当にこんな真似をするなんて……」
悠は眉を顰め、首を振って大きなため息をついた。
知られたら責められることは覚悟の上だ。だが、ここまで残念そうにため息をつかれては、美月もムッとしてしまう。
「お話はそれだけかしら? そんなことのためにこんな遠くまで……」
「離婚の時期は任せると言ったのは君じゃないか? それを……こんなに早く精子バンクを利用するなんて」
(……え?)
「そこの通路を案内されてやって来たんだ。窓から、精子バンクの件がどうとか……聞こえてきてビックリした。その準備をしているのかと思って……でも、違ったんだな」
「えっと……」
もう五ヶ月目に入っている、と言えば伝わるだろうか?
だが、この調子なら……『日本に来たときにはもう妊娠していたのか!?』と言われそうな気がする。そもそもボストンに戻って計画を即行しても、お腹が目立つほど大きくなるのは秋になるだろう。
男性というのは総じてこんなものなのかもしれない。
だが……。
美月は大きく深呼吸する。
「そうよ。あなたにはフラれちゃったし、次の恋まで待てなかったの。いつ離婚届けを出してくれたのか知らないけど、日本に出生届を出したら、あなたの実子になってしまうわね。そのときはまた面倒をかけるけど……」
「電話で話してたミスター・コリガンというのは?」
「は……?」
いきなり何を尋ねるのだろう?
美月は首を捻りつつ、
「ニューヨークにある精子バンクのひとつ、ファーティリティセンターの責任者兼コーディネーターよ。以前からいろいろ相談に乗ってもらっていて……」
「……その男はコリガン一族の御曹司なんだ」
悠はしみじみと口にしている。
「ええ、そうよ。だから、何? 何が言いたいの?」
「さっき僕を案内してくれた男性……ジュードだっけ、彼が言ってた。君がミスター・コリガンとデートしてるって」
「だから?」
「子供の父親がミスター・コリガンという可能性はないのか?」
引っ叩いてやろうかと思った。
悠は何が言いたいのだろう。彼に『愛してる』と言ったその数日後に、他の男のベッドに飛び込んだと思いたいのだろうか?
そう言ってもらえたら、彼は満足なのか……。
愛していないのなら、一生放っておいて欲しかったのに。美月を侮辱するために、こんなところまでやって来る神経がわからない。
(一生に一度ぐらい、バカになってみようかしら? 泣いてわめいて、あなたは最低だって責めたら……悠さんもビックリして二度と来ないかも……)
それでも、美月には恋に取り乱すことができない。
好きな気持ちは嘘ではないのに……美月は呼吸を整え口を開く。
「あるかも……しれないわね」
悠が息を呑むのがわかった。
「あなたに教えてもらったセックスは最高だったから、ボストンに戻っていろいろ試してみたのよ。彼もそのひとり」
「君は……婚外交渉の倫理観にはうるさかったはずだが……」
「そのお説教をあなたがするの? 自分にその資格があると思ってるの?」
「……いや」
「とりあえず、精子バンクの可能性が一番高いわ。いいのよ、別に、どちらでも。私の子供であればいいんだもの。遺伝子上の父親なんて……わからなくても人は生きていけるわ」
美月の言葉を悠は視線も逸らさずに聞いている。
逆に、美月のほうが後ろめたくなって背を向けた。
「美月……僕にできることは?」
その声は静かに震えていた。
「たとえば? あなたに何ができるの?」
「……君が望むことなら、なんでも」
なんでもくれると言いながら、美月が本当に欲しいものはくれないのだ。
突き返された“愛”を、もう一度求める勇気はない。それに、美月の中には悠からもらった子供がいる。それはふたりの“愛の証し”ではないけれど、美月が悠を“愛した証し”だ。
美月は振り返り、悠に向かって精一杯の笑顔を見せる。
「もう……ないわ。あなたから欲しいものは……もう、何もない」
「そうか……わかった」
短い返事とともに、悠も微笑んだ。
「もし僕に用があったら、弁護士に連絡を取ってくれ。それじゃ……仕事の邪魔をして悪かった。元気な子供が生まれることを祈ってる」
「あ……いつまで、こっちにいるの? 泊まるホテルは決まってる?」
「いや、すぐに日本に帰るんだ。おそらく、二度とボストンには来ない。だから、君や子供に会うこともないだろう……」
もう二度と悠に会えない。
彼の言葉を聞いたとき、美月の心を縛りつけた鎖がギシギシと軋んだ。膨れ上がった感情が抑え切れずに暴走してしまいそうになる。
なぜこんなことを言うのだろう?
ここまで来て、どうして美月の心を乱すようなことを……。
「余計なことを承知で言うが、そのミスター・コリガンと再婚を決めるときは、慎重にしたほうがいい。君のお父さんは素晴らしい人だけど、世の中の多くの男は違うはずだ。君には……誰よりも幸せになって欲しいと思ってる」
「……」
美月は無言でふたたび背中を向ける。
「ごめん。君を傷つけた僕が言うべき言葉じゃないな……それじゃ」
背後でドアが開き――。




