(7)神様の贈り物
『ミツキ先生、お客さんよ』
個室のドアがノックと同時に開く。美月より少し年下の赤毛の女性、リア・ユーイングが顔を出して用件だけを端的に告げた。
美月はパソコンのキーボードを打ちながら、顔も上げずに返事をする。
『来客? そんな予定はあったかしら?』
ダークブラウンの髪をひとつに縛り、ポニーテールの毛先が肩より少し下で揺れていた。ボストンに戻って来て彼女が一番にしたこと。それは、失恋の定番、髪を三十センチ近く切ったことだった。
『さあ? わかんないけど……男の人だった』
リアの声のトーンが下がった。
彼女は交際中の男性から酷い暴力を受け、売春を強要されたことがある。でも、立ち直りも早かったため、シェルターに残り、雑用の仕事を手伝ってくれている。
二年経っても男性恐怖症が残っていて、外に出て働くのが厳しいという理由もあった。
『わかったわ……じゃ、応接室に』
『所長が話をしてたから、所長室にいるんじゃないかな?』
『OK。五分以内に行くって伝えて』
美月はスッと片手を上げ、リアにウインクで答えた。
美月の個室は裏庭に面した一階にある。だいぶ暑くなってきたので窓は全開。大きな窓からは裏庭で遊ぶ少女たちの姿が見えた。
彼女たちは十代半ばから後半の年代が多い。だが中には、十代前半の少女もいて驚くこともあった。
シェルターは避難所なのでそう長く受け入れてはいられない。かといって他の施設に移ると……わずか数日で男が連れ戻しにきて、ふたたびSOSを受けることも少なくないのだ。
金や暴力、薬物……それらを使う男は最低だ。
だが最も卑劣な男は『愛』を理由に女を縛ろうとする。『愛してるのにどうして逃げる』『愛してるから嫉妬のあまり殴ってしまったんだ』何度聞いた言い訳だろう。
しかもそんな男の愛に応えると言って出ていく少女もいる。
(愚かだわ……でも)
以前なら、どうして捧げて尽くすのかわからない、そう思っていた。愛は対等であるはずだ。愛を尽くす価値もない男もいる。価値のある相手を愛し、尽くさなければ自分の価値も下げることになる。
でも今は……。
(まあ、何に価値を見出すかは本人しだいだし……。客観的に見て、不毛でしかない相手を愛することだってあるわよ……きっと)
でも……悠は違う。
悠は美月を弄ぼうとはしなかったし、会いに行ったのも、セックスをねだったのも自分からだ。最初から『愛さない』と言ってる彼を受け入れながら、最後には愛をねだって玉砕したのも自己責任。
悠は悪くない。
美月が頑なに言うと、シェルターの所長で友人のリカ・ブロードハーストは、
『シェルターの女の子たちと同じことを言ってるわ』
そう言って笑った。
(そうね……本当にそうだわ……わかってるけど、でも……悠さんは本当に違うのよ)
自分の思いに苦笑しながら、美月は席を立とうとした。
そのとき、デスクの上にある電話が鳴る。青い内線ランプが点滅していた。
『ミツキ……』
思ったとおり、リカの声が聞こえ、美月は慌てて言った。
『ああ、ごめんなさい。今、行こうと思ったところよ。でも、来客って』
『違うのよ。ファーティリティセンターのミスター・コリガンから電話がかかってるの。携帯に繋がらないって』
『ああ……彼ね』
それは繋がらないのではなく、わざと繋がらないようにしているのだ。普通は気づきそうなものだが……。
(失恋の反動でデートしたのがまずかったわね)
美月は軽くこめかみを押さえる。
もちろん、デートといっても食事に行って公園を歩いた程度だ。お礼代わりに軽いキスには応じたが、それ以降の付き合いは断っているので、美月の気持ちくらいわかりそうなものである。
『例のコーディネーターでしょう? まだ付き合いがあったの?』
『精子バンクの件はとっくに終わってるわよ。リカも知ってるじゃない。ミスター・コリガンには、来客中だから夜にかけ直すと言っておいてもらえる?』
『それはいいけど……コリガン一族って言えば、ニューヨークの資産家で土地持ちじゃない。彼、御曹司なんでしょ? 押さえておいても損にはならないわよ』
リカの素晴らしい提案を苦笑で受け流しつつ、
『リーカ、私には御曹司も資産家も必要ないわ。生活費もここの維持費にも困ってはいないから。ところで……客って? また誰かの保護者が弁護士でも立ててきた?』
未成年の言うことを真に受けるのは間違っている。彼女の親は非常に立派な人間で経済力もある。そんなご託を並べつつ、妻の連れ子に性的関係を強要した父親が、弁護士を立ててまで連れ返しに来たことがあった。
美月はその少女が妊娠していることを明かし――本人が出産を希望しているので、正義の所在は子供のDNA鑑定に委ねましょう。と言ったら、一切の連絡を寄越さなくなった。
『いいえ、仕事ではなくて……プライベートよ』
『プライベート? 誰の?』
『あなたに決まってるじゃない。ミスター・イチジョウよ……身分証も確認したから』
どきん、と心臓が強く打った。
そのまま、頭の中が熱くなる。酸素が充分に回っていないような息苦しさを感じ、口を開くのに声が出てこなかった。
美月が酸欠の金魚のように口をパクパクさせていると……。
『ジュードに部屋まで案内してもらったから、もう着くと思うわ』
その言葉の意味を理解する寸前、ドアがコンコンとノックされた。
~*~*~*~*~
目の前に悠が立っている。
グレーにライトグレーのストライプが入ったスーツ――彼のワードローブにあっただろうか、と考えるが思い出せない。
少し痩せたような気がする。だが、スタンダードなデザインを日本人離れした体型ですっきりと着こなしていた。
そんな彼を見て、こんなことならちゃんとしたスーツを着て仕事をするんだった、と美月は心の中で舌打ちする。
(黒のジャンスカにポニーテールなんて……しかも化粧らしい化粧なんてしてないし。これじゃハイスクールのときと変わらないじゃない)
用務員のジュードに『飲み物はいらないわ』と言うと、彼は黙って首を傾げて出て行った。
そうなると、いよいよふたりきりだ。
「やあ。元気……そうだね」
「ええ、おかげさまで。……あなたは、お仕事? でも、珍しいわね。ボストンに一条系列の支社なんてあったかしら?」
「いや……」
「じゃあ、ハーバード関係? 同窓会の時期は過ぎてると思うんだけど。それとも、レッドソックス戦でも見に来たの?」
我ながら、よく回る舌だと感心する。いや、回っているのは頭の中身だろうか……。感情がついていっていないので、これを空回りというのだろう。
そんなことまで冷静に分析しながら、美月はゆっくりとテーブルに手をつき、立ち上がった。
キィーッと音がして椅子が後ろにずれる。コロのひとつが上手く回転しないせいだ。買い替えなくては、そんなどうでもいいことばかり頭に浮かんだ。
「立ったままで済む用件なら手早くお願いしていいかしら? 長くなるようならソファにかけてくださって結構よ。飲み物は私が持ってくるわ」
ドアの前に立ったままの悠に話しかけながら、ソファを指差した。
黒いジャンパースカートのウエストはゆったりとしたデザインだ。後ろのリボンで調整すると、いくらでもゆったりとさせられる仕組みになっている。
悠は決して鈍いタイプの男性ではない。
それでも、無駄な抵抗は承知で……美月は胸の下辺りで腕組みして立った。
「美月……女性にこういった質問をするのは不適切だとは思うんだが……少し、ふくよかになったんじゃないか?」
悠は茫然としたまま、彼女のウエストを睨んでいる。
(ああ……そうよね。でも……今までのことを考えたら、悠さんに知られることはないと思っていたのに……)
美月はボストンに戻った直後、ピルの服用をやめた。失恋のショックを癒やすために子供を作るのは間違っている。第一、自分が欲しかったのは悠の子供だと気づいたせいもあった。
精子バンクには、離婚が成立するまでの間に考え直したい、とキャンセルを申し入れた。
本来、すぐにくるはずのものがなかったことも、ピルの影響と深く考えていなかったのだが……。体調不良が続いて受診したところ、美月は思いがけず神様の贈り物を授かっていた。
(慌ててピルの残りを計算したら……どこかで二日も飛ばしてたなんて……。悠さんにあれだけ偉そうに言ったくせに、言える訳ないじゃない)
毎日飲んだつもりだった。最初の夜か、お城のお花見に行った日か……それとも、悠の興味を失ったことが気にかかっていたころか。
どちらにしても自分は悠を騙したことになる。
――もし君を妊娠させたら……最悪だな。
――君や子供のことを愛しているフリができるかどうか、自信がない。
あれが悠の本心とは思いたくない。だが父親との不仲や沙紀の件があって、悠は子供を持つことに怯えていた。
だが悠のことだ。戸惑いながらも美月との結婚を継続したいと言い始めるに決まっている。
悠はハーバードのビジネススクールを卒業して六年、一度もボストンには姿を現さなかった。このままずっとやって来ない可能性も高い。
子供には可哀想だけど、アメリカの国籍だけを取るなら……悠に知られずに育てることは可能ではないだろうか?
そんな仄かな期待が美月の胸に浮かび……。
どちらにしても“産まない”という選択肢は美月の中にはなかった。




