(5)勝敗
唖然とするみんなの前で……。
「私の養女になれば、君も一条姓を名乗ることができる」
父の正気とは思えない宣言に、真っ先に反論したのは桜だった。
「冗談じゃないわ! 嫌がらせのためにお兄ちゃんに近づいて、私たちを離れ離れにした人なのよ。お母さんだってちょっとは反対してよ!」
桜の叫びはもっともだ。もっとも過ぎて、悠にも両親の考えがわからず、開いた口が塞がらない。
だが、真は違ったらしい。
「父さんと母さんがいいなら、俺は別に」
「別に、って真……あなたにとって姉になるのよ。それでもいいの?」
「いいも悪いもないし。父さんの戸籍に入ってた人なんだろ? 血は繋がってなくても、姉さんと呼んでたかもしれないし。それに……なんか、よっぽど俺たちと家族になりたいみたいだし……」
「私もいいけど。でも、ちゃんと謝って欲しい。あ、私じゃなくて、お兄ちゃんとかお母さんに。あと、お姉ちゃんにも」
そう付け足したのは紫だった。
下のふたりはまだ子供だと言いたい。だが、逆に大人のような気もして……悠は混乱していた。
「ふたりとも何を考えてるのよっ! 私はこんな女に謝って欲しくなんかないわ。ちょっと、お兄ちゃん、なんとか言ってよ!」
桜は頼みの綱とばかり、悠に縋ってきた。
「僕も反対だ。この女に一条の姓を名乗って欲しくない。それくらいなら……僕は一条を捨てるよ。二度と家にも帰らない。父さんや母さんに会うのもこれが最後と思ってくれ」
「え? ……あの、お兄ちゃん?」
悠の言葉に桜は驚いたようだ。
そんなつもりじゃない、といった視線を寄越してくる。
「悠の好きにすればいい」
それが父の答えだった。
桜が怒鳴ろうとしたとき、父はさらに言葉を続ける。
「だがそれは……この十年とどう違うんだ?」
悠は返答に詰まった。
たしかに何も違わない。違わないが……そうなった原因はすべて沙紀にある。その元凶をなぜ家族に迎えなければならないのか。
頭の中が真っ白になる悠に、母が口を開いた。
「お母さんね……全部忘れようとして頑張ったの。悠が戻って来てくれるように。そのときは何もなかったみたいに、笑って元の家族に戻れるようにって。でも……そんなことは、無理なのね。悠はいつまでもお母さんがいないと生きていけない赤ちゃんじゃないし、それは、桜も真も紫も同じだから」
母の「ひさし」と呼ぶ声に、繋いだ手を放されたような、複雑な心細さを感じつつ……。
「でも……母さんは母さんだ。母さんが我慢してまでこの女を受け入れる必要なんかない。父さんが無理を言ってるなら、母さんだって父さんのもとを離れたらいい。僕と一緒に暮らせばいい」
それは、十年前にも迫った選択だった。
そんな悠に母は十年前と同じように微笑んだ。
「それはできないわ。だって、聡さんのことを愛しているもの。過去も未来も、いいことも悪いことも、全部を受け入れてしまえるくらい。それに……聡さんはかっこつけようとして、失敗ばかりしてる人だから……見捨てられないわ」
母の言葉を聞いた瞬間、何かが胸の奥でざわめいた。
あのとき、母が息子を切り捨てたように聞こえた言葉。だが今は……。
――誰がなんと言っても、あなた自身が自分を信じていなくても、私はあなたを信じてる。
美月の言葉が胸に甦る。
「父さんにとって……僕が生まれたことが人生最大の過ちだとしても? そんな父さんでも愛して、許せる訳?」
「悠さん……? それは違うわ……それは順番が」
何か言いかけた母を父が止めた。
「悠、おまえは四人の中で一番私に似ている。過ちを繰り返しては、自分で責任を取ったつもりで孤独に陥る。違うところは……私は自分だけでなく人にも厳しくしてしまうが、おまえは優しいな」
「……父さん?」
悠が尋ねようとしたとき、はじけたように声が上がった。
「なんなの? 何よコレ……。家族でなんの茶番をやってる訳?」
沙紀に答えたのは母だった。
「茶番じゃないわ。聡さんはやり直そうと言ってるのよ。最初から……」
「なんの罠が待ち受けてるのかしら? 今になって」
「もちろん、DNA鑑定の結果を受けて、あなたが納得してからでいいわ。今さらだけど……“もし、あのとき”そんな思いを十年間抱えてきたのよ。あなたも同じじゃないの? 今のままだと十年後も同じよ」
沙紀は一旦口を閉じ、少し落ちついた様子で口を開いた。
「残念ね。私は実子として認めなさいと言ってるのよ。そんな……」
「むろん、鑑定で実子という結果が出たらそうしよう。鑑定機関は複数選び、君の指定する業者にも頼もう。公正に、公平に。その上での提案だ。……私はこれを機に、事務所を畳むつもりでいる」
沙紀の口をふたたび閉じさせたのは父だった。
悠と桜は独立して働いている。真も順調に行けば数年のうちに、高校生の紫が独り立ちするまでには少々かかるが困らない程度の資産はある。
事務所の共同経営者である如月の子どもは、三人とも弁護士にはならなかった。如月ともじっくり話し合って出した結果らしい。
他に数人の弁護士がいるが、彼らには新しい事務所を紹介するか、独立の援助をするという。
「これまで必死で働いてきた。そう長くない人生なら、夏海とゆっくりした時間を過ごしたくてね。沙紀、君とも真剣に向き合うつもりだ。君の人生はまだ半分ある。やり直す気があるなら、今をおいてない」
ようやく……悠は父が本気なのだと知った。
魔女のように、生霊のように、一家に付きまとう影。その影を力尽くで引きはがし、とどめを刺すのではなく。例えは悪いが……腰を据えて、成仏まで付き合うと言っているかのようだ。
「バカげてる……そこまで、やってやる価値がこの女にあるのか? こんな……こんな……」
まるで苦行のようだった十年が頭に浮かび、沙紀を思うさま罵りたくなる。
「珍しく気が合うわね……ホント、バカげてるわ。退院前にもう一度調べてもらったほうがいいんじゃないの?」
沙紀の言うとおりだ。
奇しくも同意見だ、と彼女の顔を正面から見た。
その顔は、まるで恐ろしいものを目にしたような……強張り、色を失っている。
(なんで……この女がこんなに動揺してるんだ?)
そもそもなんで、同じ意見になるのかわからない。父は沙紀の言うとおりにすると言っている。思いどおりになったと喜ぶところではないだろうか。
そんな悠の視線に気づいたのか、さらに彼女の目が泳ぎ始めた。
「何よ。何を見てるのよ! バカバカしい。私、帰るから……」
「――逃げるな!」
沙紀の背中に鋭く声をかけたのは父だった。
「本当は、自分のしていることの虚しさをわかっているはずだ。悠が羨ましくて、引きずり下ろしたくなったんだろう? すぐに堕ちてくる愚か者だったら、あっさりと離れたはずだ。でも、君が人生と引き換えにしてまで堕落させようとしても……できなかった。もう、諦めなさい」
「そんなこと……私は、当然の……」
「助かりたいと思うなら、私の手を取りなさい。一度は妻と呼び、若いなりに本気で愛した女性の娘だ。悪いようにはしない」
「……」
「だが、もし、それでも歪んだ執着から離れることができないというなら……。君と決別しようと思う。弁護士資格と引き換えに」
あまりにも静かで、迷いのない父の声に沙紀はいつもの悪態をつけずにいる。それは桜も同じらしく、先ほどまでわめいていた口に、鍵がかかってしまったかのようだ。
父がそこまで覚悟を決めているのなら……悠も腹を決めた。
「まあ……それも、いいのかもしれない」
「お兄ちゃん?」
「いい加減、“姉じゃない”と言い続けることにも飽きたよ。いっそ、本当の姉になるならそれもいい」
桜にすれば、父と同様に悠も壊れたと思ったかもしれない。
いや、実際に悠の中で何かが吹っ切れた。
「武器を持って戦うのは嫌だった。かといって逃げるのも嫌で……でも、これなら僕にもやれそうだ」
「何を……やろうって言う訳?」
「敵だから、勝つか負けるかの二択だと思っていたんだ。できれば、彼女のほうから勝負を下りてくれることを願ってた。でも、三つ目の選択肢がある――味方になればいいんだ」
桜は呆気に取られた様子だ。
一方、真や紫にすれば「なるほど」と納得している。
そのとき、沙紀が逃げるように、少しずつ後ずさりをした。彼女は扉の取っ手を掴むなり、一気に押し開き廊下に飛び出して行く。
そんな沙紀を真っ先に追いかけ、桜は病室を飛び出した。




