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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第6章 再生
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(4)リセット

「すまなかったな。おまえもいろいろ大変なときなのに……」

 ベッドに横たわる父は想像以上に弱って見えた。

 あらゆる意味で見上げてきた父が、いつまでも自分より前を歩いている訳ではない、と感じる瞬間。これが、父と顔を合わせ辛いと思う大きな理由だ。

 おそらく悠は、自分で思う以上に父を慕っているのだろう。

 認めたくないそんな思いは、認めざるを得ないところまできている気がした。


「いや、別に……」

「だが、美月さんの件はまだ終わっていないだろう?」


 父の言葉にドキリとする。

 悠の中では何ひとつ終わっていない。それをどこまで知られているのかわからないが、答えられずに横を向いた。


「もっとも、終わっていないのは沙紀の件も同じだが……」

「父さん! それは」

 まさか父が、母や桜の前で沙紀の名前を出すとは思わず、悠は声を上げる。

 恐る恐る母を見るが、少し困ったような微笑みを浮かべ、父の顔をみつめていた。

「そのことは……母さんや桜の前では……」

「いや、母さんにもきちんと話をして相談したんだ。いろいろ準備をするのに忙しくて……年甲斐もなく無理をしたらしい」

「……準備って? いったい、何をする気なんだ?」

「実はそのことで、おまえに頼みがある」


 悠の問いに父が口にした頼みとは……。



~*~*~*~*~



 一週間後――。

 父の症状は思いのほか軽く、すぐにも退院できると言われた。だが、母の希望で入院を継続し、様々な検査を受けることになったのだった。

 その間、悠は様々な事情から東京とO市を往復する羽目になり……。

 父が検査を無事に終え、退院を翌日に控えたこの日、病室には予想外の客を迎えていた。


「なんで私が、こんなところに呼び出されなきゃいけない訳?」


 遠藤沙紀がそこにいた。病室に不似合いな濃い化粧をして、四十歳を超えているとは思えないほど派手に装っている。

 父に言われるまま、悠は沙紀を探し出し、病院まで連れて来た。思えば、この女とは長い付き合いだが、悠のほうから尋ねたのは最初のとき以来だろう。

 実を言えば、なんのためにこの女を呼んだのか、悠にはさっぱりわからなかった。



『そろそろ決着をつけようと思ってね』

 日時と場所の指定を昨日尋ねたとき、父はそう答えた。

『何も今、それも病院でなくともいいんじゃないか? たいして悪くなかったとはいえ、倒れてからまだ一週間だ。疲労が蓄積して心機能に負担をかけたんなら、充分に休養を取って、それからでも』

『こういった場所のほうが彼女も警戒しないだろう。それに、倒れたときに思ったんだ。このまま死んだら成仏できそうにないな……とね』

 父の言葉に桜は『縁起でもないこと言わないで!』と怒っていた。



 その桜もこの場所にいる。桜だけでなく、家族みんなが揃っていた。

「ご家族総出で何かしら?」

「仮にも、父の娘だと名乗るなら、その父親が倒れたんだから見舞いに来るべきなんじゃないの!?」

 桜は沙紀を睨んで怒鳴りつける。

 病室だから声のボリュームを下げて、と後ろから引っ張る役が末っ子の紫だった。

「あら、そう思うんなら教えてくださればよかったのに。私は悠さんが来てくれるまで知らなかったのよ」

 ふふん、という顔で沙紀はあっさりと桜を返り討ちにする。


(こうして見れば……美月は凄いんだな。この沙紀とやり合って言い負かすんだから……)


 悠は目の前のやり取りを、どこか達観する気持ちで見ていた。以前なら些細なことも気になり、この場にいることすらできなかったかもしれない。

 だが今の悠にとって、心の大部分を占めるのは美月のことだけ……。

 さすがに父が倒れたときは焦ったが、それ以外はどんなことにも、これまでのような切羽詰まった感情が湧いてこない。


(ああ……前に那智さんが言ってたのはこういうことか)


 ――自分から檻に入って逃げられないと言っているだけだ。鍵はかかってない。いつでも出られる。


(頭の中が美月だけになったら……魔女も檻も見えなくなった。僕は自分で、この魔女に囚われたと思い込んでいただけなんだ……)


 悠はしみじみと自分の感情を分析していた。

 だが、沙紀や桜はそれどころではないようだ。


「明日退院なんですって? よかったわ。お父さんには少しでも長生きしていただきたいもの」

「私の父よ! “お父さん”なんて呼ばないで!」

「それが嫌なら、ちゃんとDNA鑑定を受けていただきたいわ」

「四十年も前に裁判で決着のついてることじゃない! あなたもあなたの母親も最低! 人間のクズだわ。地獄に落ちればいいのよ」

「やめなさい、桜さん! そんなことを言うものじゃないわ」

 娘のあまりに過激な言葉に、母が止めに入る。

 だが桜のほうはとても素直に受け入れられず……。

「でも事実じゃない! 金の亡者で最低の人間だものっ」

「あら? あなたの婚約者と寝たこと、まだ怒ってるの?」

 沙紀はカラカラと笑った。


 悠はとっさに現実に引き戻された気分だ。唖然としたまま……。

「貴様……そんな真似をしたのか? どうして……」

「どうして? 可愛い妹のために、男の本性を暴いてあげただけじゃない。結婚前にわかって幸運だったわね」

 たしかに、この沙紀の誘惑に乗る男なんてろくでもない奴だ。桜の結婚相手に相応しくない。とりあえず、自分のことは棚に上げて悠はそんなことを考える。

 だが、桜が傷ついたことを思えば……。

 悠が沙紀を怒鳴りつけようとしたとき、


「それは同意だな。父さんもあの男は気に入らなかった。どれだけ大きな自動車会社の御曹司かしらんが……桜にはもっと似合いの男がいるはずだ」


 父はベッドの上に座ったまま、憮然とした表情でうなずいていた。

 桜も拍子抜けしたのか、

「そ、そんなこと……。だから、あんな男はどうでもいいの。私が怒ってるのは……」

 言い辛そうだが、どうやら桜の怒りは悠との一件が原因らしい。


「君もそうだ……沙紀。馬鹿な真似をして、これ以上人生を無駄に過ごすものじゃない」

 父の視線は桜から沙紀に移る。

「何よ、それ? 父親気取りでお説教? そんなことは……」

「ああ、その件だが……夏海とも相談したんだが、DNA鑑定を受けようと思う」

 その言葉に全員が息を呑んだ。



 四十年前の裁判で、親子関係はない、と決着がついている。沙紀の母親もそれを認めており、今さら鑑定を受けて証明する義務はない。父は一貫してそう主張していたはずだった。

 沙紀が本気で一条聡を父親だと信じているとは思えない。彼女はあらゆる不幸の理由を、父から否定されたことにすり替えているだけなのだ。

 亡き一条の祖母であったり、叔父の匡であったり……一条に関わることで、沙紀は楽をして金を手に入れることを知ってしまった。父が懸念していたのは、おそらくそのこと。怠惰に慣れた人間は、怠惰であることに全力を注ぐようになる。――今の沙紀だ。

 彼女は悠の周りに徘徊することや、逮捕を免れる手段……悪知恵ばかりを駆使する。千絵の件もいい例で、沙紀は決してそれだけの努力を過去から決別する方向に向けようとはしない。



「待ってくれ。そんな、今になって……。父さんは、理不尽な要求には決して妥協しないんじゃなかったのか!?」

 悠は父に向かって怒鳴っていた。

 自分のせいだということはわかっている。いつまでも悠が決着をつけられないから、とうとう自分でどうにかしようと思ったのだ。でもそのやり方は……父らしくないと思った。

 父ならもっと辛辣で、完膚なきまでに沙紀を叩きのめす手段を講じるはず……。


(そうでないと……そうでないなら、僕は)


 父の返事に動きを止めたのは沙紀も同じだ。

 そして、そんな彼女に向かって言った父の言葉は、俄かに信じがたいものだった。

 

「人生のどこで間違えたのか……大きな過ちに気づき、夏海と悠を取り戻したときに、人生の軌道は修正したつもりでいた。だが、違ったんだ。私は四十年以上も前だが美和子に……君のお母さんに裏切られたことがショックだった。だから君の存在は、目障り以外の何ものでもなかった」

 父は数回、幼い沙紀を目にしたことがあるという。

 離婚のときに美和子が父から引き出した金額は相当なものだった。だが……沙紀の件で顔を合わせたとき、美和子は一文なしに近かったという。男に騙された、詐欺に遭ったと口にしたらしいが、父には関係のないことだった。

 そのとき、倫理観などまるで持たない母親のもとで、沙紀がまともに育つはずもない。父はそんな感情を抱いたという。

 美和子はその後も何度かわずかな金を借りに来たらしい。だが、父はすべて拒否した。やがて、美和子は姿を見せなくなった。

「どこまで堕ちていたとしても、自業自得だと思った。美和子も、そして君も。君を助ける義理は私にはない。罪の報いだ……思い知ればいい、と」

 父は吐き捨てるように言い、短い時間、目を閉じた。

「だが、考えることがなかった訳じゃない。とくに、自分が子供を持ってからは……。美和子の娘はどうなっただろう……知らなかったとはいえ、二年近くも戸籍に入っていた“娘”だ。だが、私は人生のリセットを済ませたつもりだったんだ」


(父さんは何を言いたいんだ? いったい、沙紀をどうする気なんだ?)


 悠は尋ねたいのだが、口を開くことすら躊躇われる。

 重苦しい空気が病室の中を漂い……そのとき、


「沙紀、君がそれほどまでに私を父と呼びたいのなら……私の娘になるといい」




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