(3)夜明け前
タクシーを走らせ、東京都内に入ったのは朝だった。
酔った状態で運転はできず、明らかに動揺している遥に任せることも躊躇われた。真と末っ子の紫はたまたま都内におらず、母と桜が父に付き添ったという。
『命に別状ないって。手術も必要ないそうだ。だから、始発で戻ってきていいぞ』
夜中に駆けつけてくれたのは、先月、真たちが面倒をかけたばかりの如月勇気だった。去年の春、十年ぶりに独身に戻り、子供もいないので身軽だと笑う。申し訳ないと思いつつ、ついつい頼りにしてしまうのが実情だ。
だが、高速道路を走っている途中で『始発でいい』と言われても戻る訳にもいかない。
悠は隣に座る遥を気遣いながら、七時間弱をいらいらして過ごしたのだった。
「君の車は人を頼んで届けさせるから……匡叔父さんに、父さんは大丈夫だと伝えておいてくれ」
「落ちついたら、お見舞いに来ますとお伝えくださいね」
「ああ……助かったよ。ありがとう」
本当に助かった。
もし、悠ひとりであったなら、今でもマンションの玄関で足踏みしていたかもしれない。遥がいることで悩む素振りは見せられず……結果的に、悠はここまでやって来た。
病院の前で遥を見送り、悠は一歩足を踏み出した。
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「お兄ちゃん、遅いじゃないのっ!」
綺麗な眉を逆立てて怒っているのは妹の桜だった。
数年ぶりの再会、言葉を交わすのはそれ以上かもしれない。妙な照れがあり、悠は視線を合わせることができない。
「ああ……悪い。如月さんも、ご迷惑ばかりかけて、本当にすみませんでした」
「俺のことは気にするな。うちの親も何かあると迷惑かけてるから、お互い様ってヤツだ」
勇気は彼の父親以上に、荒っぽい印象の男だ。髪型や身なりは清潔であればそれでいいと言い、オールシーズン、Tシャツとジーンズ姿。冠婚葬祭以外で彼がスーツを着たところを見たことがない。今も真夏のような軽装でそこに立っており、三十代半ばの印象を受ける。
「とにかく、主治医に話を聞いてこよう」
医局の場所か看護師を探そうとする悠の腕を桜が掴む。
「その前に、お母さんに会って優しい言葉をかけてあげて。どれだけ心配かけてると思ってるの? お母さんは自分が悪いって言うけど、私にはお兄ちゃんの我がままにしか見えないわ!」
正面から桜と対峙して、初めて、すぐ下の妹が母と同じ瞳をしていることに気づいた。
柔らかそうな頬や顎のライン、女性特有の押しつけがましい程の愛情を含んだ声音も……桜はいつの間に、これほどまで母に似てきたのだろう?
窓から朝日の射し込む廊下で、悠は桜の顔をまじまじと見つめる。
「なっ、何? そんな、珍しいモノでも見たような顔しないでよ!」
「いや……おまえって、幾つになったんだっけ?」
「はぁ? 二十七よ。悪い?」
いつまでも『お兄ちゃん』と呼んで後を追いかけてくる少女のイメージしかなかった。
「桜は母さんに似てるな……とくに声が。顔も似てきたけど……」
「そ、そんなこと……」
そのとき――病室のドアが音もなくスッとスライドした。
話し声が聞こえて出てきたのだろう、そこに母が立っていた。ずいぶん儚げに思えたが、それでも昔と変わらず美しい。何があっても、悠にとって唯ひとりの、そして自慢の母だった。
「……悠さん……来てくれたのね? よかった……」
懐かしい声が涙に震える。
悠が口を開こうとした瞬間、十年前の母の言葉が甦った。
『触らないで……桜と紫にも近づかないで……汚らわしい! 悠も、聡さんも、もう信じられない!』
悠もいつまでも二十歳の青年ではない。
美月に話したとき、彼女は『どれだけ聡明な女性でも冷静ではいられない』そう言っていた。きっと彼女の言うとおり、母は沙紀のような女に息子を奪われたことがショックだったに違いない。
それを真に受けて家族を捨てた自分は、ただの“我がままなガキ”だ。
「ああ、父さんが倒れたって……でも、そんなに悪い状態じゃないって如月さんに聞いたから。担当の先生に確認したら……僕は帰るよ」
「そう……仕方ないわね」
「父さんは?」
「まだ、目を覚まさないわ」
「僕は……会わないほうがいいかな。怒らせて、具合を悪くしてしまいそうだ」
終始、母から目を逸らしたまま答える。
カツンと足音がした。桜が一歩近づき、次の瞬間、妹の手が悠の頬を打った。パシンという小気味いい音が白い壁に反射し、廊下に広がる。
「お兄ちゃんは頭がいいけど、全部わかったつもりで自己完結するのはただのバカよ! お母さんだって何も食べられなくなって入院してたんだから……」
「いいのよ、桜。母さんが悪いの。桜や紫に会うなって言ったのは私だから……悠さんはそのとおりにしてくれただけなのよ」
ふたりの会話に悠の呼吸は速まる。
だが、一番驚いたのはその次の桜の言葉だった。
「わかってるわ。あの、遠藤沙紀が原因なんでしょう? まったく、ダニみたいな女ね。あちこちに湧いて出てくるんだから。でも、私はあんな女には負けないわ」
「待て、桜。どうしておまえが沙紀のことを知ってるんだ!?」
「そんなの……どうでもいいじゃない」
「いいや、よくない!」
いいはずがない。沙紀だけは桜や紫から引き離しておきたかった。父も同じ思いのはずだ。
会社を中心に流れた噂は、社外に出ないよう注意を払った。弟妹の耳に届くのを恐れて、地方に行ったのも同然なのに……。
悠がさらに問い詰めようとしたとき、
「一条さんの意識が戻りましたよ」
病室の扉がふたたび開き、中から看護師の声が聞こえた。
母は「本当ですか!?」と答え、急いで中に入っていく。それに桜も続いた。
「悠――おまえは入らないのか?」
家族の会話に加わらず、隅で控えていた勇気が声をかけてくる。
「どんな顔をすればいいのかわからない……」
正直な気持ちだった。
そんな悠の言葉に勇気は困ったように笑う。
「気取ってどうする? 相手は親だぞ。おっぱい飲ませてもらって、オムツを変えてもらったんだ。かっこつけるだけ無駄ってヤツだ」
「たしかに。だから、母さんに突き放されたのがショックで……。逆に、父さんには気取ってしまうのかもな」
知ってか知らずか、勇気の言葉は的を射ており――悠も苦笑するほかない。
すると、勇気は頭をガシガシ掻きながら口を開いた。
「なぁ……桜ちゃんが去年の春に婚約解消した件、聞いたか?」
いつだったか美月にも同じ質問をされたように思う。
「それは聞いたけど……?」
自分とどう関係があるのか知りたかった。
すると、勇気はひと呼吸入れて、
「相手の男は桜ちゃんが勤める自動車メーカーの社長の息子で、彼女と同じ営業所の所長だったかな? 向こうが惚れ込んできて……まあ、彼女も結婚する気になった訳だが……そこに、さっき話に上がった“遠藤沙紀”って女が割り込んできた――」
沙紀は桜の婚約者に、悠との関係をいろいろ吹き込んだ。
それは真相から限りなく遠い、沙紀の主観で塗り固められた事実。だが、あからさまなねつ造ではない。
「桜ちゃんも嫌なことを言われて、結局、向こうから婚約を破棄されたんだ」
自分のせいで、桜にまで……。
その思いに悠が病院から逃げ出したい気分になったとき、ふいに、怒ったような桜の声が聞こえた。
「ちょっと勇気くん、それって大きなお世話!」
病室から飛び出してきた桜は腰に手を当て、男ふたりを怒鳴りつける。
「もともと、結婚してくれってしつこいから、妥協しようと思っただけ。仕事を続けてもいいって言ったくせに、今の仕事はダメって言い出すから……私から断ったのよ。それを体裁がどうとかって……」
桜は悠の鼻先に指を突きつけると、
「いーい? お兄ちゃんのことも、沙紀って女も、一切関係ないの! 謝ったりしたら、また叩くからねっ!」
桜の勢いに勇気は小さく口笛を吹き、ジロッと睨まれて口を閉じる。
ここまできっぱり言い切られては、悠も『ごめん』とは言えない。
「私のことはいいから……。お父さんがお兄ちゃんに会いたいって」
その言葉に悠は深く息を吐いて――。




