(2)後悔
『兄さんは冷たすぎる。自分の息子が苦しんでいるんだぞ。金で解決できるものなら、財産を投げ打ってでも助けてやろうとするのが親だろう? 悠に厳しいのは、ひょっとしたら心の奥でいまだに僕と夏海さんのことを疑ってるせいなのか?』
『そうじゃない。おまえが悠を大事に思ってくれるのはありがたいさ。だが……騒ぎを起こせば金になる――それがなくならない限り、遠藤の娘はいつまでも悠から離れないだろう』
『それが冷たいって言うんだ。向こうが諦めて離れるのを待っていたら、悠の名誉も精神状態もボロボロになる』
『悠はそんなに弱い男じゃない。――私の息子だ』
『……』
遥は父と伯父の会話を、息を殺して聞く羽目になってしまった。
夏海とは悠の母の名前だ。父が義姉を名前で呼んだことに違和感を覚える。聞いてはいけないことを聞いてしまったような、不安と罪悪感が遥の胸に広がった。
『母さんも気にしていたんだ。聡が悠に厳しいのは、僕の嘘が原因に違いないって。下の三人に比べて悠だけは一条家に来たがらないし……。母さんは孫の中で誰よりも悠のことを心配していた。亡くなる直前まで、何かあったら僕が責任を取れって言われたんだ。いや、言われなくてもそのつもりでいたよ。だから……』
『だから、一条グループの後継者の地位を譲りたい、と思った訳か?』
『本来の位置に戻すだけだ。僕なりに頑張ったつもりだけどね……父さんはきっと、聡なら……そう思ってるだろうな』
伯父は呆れたように息を吐くと、
『考えすぎだ。おまえが余計なことを気にしすぎるから、嫁さんも出て行ったんじゃないのか?』
『……ああ、わかってる。小心者の僕は社長の器じゃない。自由に生きたいと思いながら、一条を捨てることはできなかった。一条を継がなきゃいけなくなったのは兄さんたちのせい、そう言って親に甘え続けたんだ。今度は……悠に甘えようとしているのかもしれない。返すと言いながら押し付けようとしている。父親に代わってあの女を追い払ってやった……そんなふうに恩を着せて』
優しくて機転が利いて、母や娘に弱い父だ。記念日や誕生日など忘れたことがない。別居中といえども、毎月のように母のもとに贈り物が届いていた。
遥の目に、時折見せる父の社長としての顔は、とても頼もしく映った。
そんな父の自信なさげな声に、言いようのない悲しさを感じ……。遥は余計に出ていくことができず、廊下の隅に身を潜めるように立ち尽くした。
~*~*~*~*~
「父に聞くことができなくて……結局、母に聞いたんです。夏海おばさまは大学を卒業してすぐ一条の会社に就職して、父の秘書をやっていた、と」
それは悠も知っていることだった。
当時、社長であった祖父は、叔父・匡の結婚相手として悠の母を薦めたという。だが、父と母はふたりとも会った瞬間にひと目惚れで、その日に交際を始めた。
直後、些細な喧嘩が理由で別れ、母はひとりで悠を産んだというが……。
(出会ったときに、父さんには婚約者がいたんだから……ひと目惚れも何も、単なる出来心の浮気じゃないか)
喧嘩の原因もよくわからず、父の誤解、とだけ聞いている。
「若いころの父はたくさんの女性とお付き合いしていて、母はその中に夏海おばさまもいたと聞いたらしいの。聡伯父様の両方と付き合っていて、悠さんの父親は……本当はうちの父じゃないか、と」
遥の言葉を聞いた瞬間、一気に酔いが醒めた。
「バカなことを言わないでくれ! 僕の母はそんないい加減な女性じゃない。たとえ叔母さんでもそんな噂を流すのは……」
「怒らないで、悠さん。もちろん、わかってるわ。だって、ほんのわずかでも可能性があったら、父が私と悠さんを結婚させようなんて考え付くはずがないもの。そうでしょう?」
悠は口を閉じたものの怒りは収まらない。
子供心に、叔母から嫌われていることは察していた。でもその理由は、祖父が男の孫ばかりを可愛いがり、娘ふたりしか授からなかった叔母を蔑ろにしている、と思い込んでいたせいだと考えていた。
それがまさか、自分の夫と悠の母の関係を疑っていたからなんて……。
「母のことを悪く思わないで。若いころの父が誤解を生むようなことを言って、それが母の耳に入ったらしいの。それに……その誤解が悠さんのご両親の結婚を遅らせる原因にもなったって聞いて……」
「……叔父さんはいったい何を言ったんだ?」
大いに気になるが、遥の母もそのことは言おうとしなかったらしい。
「父はそのことを後悔しているみたい。だから、聡伯父様の代わりに、悠さんを助けようとして……あなたを困らせている遠藤さんという女性に大金を支払ったそうよ」
遠藤沙紀が祖母から金を引き出していたことは知っている。その理由は悠の件ではなく、沙紀の母と悠の父が離婚した一件まで遡るというが……。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだ? 叔父さんが金を払ったというなら、僕の評判を考えて、ということだろう。会社の名前にも関わることだ。普通の対応だと思うよ……謝ることじゃない」
むしろ、父のように毅然と切り捨てるほうが難しい。そして沙紀がターゲットを父から悠に変えたことを知りながら、父は何も言ってはこなかった。
「でも……伯父様は、悠さんはそんな弱い男じゃないって」
「自分がそうだから、僕もそうだと思ってるんだろうな。本当は……弱くて情けなくて、ただ逃げ回っているだけの男だ。……だから君も、僕とは結婚したくないと思ったんだろう?」
悠は苦々しそうに笑みを浮かべて立ち上がり、バスルームに向かった。
タオルを一枚掴んでバスルームから出たとき、玄関で靴を履く遥を目にする。
「もうこんな時間だ。フロントに連絡してハイヤーを呼ばせよう。ホテルを取ってるならそこまで、決まってないならどこか……」
そう声をかけたとき、遥は振り返って笑った。
「ほらね、悠さんてこんなでしょう?」
「……?」
遥の言葉の意味がわからず、悠は何も答えられない。
「いきなり訪ねてきて、頭から氷水をぶちまけた失礼な女にでも、こんなに優しいんですもの」
「コレは……僕が不埒な真似をしようとしたせいだ」
「あなたのおっしゃるとおり、私は何もわからない少女じゃないわ。ひとり暮らしの男性の家を夜中に訪ねる意味ぐらい知ってます」
ふいに遥が従妹ではなくひとりの女に見えた。
そう思うと、悠は訳もなく居心地の悪いものを感じ始める。
「あなたが、他の女性の名前を呼んで私を抱き締めようとしなかったら……きっと、抱かれていたと思うわ。美月さんて、奥様なんでしょう?」
「……ああ」
「あなたは誰にでも優しすぎる。だからみんなが甘えてしまうのよね……。昔から思っていたのよ、悠さんは夏海おばさまそっくりだって」
母に似ていると言われたことに、悠は衝撃を受けていた。
当たり前といえば当たり前のことだが、これまで思ったことがない。四人の中で誰よりも父に似ていると言われ続けたせいだった。
「自分の車で来ているから、心配しないで。父は……遠藤さんの件にはもう首は突っ込まないと言っていたわ。父に悪気はないとはいえ、余計なことをしてごめんなさい」
「い……や。本当に……遠藤沙紀の件は、僕の責任だから……」
「また、みんなで一緒にお花見がしたいわ。子供のころみたいに、一条の庭の桜……今年もとっても綺麗に咲いていたわよ。来年は奥さんを連れて来てね。私も素敵な旦那様を探しておくから」
遥はパンプスの踵をコツンと鳴らし、懐かしい笑みを浮かべた。
「ああ……努力、してみる」
優しい従妹の言葉に悠も笑顔で返し……。
そのとき、遥の携帯が鳴った。「ちょっとごめんなさい」そう言って電話に出て、三十秒も経たずに彼女の顔が蒼白になる。
「……どうした? 遥?」
「父から、なの……。聡伯父様が……倒れて、救急車で運ばれたって……」
指先から凍りついていく。
まるで氷に押し付けているような冷たさを感じ、悠の身体は小刻みに震えていた。




