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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第6章 再生
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(1)破滅の足音

 欠けてはまた満ちていく月を、悠はひとりで見上げる。

 それは、美月が彼の人生から姿を消して……初めての満月だった。


 五月――花の時期は過ぎて、桜並木は緑一色に彩られる。支社ビルの本部長室から外を見下ろしながら、悠は大きなため息をついた。

 美月には自分より相応しい男が大勢いる。

 その思いを打ち消すことができず、悠は彼女の手を放してしまった。美月は取り乱すでもなく、悠の不甲斐なさに呆れた様子で、次の日にはいなくなった。


『私は後悔なんてしてない。……あなたもそうだといいけど』


 そういった彼女の声が頭の中でぐるぐる回り続けている。

 

(後悔は……してるさ。後悔だらけの人生だ。今さら、ひとつやふたつ増えたところで……)


 あの数日後、“十六夜”に行って美月が出て行ったことを那智に報告した。那智は悠を責めるようなことは言わないが、匙を投げたように首を振り、苦笑いを浮かべた。

 他人が口を挟むことじゃない。以前のように、適当に女を調達して遊ぶつもりならそれもいい。ただし、夜中に酔って転がり込んでくるような真似はしないでくれ――そんな言葉で突き放された。

 那智にわかってもらおうとした訳ではない。

 ただ、彼なら今の悠を叱ってくれると思った。おまえは間違っていると、誰かに強く背中を押されたなら……。

 立ち上がりたい。美月に会いたい。彼女に相応しいのは自分だと言って、“妻”を取り戻したい。

 七年ぶりに自由になった左手の薬指が、ふたたび銀色の指輪に拘束されることを望んでいた。


(ここまでわかっていて動けない……僕はなんて情けないんだ)


 出口の見えない迷路で何年も彷徨い続けた。そんな悠にとって美月は光だ。光を目指してまっすぐに突き進み、彼女を手に入れるだけ……それだけのことなのに。

 力尽きて立ち上がれない自分に絶望すら感じていた。



 自宅に戻り、暗い部屋に灯りを点ける。

 ほんの数日間、この部屋にいた美月の気配はいまだに消えない。部屋のどこに視線を向けても、彼女の幻ばかりが浮かんでくる。

 思えば、ボストンで別れてから一度も会いに行かなかったのは、こんな事態を恐れていたのだと思う。

 一年間一緒に暮らし、少しずつ彼女に女を感じるようになっていた。だが、手を出してしまう訳にはいかない。自分が触れたら美月を穢すし、彼女は愛されて幸せになるべき人間なのだ。美月を愛したくて、だが、彼女を愛するには不完全な自分が許せなくて……。

 同じ時間をかければ忘れられるなんて、とんでもないことだった。

 この部屋で彼女とともに過ごした時間などとっくに過ぎているのに、いまだに心から消えない。いや、むしろ……より色濃くなっているのは、どう説明すればいいのだろう。


 悠は美月の残像から目を逸らせるように、サイドボードからウイスキーを取り出し、グラスに注いだ。琥珀色の液体の中で氷がカラカラと揺れ、悠は一気に飲み干した。

 そのままソファに転がり、目を閉じる。

 ベッドに戻るのも億劫だ。いや、正確に言うならこれ以上美月を思い出すのが辛かった。


 どれくらい経ったのだろうか?

 ふっと意識を取り戻し、同時に、部屋の中に誰かの気配を感じた。


(まさか、美月が帰ってきてくれた? いや……彼女に限ってそんなはずは……)


 美月であったらと思う反面、もし、沙紀だったときはどうすればいいのだろう? 一瞬のうちに胸の中が負の感情で満たされ、いっそ沙紀を殺して自分も死のうか、と考える。

 だがそのとき、夢か現か部屋にいる誰かは、悠の顔をゆっくりと覗き込むようにして……身体にふわりと何かが乗せられた。

 柔らかなブランケットの肌触りに、


(沙紀ならこんな真似はしない――)


 悠は飛び起きるようにして人影の手首を掴んだ。


「美月!?」


 一気に抱き寄せようとした――直後、胸に手を当てられ押し返される。


「ま、待ってください……私です、遥です! 一条遥です――ちゃんと目を覚まして!」


 常夜灯の灯りに映し出されたのは、従妹の姿だった。


 悠はハッとして手を放す。

 すると遥は慌てた様子で悠と距離を取った。


「何度もお電話を差し上げたのに、折り返しかけるとおっしゃるばかりで……」


 責めるような遥の言葉に悠は前髪を掻き上げた。

 たしかに、何度か電話を受けたような気がする。この一ヶ月は美月のことしか頭になかった。それを消すために、目先に仕事に集中するだけだった。

 とても遥の話を聞く気分になれず、悠は悪いとは思いつつ無視していたのだ。


「ああ……悪い。結婚のことは……すぐには考えられそうにないんだ。だから、もし他の候補者がいるなら……僕のことは気にせずに進めてくれていいから」

「そうじゃありません!」

 遥はピシャリと遮った。

「お話があったのですが……。今の悠さんのご様子では、とても聞いていただくどころじゃありませんね」

「……」

 ため息とともに言われ、悠は返す言葉もない。

「それに……たぶん、あなたとは結婚できないと思うし……」


 遥が悪い訳ではない。

 酒に酔ってスーツ姿のままソファで眠り込んでいた。そんな姿を見れば、夫に相応しくないと判断されても仕方がない。

 だが、このときの悠は理性の箍が外れていた。


「結婚できないのは……僕が次期社長に相応しくないからか? それとも、妻に捨てられた男に期待はできない、とでも?」

「……おっしゃる意味がわからないわ」

「いい歳してわからないはずがないだろう? なんだったら……試してみてもいいよ。今、ここで」


 唖然とする遥の手をふたたび掴み、引き寄せようとした。


「やめてください! 酔ってらっしゃるのね。こんな悠さんは嫌いです!」

「じゃあ、どんな僕が好きなんだ? いや、どうせこの程度の男だ。誰の伴侶にも相応しくないし、愛される資格もない。どうせ……どうせ……」


 “男の子なんだから”たいていの男の子はそう言って育てられる。悠も例外ではなく、コレに加えて“お兄ちゃんなんだから”がセットになっていた。

 ただ……“男の子”でも、虚勢を張れないときはある。

 嫌がる女性に手を出すほど落ちぶれるつもりはない――そう言って遥を追い出すことができないほど、悠の心はどん底まで落ちていた。


 誰かを泣かせてやりたい。

 そんなどうしようもない気持ちが浮かんでくる。


 だが、その一秒後、悠は頭から氷水を浴びせられていた。

 荒い息をつく遥の手には、空になったガラス製のアイスペールが――。


「……悪い……やっぱり、酔ってるみたいだ。帰ってもらえるかな?」


 ソファの背に身体をもたれかけ、うなだれた様子で悠は伝えた。


「ごめんなさい。でも……」

「わかってる。悪いのは僕だ。だから、頼むよ……帰ってくれ」

「ひとつだけ聞いてください。私があなたに会いたかったのは、父のしたことを謝りたかったから……。それだけなの。でも、父に頼んでスペアキーを借りて……夜に、勝手にお邪魔したのは非常識でした。本当にごめんなさい」


 背中を向けた遥に悠は声をかける。


「謝るって、どうして? 叔父さんには世話になったと思ってる。感謝してるし謝ってもらうことなんか……」

「父のマンションを訪ねたとき、聡伯父様が来られてたの」

「うちの父さんが?」


 ポタポタと落ちる水滴を手で拭いながら、悠は不審そうな目を向けた。


「ええ……あの、遠藤沙紀さんという女性のことで……」




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