(9)欠ける月
美月は驚いて振り返る。
「あなた……もう釈放されたのね」
「ええ、お生憎さま」
頬を歪ませながら沙紀は答えた。
「本当ならひと晩で出してもらえるところを、あなたのおかげで昨夜までかかったわ」
「それで、今度は何? こんなところまでやって来て、追い回すのは悠さんから私に切り替えたのかしら?」
沙紀はバッグから煙草を取り出し、口に銜えると火を点ける。彼女が白い煙を吐き出した直後、美月は煙草を取り上げ洗面台で水をかけて消した。
「ちょっと!」
「禁煙よ。吸いたければ喫煙所に行くことね」
「あなたってガチガチの規則女なのね。バカな千絵といい、悠くんも女の趣味が悪いわ」
「そうね、否定しないわ。きっと最初に当たった女が悪かったんでしょうね」
美月がニッコリと微笑む。
それを見て沙紀は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「確認しておきたいと思っただけよ。精神鑑定なんか要求して、私をどうするつもりなのか……。あなたの出方しだいで、私も色々考えないといけないし……」
声は震えていて、目も泳いでいる。一見すると気弱な発言に思えた。
だが、そんな茶番に乗せられる美月ではない。
一歩近づくと沙紀のバッグに手を押し込んだ。
「何すんのよっ! 勝手に人のバッグに」
中からボールペンを少し太くしたようなICレコーダーを取り出す。それは録音中のグリーンライトが点灯していた。
「これは秘密録音ね。時と場合によっては違法行為になるのよ」
「あ、安全のためよ……誰もいないとなると、脅迫されるかもしれないから……。それだけよ」
「そう……。なら、ここでの話し合いはやめておきましょう。もう、必要ないわね」
ボタンを押し、録音を停止させる。
沙紀の思惑など知れたことだ。美月を怒らせ、金と権力で精神病院に入院させる、と言わせたかったのだろう。
途端に沙紀の表情が変わり、美月を見据える目の色も変わった。
「あなたの父親って、あの藤原グループの人間なんですって?」
「だから?」
「私もそろそろいい歳だし……疲れたのよね、こういう暮らし。まとまったお金が手に入るんなら……もう、悠くんに付き纏うこともなくなるんじゃないかしら」
「……」
微妙に変わり続ける沙紀のまなざしを、美月は何も言わずに受け止めていた。
「あなただって、私のせいでアメリカに帰ろうとしてるんでしょう? 男のプライドだかなんだかわからないけど、あの子は妙に意地を張ってるじゃない? でも、あなたなら話がわかるんじゃないかと思って……」
「それで……いくら欲しいの?」
美月の返事に沙紀の顔はパッと輝いた。
「二千万もあればいいわ。田舎で自分の店を持つくらいの金額よ。それで一条の財産も諦めるって言ってるんだから……あなたみたいな人間にすれば、ほんのはした金でしょ?」
沙紀の言葉に彼女が知り得た美月の情報が、父方の“藤原”だけであることを知る。
なぜなら、すでに“桐生”の財産を相続していることまで知っていたとすれば、要求額は確実にもうひと桁プラスされたことだろう。
「そうね。たしかに、はした金だわ」
美月はわざとらしく鼻先で笑い、そう答えた。
そんな鼻持ちならない金持ちを演じる美月に、沙紀はムッとした顔で言い返す。
「アメリカのガールズシェルターとやらの弁護士って、ボランティア並みの安月給なんですって? いいわよねぇ、パパがお金持ちだと。いい学校を出て施し気分で働いて、弁護士様なんて威張っていられるんですもの。――金持ちなんてクズばっかりよ」
最後の言葉が美月に言いたいのか、それとも悠か、あるいは別の誰かなのか……。想像はついたがあえて言葉にはしなかった。
悠が自由になれるなら二千万円が二億円であったとしても、美月に惜しむものはない。
それで悠の愛情を手に入れられるとは思わないが、少なくとも彼の首枷を外してやることはできる。枷がなくなり檻から出た獣は、きっと本能のまま、欲しいものを求めるだろう。
それは美月かもしれない。
今度こそ、何者にも邪魔されることなく、求めてもらえるかもしれないのだ。
もともとお金に執着などない。お金は生活を営むために必要なもの……ただ、それだけだ。
だが、桐生から相続した財産のおかげで、権力者のエゴに利用されることなくガールズシェルターを維持しているのも事実。生活費のために嫌な仕事を我慢して引き受けることもなく、不当な要求をつきつける相手に頭を下げないでいられるのも現実だった。
(だからって、財産はたくさんあっても苦労するのよ、なんて言ったら……怒るでしょうね。きっと……血の繋がった両親なんて、いて当然じゃない……って言われる気分かしら?)
日本でもボストンでも同世代の友だちが言っていた……パパやママがうるさくて。
美月自身も思わないことはなかったが、それを口にしてしまったら、何もかも失いそうで怖かった。
――欲しいものをなりふりかまわず求めることは怖い。
――本当に望むものを口にすることは“今”と引き替えになりそうで怖い。
美月はまっすぐに沙紀を見た。
「そう言って、今までも悠さんの周囲の人間からお金をもらったきたんじゃないの?」
「バ、バカなこと、言わないでよ! なんの証拠があって……」
今の時点で証拠はないが、本気で調査すれば手にすることは容易に思えた。
決まった仕事はないはずだが、充分に高価といえる洋服や装身具を身に着けている。騒動を起こしたあと、しばらくは悠の周囲からいなくなるというのも不思議だ。
悠自身はともかく、彼の父親や後見する人間なら沙紀の動向は探らせているだろう。
その中に、金で片がつくなら、と思う人間がいたとしてもおかしくない。
「悠さんは……自分が愚かで何もできない男だから、あなたが付き纏っている、と言っていたけど……それは違うでしょう? あなたは悠さんが好きで、その反面、羨ましいのよ。純粋で誠実で……あなたのような厄介者にも真摯に向き合ってくれる。だから、離れられないのよね」
憐れみの視線を向けたつもりはなかった。
でも、沙紀にとっては違ったようだ。
「バカにするんじゃないわよ! 一条の父が悪いんじゃない。いつまでも昔の悪事を認めようとしないから……。だから……」
「だったら直接、一条のお義父様に交渉すれば済むことよ。そうしないのはなぜ?」
「……そんなこと……あんたになんの関係があるっていうのよ!」
自分が沙紀を追い払ってやろうと思っていた。どんな権力、お金を使っても、悠の傍からこの女を排除してやろう、と。
でも、それでは悠は救われない。
悠は魔女と呼ぶこの女を、殺したいほど憎んでいる訳ではないのだから……。
「あるのよ、関係は。あなたは……きっと私だから。だから、教えてあげる。仮に“一条”の名前を手に入れても、あなたは満たされないわ。一条先生は厳しい方だから、あなたが悠さんに惹かれる気持ちはわかるけど……」
刹那――沙紀は狂ったように笑い始める。
「そうかもね。あの子は甘っちょろいから、私のいる地獄に引きずり下ろして、ボロボロにしてやりたいのよ。だって、あの子も私と同じで父から捨てられた子なんですもの。でなきゃ、不公平すぎると思わない?」
彼女の目は血走っていた。
自分が幸せになりたいのではなく、人を不幸にしたいという思いが伝わってくる。美月自身は人を不幸にしたいとは思わなかったが、幸せを望むことに臆病になっていた。
それはある意味、美月の近くにいようとする人を不幸に導くものだったかもしれない。
美月はフッと微笑み、腕時計に目をやった。
そろそろ搭乗時間だ。
「ホント……この世の中って不公平なことばかりね。あなたもいい加減諦めたら?」
「ようするに、あの男のために払う金はないってことじゃない。綺麗事ばかり言ってないで、正直に言ったらどう?」
「そうよ。悠さんのためって言いながら、自分のために払うお金はないわ! だって……悠さんは私に、助けてくれなんて言ってないもの」
――負けたらダメなのか?
悠はそう言った。
それはまだ、彼が負けを認めていないということ。
「悠さんが好きよ。だからお金は払わないし、私はボストンに帰るの。あなたのおかげで頭が冷えたわ……精々頑張って、不公平を正してちょうだい。でもその前に、あなた自身の行いを正すことね。そうでないと公平とは言えないわ!」
開き直りに近いものの、美月に理詰めで言い負かされ、沙紀は黙り込む。
悠に会いたい。
でも、彼を捕まえて檻に入れたいのではなく……求められて愛されたかった。
(また……巡り合うことってあるのかしら?)
一条グループ内の問題で従妹との縁談も上がっているという。彼がその従妹と再婚したら、ふたりの人生が交差する日は二度と来ない。
愛は欠ける月のように、美月の心を少しずつ細く削っていき――。
出発予定時刻ちょうど、彼女を乗せた飛行機は日本を飛び立つのだった。
御堂です。
ご覧いただきありがとうございます。
やっと…やっと第5章が終わりました(涙)
第6章で終わる予定です…たぶん。
えーっと、第6章は4月から、かな(*⌒∇⌒*)テヘ♪(←笑ってごまかす)
皆様の記憶から消えないうちに頑張りたいと思います!!
引き続きよろしくお願いいたします。




