(6)十五夜の告白
*性的表現があります。苦手な方は飛ばして下さい。R15でお願いします。
那智の部屋は床がタイル張りになっていた。
三階のリビングとキッチンは靴を履いたまま、四階に上がるところで脱ぐ。かなり古いビルなのですきま風を感じる。だが、ソファやテーブル、リビングボード、壁にかけられた時計など、使い込まれた家具や備品が並んだ趣のある部屋だった。
悠の部屋は新しくて綺麗だがまるでモデルルームのような、無機的なイメージだ。今の悠にはよく似合うが、昔の悠とはどこかずれて思える。
無言の時間が流れ、思い切って口を開いたのは美月だった。
「――ごめんなさい。危険を顧みずに助けてくださったのに。お礼もちゃんと言えなくて……あの、ありがとう……」
美月の謝罪に悠は顔を上げ、困ったように笑う。
「ああ……那智さんが余計なことを言うから……」
「いいえ、最初にお礼を言うべきだったわ」
「気にしなくていいよ。君の言うとおりだ。――後くされのない女性と気楽な付き合いを楽しむ。真摯な恋愛を望む女性には絶対に近づかず、誰も傷つけない。そう思ってきたのに……結局、沙紀の手の上にいたんだな……」
悠はソファに腰を下ろし、深いため息を吐きながら天井を仰ぐ。
「それは……そんな生き方、悠さんには似合わないわ」
美月は思い切って言う。
悠に似合うのはもっと穏やかで誠実的な生き方だ。
だが、当の悠は違う意味に捉えたらしい。
「そうかもしれないな。もう、女には近づかないよ。この女の後ろに沙紀がいるかも、なんて思いながらじゃ、勃つものも勃たないからね」
戯れた口調で悠は笑う。
沙紀に対する怒りを通り越した悲しみ――悠の苦悩を美月はどうにかしてあげたいと思った。
「スーツが……汚れてしまったわね」
美月は悠の前に跪き、ズボンの膝に触れた。柵の錆びか、石垣の苔が付いたのだろう。クリーニングに出しても元通りになるかどうか微妙なところだ。
「無理はしてない? どこか、痛かったら言ってちょうだい」
すると、悠は美月の手に自分の手を重ねた。
「僕はいい。君に怪我をさせてしまって……本当に申し訳ない」
怪我といっても、ストッキングが破けて膝を擦りむいた程度だ。あのまま落ちていれば、間違いなく救急車のお世話になっていただろう。
「謝らないで」
「でも、僕の面倒に巻き込んで……」
「妻だもの。まだ、わたしはあなたの妻だから……」
美月は膝をついたまま、少しだけ背伸びをして悠に口づけた。
一瞬驚いた顔をしたが、悠はすぐに彼女の腰を抱き、キスに応じてくれる。
「今日は満月だな」
「ええ……そうね」
彼に抱き締められ、助けられたときのことを思い出す。
悠の香りを美月の肌が覚えていて、それは我慢できないほど彼女を駆り立て……。美月は自ら手を伸ばし、悠のベルトを外し始める。
「おいおい美月ちゃん、ここは那智さんの部屋だよ」
「好きに使っていいって言ったもの」
我ながら、子供みたいに駄々をこねた口調だ。
「僕は……君にも嘘をついてる。酷い男だよ」
手を止めて美月は尋ねる。
「桐生のこと?」
「気づいてたのか?」
「だって、あの無言電話が植田さんなら……。桐生の関係者は、わたしの近くにはいないような気がするわ」
「今の桐生は最低限の警戒でクリアできそうだ。少なくとも、君がボストンに住む限り、危害を加えられる心配はないだろう。注意すれば、東京の家族に会いに戻っても大丈夫だという。代替わりしている上に、野心を持った政治家が育たなかったんだろうな」
悠のまなざしは消沈していた。
プラスの波動もマイナスの波動も感じられない。心の中が真っ暗闇のようだ。
「知ったのはいつ?」
「大阪に行った日だ。僕は君を抱くために、嘘をついた……汚い男だ。ああ、沙紀に似合いだな」
沙紀の名前が悠の口から零れた瞬間、美月はふたたび手を動かし始めた。
「み、みつ、き……!?」
悠が驚くのも無理はない。
「沙紀にはやらない。わたしなら、あの女には負けないわ」
言うなり、美月の唇は悠の躯に触れた――。
~*~*~*~*~
美月のもたらす官能に、悠は早々に降参する。
次の瞬間、そこが自宅でないことを承知で、美月をソファに組み伏せていた。
「無茶も……いいところだ。君って人は……」
重なる吐息の隙間から、悠は抗議の声を上げる。
だが美月は、
「ゆ……うさんが教えた、のよ……全部、悠さんの……せい……」
ワンピースの前ボタンが数個外され、そこから覗く柔らかな双丘が激しく上下していた。そんなものを目にして抑えられる訳がない。悠は下着を押し退けると、唇を押し当てていた。
一度美月の身体に触れてしまったら、止まらなくなることは目に見えている。
(那智さんが様子を見に戻ってきませんように)
開いたままのカーテン――ガラス越しに、ふたりは月の光を浴びて愛し合った。
「植田さんのことどうするの?」
小一時間、甘やかな時間を過ごすと美月は千絵のことを尋ねてきた。
「不倫関係にあったことを認めて、後始末をつけることで彼女の嘘に対する責任は取る。ただ、植田弁護士が不正に受け取った金は返還してもらう。……それぐらいかな」
千絵が勝手に悠との結婚を企み、沙紀の罠に落ちただけのこと。
……とは思うものの、美月に叱られたとおり、ひとりの女性と二年間も付き合うのは迂闊だった。千絵を物分りのいい遊び慣れた女性だと、思い込んでいた悠の責任もある。
「わたしと別れたら不倫じゃなくなるわ。沙紀に騙されたのは愚かかもしれないけど、彼女があなたを愛していて、結婚を望んでいるのは事実よ」
「……愛じゃないさ」
「どうして、そう思うの?」
「僕に一条の名前がなければ、千絵はここまで結婚に拘らなかっただろう。きっと僕は、一生縛られ続けるんだろうな……一条の名前と、沙紀という女に」
悠の答えに美月は身を乗り出してきた。
「じゃあ、捨てたらどう?」
「捨てる? 一条を?」
「だって、そんなに一条グループが欲しいように見えないから」
考えたことはある。
だが、親元を離れて独立したくなったとき、手を差し伸べてくれたのは叔母の静だった。
亡くなった祖母は悠を可愛がりたい反面、幼いころに寂しい思いをさせたという負い目があった。そのため積極的に関わることができなかったという。叔母はそんな亡き祖母の思いを汲んで、子供のいない我が家に来ないかと言ってくれた。
叔父の匡もそうだ。
匡はたびたび悠の父である聡に借りがある、と口にした。詳細を尋ねたことはないが、会社関係の株式をはじめ祖父の財産をほとんど相続したことだろう。父たちが納得の上なのだから、気にすることはないと思うのだが、どこか匡は悠に社長の椅子を譲りたがっている様子があった。
それは、弁護士になるという目標を捨て、新たな道を模索していた悠に示された未来。
沙紀の一件が父のせいだと言ってみても、喜び勇んで罠に飛び込み、付け入られる隙を作ったのは自分自身だ。
見た目は似ていても、心根の全く違う真なら……おそらく沙紀の罠には落ちなかっただろう。
自分の愚かさを反省すればするほど身動きが取れず、逃げ道を探して愚かさを積み上げるだけになる。
悠は可笑しくなって吹き出した。
「……私、何か変なことを言った?」
「いや、そうじゃないよ。一条を捨てたら、僕の価値はゼロになるんだろうな、と思ってね。それでいて、沙紀という魔女だけは残る。生きるってことは楽じゃないな」
すると、ワイシャツの胸元を掴み、美月がグッと顔を寄せる。
「ゼロになったからなんだというの? 沙紀は沙紀よ。彼女はあなたのオプションじゃないわ! それとも、女を誑し込むために一条のブランドが必要なのっ!?」
しどけない姿とは裏腹に、彼女は本気で怒っているらしい。
「い、いや、女性に声をかけてきたのは……怖かったからだ。誰かを求めてないと、いつまでも沙紀の気配が消えない気がして……。誰にも必要とされてない。この世界から切り離された気がして……。怖かった……それだけだよ」
我ながら、情けなさ過ぎる。
そう思いながらも、美月の顔は『嘘は許さない』と言っているようで、馬鹿正直にも答えていた。
「ゼロでいいわ。一条の名前なんてあってもなくてもいい。でも、魔女のオプションはいらないから、私が追い払ってあげる。セックスが必要なら、私を抱いて……」
悠には美月が何を言い出そうとするのかわからず……。
「誰でもいいなら、私を選んで。悠さんのことを愛してるの。ずっと好きだった。もう一度、ボストンで一緒に暮らしたい」




