(4)憎しみの種
『……ということで、美月さんがそっちに向かったから、念のため』
那智からそんな電話が携帯にかかったのは、午後三時を回ったころだった。
外出するとは言っていたが那智のところに行っていたとは。最後の挨拶かもしれない。そう思うと、いよいよ別れが近づいていることを認めざるを得ない。
「そうですか……。美月は何か言ってましたか?」
『一条、過去に何があったかは知らないが、本気で孤独のまま生きていくつもりじゃないんだろう? 気休めに女を抱いてもなんの解決にもならない。どれだけ慎重に生きても、人生のリスクはゼロじゃないんだ』
那智の言葉に悠は苦笑いを浮かべ、
「それは美月が、僕とは離婚してボストンに帰りたい、そう言っていたってことですね」
絶望や悲しみより、当然だといった感情が頭をよぎる。
『それは……』
「わかりました。大丈夫だとは思いますが、美月のことは迎えに出てみます……わざわざどうも」
それ以上、那智の説教を聞く気にもなれず、悠は携帯電話を切ったのだった。
那智の店から一条物産の支社ビルまで歩いて五分程度。仮に、夕日川の土手に作られた遊歩道を歩いてきても十分もかからないだろう。
悠は窓を開け、身を乗り出すように美月が歩いてくるはずの方向に目をやる。
しばらくすると、白いワンピース姿の美月が姿を現した。陽射しが暖かいせいか、ベージュのトレンチコートはバッグを持つ腕にかけている。艶めく髪は少し傾きかけた太陽の光に煌めき、春の風に靡いた。
うつむき加減で道を歩く違う男たちは軒並み、美月とすれ違う瞬間ハッとしたように顔を上げ……。続けて、颯爽とした美月の後ろ姿を振り返る。
そのうちのひとりが胸ポケットから何かを取り出し、美月に声をかけていた。
(……ったく。人の妻に……)
舌打ちして悠は身を翻そうとした。迎えに下りるべきだと思ったとき、悠は目の端に違う何かを捉える。
引き返して再び視線を向けると、声をかけた男ではなく、スーツ姿の女性が美月と対峙していた。
(沙紀か? いや……あれは……)
美月より少し背が低いが、スタイルは遜色なく見える。ひとりの女性の名前が胸に浮かんだとき、悠の携帯が音を立て始めた。思考を遮られたものの、視線を美月に向けたまま通話ボタンを押す。
「ああ……一条だ。すまないが、あとでこちらからかけ直すから……え?」
それは桐生の件とは別に依頼した、O市内の調査会社からの報告だった。
~*~*~*~*~
今夜で終わりにするなら、きちんと思いを告白しよう。
那智と話をして、美月はそう思い直した。最初は何も伝えず、物分りのいい大人の女性を気取って、笑顔で離婚届を渡すつもりだった。面倒な女とかかわった、こんなことなら助けてやるんじゃなかった、そんなふうに思われるのが怖かった。
(それじゃきっと諦めきれずに、ずっと引きずることになってしまうわね。この気持ちに決着をつけるために来たんだもの。しっかりしなきゃ!)
美月は自らを鼓舞するように顔を上げ、姿勢を正した。
その直後、ひとりの女性に声をかけられたのだった。彼女の背後には立ち止まってこちらを見ている男性がいたが、どうやら連れではないらしい。バツが悪そうにそそくさと立ち去った。
「こんにちは、一条美月さん。私のこと、覚えていらっしゃるかしら?」
「ええ、覚えていますわ。たしか……主人の愛人さんでしたわね」
そう言うと、美月は目の前に立つ女性、植田千絵に向かって微笑んだ。
狭い歩道を塞いで立ち話は邪魔になる。美月は誘われるまま、夕日川沿いの遊歩道に向かう。夕日川を眺める展望スペースがあり、そこで立ち止まった千絵は血相を変えて訴え始めた。
「ねえ、入籍していても正式な夫婦ではないのでしょう? お願いだから、本当のことを言ってちょうだい!」
「何を持って正式とおっしゃるのかわかりませんけど。入籍の事実だけで充分“正式”ではないかしら?」
あくまで冷静な美月とは違い、千絵の目は血走っている。そして泣くように叫んだ。
「違うわっ! あの前日まで私をパートナーとしてパーティに出席していたのよ。それをたったひと言……“ユウ”さんと呼んだだけで……もう、付き合いはやめるなんて言い始めて……」
それは那智から聞いたとおりだった。
美月と母親以外の女性からは、本当に『ユウさん』と呼ばれることを避けているらしい。そのことを確信した途端、美月は千絵に申し訳ないと思いつつも、心が軽くなった。悠にとって自分は特別なのだ。それも母親と同じくらい……。
「なんなのその顔!? 優越感に浸った顔をして……そんなに、私のことを馬鹿にしてるのっ!?」
「あ、いえ……別にそういうわけでは」
慌てて言い訳をするが、おそらく彼女の言うとおりだろう。
悠にとって千絵と自分は違う。その優越感が美月の顔に出たに違いない。そんな美月の腕に千絵は取り縋った。
「ねえ、何か事情があるのよね? 私には彼が必要なのよ。他の女性と付き合いながら、それでも私との関係を続けてくれたわ。あなたのことなんて、誰も名前も知らなかったじゃない。形だけの結婚なのよね? すぐに別れてくれるわよね?」
一瞬、殴られるのかとびっくりしたが……。
千絵は恥も外聞も捨てたようにしがみ付いてくる。その必死さに美月はどう答えたらいいのかわからない。
「結婚はダミーに違いないと聞いて……父に話したのよ。父は私たちが結婚前提で付き合っていると思ってるわ。そのことを一条さんに話したいのに……休暇を取っていると言われて繋いでももらえない……」
その鬼気迫る様子に美月は尋常ならざるものを感じ始めた。
「待ってください。落ちついて……。わかったわ、私と一緒に悠さんのところに行きましょう。あなたがおっしゃる問題は、私たちが離婚しても片づかないと思うわ」
美月と離婚したら、悠は嬉々として以前の生活に戻るのだろう。声をかけられたら、喜んで彼のベッドに身を投げ出す女性はこの千絵だけじゃない。候補者は何人もいるのだ。暁月城のお花見のときを思い出し、美月の表情は曇った。
「ただ、妻帯者とわかって悠さんと関係したことは、あなたにも責任があるわ。結婚はダミーだという噂のほうを信じたからなんて、そんな都合のいい言い訳は日本の法廷でも通用しないはずよ。それは覚えて……きゃ!」
そこまで言ったとき、千絵は美月の身体を柵に押し付けてきた。
「ちょっと……やめなさい。危ないじゃないのっ!」
柵は美月の腰くらいの高さしかない。
一方、柵の反対側は五メートルくらいの高さがあり、生い茂る雑草と大きめの石が見えた。落ちたら無傷では済まない気がする。
しかし、平日で通る人は少ないが全くいない訳ではない。近くには交番もあった。
普通ならこんな場所で乱暴を働くとは思えないが……。
あらためて千絵の顔を見て、美月はギョッとする。
それはとても普通の精神状態とは思えない形相だった。
「なんなのよっ! ユウさんユウさんって……。聞こえよがしに……桜フェスティバルのときだって……」
「ち、ちがうのよ、ごめんなさい、つい」
「あなたよ……あなたがやって来たから……困るのよ。一条さんと別れる訳にいかないの。あなたさえいなければ……」
たとえ美月がいなくても、悠が千絵と結婚するとは思えない。だが、今それを口にすることは躊躇われる。
美月は千絵を押しのけ柵の間際から逃れようとした。
「……きゃ……」
美月が避けたため、逆に千絵が柵の向こう側に飛び込む勢いで突進する。
「危ない!」
慌てて美月が手を差し伸べる。千絵の腕を掴み引き戻し、美月は自分自身の勢いを止めるため柵に手を伸ばす。
その手が空を掴み――ふいに視界が傾いた。




