(3)決意
「お待たせしました。念のため、二枚お渡ししておきますね」
そう言ってニッコリと笑った区役所の窓口に立つ女性職員は、おそらく未婚者なのだろう。美月より若く、配属されて間がないように見える。マニュアルどおりの応対に不快とは言わないが、複雑なのはたしかだ。
かたや、隣の窓口では婚姻届を提出するカップルが。応対する三十代の男性職員はニコリともせず、淡々と受け付けている。
(もともとの性格なんでしょうね……臨機応変というのは、お役所の窓口に求めちゃいけなかったことだったかしら?)
長く日本を離れているので、その辺の常識はやや心もとない。
ボストンでは行政の人間とも親しくしているが、思えば、日本で行政機関に関わったことなどないのだ。国民性や慣習を考えても比べるのは間違っている。
美月はそう結論づけながら、「離婚届の書き方を説明いたしましょうか?」という女性職員に礼を言って断り、区役所をあとにした。
悠が仕事に出て、帰ってくるのを待つ。それを数回繰り返しただけで、あっという間に月は満ちていった。
弟たちが来たからだろうか? あるいは、大阪で何かあったのかもしれない。それとも、遠藤沙紀の言葉を美月が遠慮なしに尋ねたことが原因なのかも……。
とにかく、あの日から悠の態度が変わった。
美月を抱いても、以前のようにのめり込む感じではなく、どこか冷めている。眠ったフリをする美月をベッドに残し、バルコニーでジッと月を眺めていることもあった。外出先でも食い入るように美月を見ているかと思えば、彼女が視線を向けると逸らしてしまう。
もっと変わったことは、美月の外出をうるさく制限しなくなったことだ。行き先を悠に伝えておくだけで、夜までに帰ればいいという。
桐生の件で何か判明したのかもしれない。
聞きたいが、悠の変化に戸惑い、美月は聞けずにいた。
区役所の前でタクシーを拾うと、
「県庁近くまでお願い」
悠の会社の隣にある県庁を目印に伝えて、美月はもらったばかりの離婚届が入った封筒を、バッグの中に仕舞うのだった。
~*~*~*~*~
扉を押し開けると、カラン、と音がして――
「いらっしゃいませ!」
と一斉に声をかけられる。
お花見で醜態を演じたあと、『十六夜』には二度ほど訪れていた。二週間の滞在で通算四度目、ひとりで来たのはこれが初めてだ。
「こんにちは。少し遅くなってしまったけれど、まだ大丈夫かしら?」
昼の二時近く、気にするほど遅い時間ではない。
だが、ランチタイムには行列ができる『十六夜』のこと。営業中の札は確認したものの、ランチ以外のメニューを注文してもいいのか、美月は控えめに尋ねる。
「ああ、いらっしゃい。亭主も一緒かい?」
厨房との境の扉を押し開け、那智が顔を見せた。
「いえ。今日は私ひとりなんですが……」
「それは珍しい。奴に連絡したら、会社からここまですっ飛んでくると思うよ」
大袈裟な那智の言葉に美月は苦笑しつつ、
「いやだわ。そんなこと……もう、ないと思います。以前とは……変わってしまったから」
胸の奥に重苦しい痛みを感じていた。
ひとりの女性を真剣に愛せないという悠。彼は沙紀との経験もあって、子供を持つことを恐れ、自分と同じ思いをさせるだけだ、と諦めている。
その気持ちは美月には切ないほどよくわかる。
戸籍上の実父である太一郎も、継母の茜も、それはもう美月のことを本気で愛し、心配してくれた。いや……今もそうだろう。
写真の笑顔しか記憶にない母、奈那子も、命がけで美月を産んだのだ。その愛情は疑うべくもなかった。
愛されている。それは確実であるはずなのに、心の奥底に不安が大きな顔をして居座り続けている。
愛し合う両親から望まれて誕生した命――子供のころ美月の近くにいた、またいとこの家族はまさにそんな感じだった。
何かが自分と違うと思い続けた。その正体は、あのころはわからなかったけど、今ならわかる。
ごく普通に愛し合って結婚をして、愛する男性の子供を産む。世間一般の多くの女性が叶えているはずの夢なのに、美月には果てしない夢に思える。
「じゃあ、離婚届をもらってきたんだ」
最初にこの店を訪れたとき、通してもらった二階席に美月は座っていた。
正面には那智が私服に着替えて着席している。ふたりの前には淹れたてのコーヒーが置かれ、美月はカップから立ち昇る白い湯気をみつめながら答えた。
「はい。悠さんは何もおっしゃらないけど、私は中途半端に関係を続けるのはイヤなので」
「でも夫婦だろう? お試しに、しばらく一緒に暮らし続けてみるって選択肢はないの?」
那智の言葉はわからないでもない。
だが、
「二週間一緒にいてわかったんです。最初の一週間はきっと新鮮で楽しんでくれたんだと思うけど、もう……夫婦ごっこに飽きたんだと思います」
悠は美月とのセックスに飽きたのだ。だから、どうやって別れを切り出すか悩んでいる。
美月はそんなふうに答えを出した。
「試してみてよくわかったから……やっぱり離婚して、私はボストンに戻ります」
美月の決断を聞き、那智はしばらく黙っていたが、
「以前ね、奴がこんなことを言っていた。――自分が檻から出たら、それを嗅ぎつけて魔女が現れる――何か、心当たりはあるかな?」
彼女の脳裏に沙紀の姿が浮かんだ。
だが、イエスと答えていいのかどうか迷う。
「そしてこうも言っていたよ――美月さんは違う、君だけは巻き込みたくない――ってね」
トクン、と鼓動が跳ね上がる。
ひと言も口にできず、美月は再びコーヒーカップに視線を落とした。
「詳しいことは聞いてない。でもね、一条にとって君は“特別”だ。前も言ったとおり、君に“ユウ”と呼ばせているのには、何か意味があるはずなんだ。そのことに、奴自身は気づいていないのかもしれないけど……」
悠は沙紀という魔女に囚われている。そんな悠を、美月に救い出すことができるのだろうか?
那智の言うとおり、悠にとって自分は特別で、手を伸ばせば彼の愛を得られるのか?
(バカね……これじゃ愛してくれないなら愛さない、と言ってるようなものじゃない)
愛する人に愛して欲しい。だが、見返りだけを求めるなら、それは自己愛に過ぎない。
「わかりました。私、彼に本当の気持ちを伝えていないんです。これが最後なら、ちゃんと伝えたいと思います。それでもダメなときは……那智さんには申し訳ありませんが」
「そのときは私に遠慮はいらないよ。あんなバカ野郎はさっさと捨てて、新しい恋を探したほうがいい」
美月を笑わせようと思ったのか、那智は明るく答える。
「そんな……運命を感じる人なんて、そう簡単には現れないと思いますけど……」
「“運命”なんてものは、後づけで充分だよ。最初から構えていたら何も見えなくなる。恋をして、最高に幸せだと思ったら、それが“運命”なんだ。最初のひとりが最後になる幸運な人間もいれば、何回も失敗してやっと巡り合える人間もいる。愛に答えはひとつじゃない」
那智はふわっと微笑み、
「だから……君が私に運命を感じても、少しも不思議じゃない……だろ?」
その言葉に、思わず笑みの零れる美月だった。




