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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第5章 妄執
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(3)決意

「お待たせしました。念のため、二枚お渡ししておきますね」

 そう言ってニッコリと笑った区役所の窓口に立つ女性職員は、おそらく未婚者なのだろう。美月より若く、配属されて間がないように見える。マニュアルどおりの応対に不快とは言わないが、複雑なのはたしかだ。

 かたや、隣の窓口では婚姻届を提出するカップルが。応対する三十代の男性職員はニコリともせず、淡々と受け付けている。


(もともとの性格なんでしょうね……臨機応変というのは、お役所の窓口に求めちゃいけなかったことだったかしら?)


 長く日本を離れているので、その辺の常識はやや心もとない。

 ボストンあちらでは行政の人間とも親しくしているが、思えば、日本で行政機関に関わったことなどないのだ。国民性や慣習を考えても比べるのは間違っている。

 美月はそう結論づけながら、「離婚届の書き方を説明いたしましょうか?」という女性職員に礼を言って断り、区役所をあとにした。


 悠が仕事に出て、帰ってくるのを待つ。それを数回繰り返しただけで、あっという間に月は満ちていった。

 弟たちが来たからだろうか? あるいは、大阪で何かあったのかもしれない。それとも、遠藤沙紀の言葉を美月が遠慮なしに尋ねたことが原因なのかも……。

 とにかく、あの日から悠の態度が変わった。

 美月を抱いても、以前のようにのめり込む感じではなく、どこか冷めている。眠ったフリをする美月をベッドに残し、バルコニーでジッと月を眺めていることもあった。外出先でも食い入るように美月を見ているかと思えば、彼女が視線を向けると逸らしてしまう。

 もっと変わったことは、美月の外出をうるさく制限しなくなったことだ。行き先を悠に伝えておくだけで、夜までに帰ればいいという。

 桐生の件で何か判明したのかもしれない。

 聞きたいが、悠の変化に戸惑い、美月は聞けずにいた。


 区役所の前でタクシーを拾うと、

「県庁近くまでお願い」

 悠の会社の隣にある県庁を目印に伝えて、美月はもらったばかりの離婚届が入った封筒を、バッグの中に仕舞うのだった。



~*~*~*~*~



 扉を押し開けると、カラン、と音がして――

「いらっしゃいませ!」

 と一斉に声をかけられる。

 お花見で醜態を演じたあと、『十六夜』には二度ほど訪れていた。二週間の滞在で通算四度目、ひとりで来たのはこれが初めてだ。

「こんにちは。少し遅くなってしまったけれど、まだ大丈夫かしら?」

 昼の二時近く、気にするほど遅い時間ではない。

 だが、ランチタイムには行列ができる『十六夜』のこと。営業中の札は確認したものの、ランチ以外のメニューを注文してもいいのか、美月は控えめに尋ねる。


「ああ、いらっしゃい。亭主も一緒かい?」

 厨房との境の扉を押し開け、那智が顔を見せた。

「いえ。今日は私ひとりなんですが……」

「それは珍しい。奴に連絡したら、会社からここまですっ飛んでくると思うよ」

 大袈裟な那智の言葉に美月は苦笑しつつ、

「いやだわ。そんなこと……もう、ないと思います。以前とは……変わってしまったから」

 胸の奥に重苦しい痛みを感じていた。


 ひとりの女性を真剣に愛せないという悠。彼は沙紀との経験もあって、子供を持つことを恐れ、自分と同じ思いをさせるだけだ、と諦めている。

 その気持ちは美月には切ないほどよくわかる。

 戸籍上の実父である太一郎も、継母の茜も、それはもう美月のことを本気で愛し、心配してくれた。いや……今もそうだろう。

 写真の笑顔しか記憶にない母、奈那子も、命がけで美月を産んだのだ。その愛情は疑うべくもなかった。

 愛されている。それは確実であるはずなのに、心の奥底に不安が大きな顔をして居座り続けている。

 愛し合う両親から望まれて誕生した命――子供のころ美月の近くにいた、またいとこの家族はまさにそんな感じだった。

 何かが自分と違うと思い続けた。その正体は、あのころはわからなかったけど、今ならわかる。

 ごく普通に愛し合って結婚をして、愛する男性の子供を産む。世間一般の多くの女性が叶えているはずの夢なのに、美月には果てしない夢に思える。



「じゃあ、離婚届をもらってきたんだ」

 最初にこの店を訪れたとき、通してもらった二階席に美月は座っていた。

 正面には那智が私服に着替えて着席している。ふたりの前には淹れたてのコーヒーが置かれ、美月はカップから立ち昇る白い湯気をみつめながら答えた。

「はい。悠さんは何もおっしゃらないけど、私は中途半端に関係を続けるのはイヤなので」

「でも夫婦だろう? お試しに、しばらく一緒に暮らし続けてみるって選択肢はないの?」

 那智の言葉はわからないでもない。

 だが、

「二週間一緒にいてわかったんです。最初の一週間はきっと新鮮で楽しんでくれたんだと思うけど、もう……夫婦ごっこに飽きたんだと思います」


 悠は美月とのセックスに飽きたのだ。だから、どうやって別れを切り出すか悩んでいる。

 美月はそんなふうに答えを出した。


「試してみてよくわかったから……やっぱり離婚して、私はボストンに戻ります」

 美月の決断を聞き、那智はしばらく黙っていたが、

「以前ね、奴がこんなことを言っていた。――自分が檻から出たら、それを嗅ぎつけて魔女が現れる――何か、心当たりはあるかな?」

 彼女の脳裏に沙紀の姿が浮かんだ。

 だが、イエスと答えていいのかどうか迷う。

「そしてこうも言っていたよ――美月さんは違う、君だけは巻き込みたくない――ってね」

 トクン、と鼓動が跳ね上がる。

 ひと言も口にできず、美月は再びコーヒーカップに視線を落とした。 


「詳しいことは聞いてない。でもね、一条にとって君は“特別”だ。前も言ったとおり、君に“ユウ”と呼ばせているのには、何か意味があるはずなんだ。そのことに、奴自身は気づいていないのかもしれないけど……」


 悠は沙紀という魔女に囚われている。そんな悠を、美月に救い出すことができるのだろうか?

 那智の言うとおり、悠にとって自分は特別で、手を伸ばせば彼の愛を得られるのか?


(バカね……これじゃ愛してくれないなら愛さない、と言ってるようなものじゃない)


 愛する人に愛して欲しい。だが、見返りだけを求めるなら、それは自己愛に過ぎない。

「わかりました。私、彼に本当の気持ちを伝えていないんです。これが最後なら、ちゃんと伝えたいと思います。それでもダメなときは……那智さんには申し訳ありませんが」

「そのときは私に遠慮はいらないよ。あんなバカ野郎はさっさと捨てて、新しい恋を探したほうがいい」

 美月を笑わせようと思ったのか、那智は明るく答える。

「そんな……運命を感じる人なんて、そう簡単には現れないと思いますけど……」

「“運命”なんてものは、後づけで充分だよ。最初から構えていたら何も見えなくなる。恋をして、最高に幸せだと思ったら、それが“運命”なんだ。最初のひとりが最後になる幸運な人間もいれば、何回も失敗してやっと巡り合える人間もいる。愛に答えはひとつじゃない」

 那智はふわっと微笑み、

「だから……君が私に運命を感じても、少しも不思議じゃない……だろ?」


 その言葉に、思わず笑みの零れる美月だった。




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