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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第5章 妄執
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(2)魔女の要求

 休みを取る予定が難しくなった、と美月に告げた。

 本音を言えば怖かっただけだ。彼女を失いたくないと思う自分と、それは愛情ではなく男のエゴに過ぎないと警告する自分。鬩ぎ合う心に後ろめたさが加わり、悠は美月の前から逃げ出した。


(今度会ったときは、確実に殴られるな……)


 真の顔を思い出しながらそんなことをひとりごちる。

 ――ったく、兄貴も父さんとそっくりだ。

 そのセリフが悠の中で繰り返し再生されていた。これほどまで父に似ている悠のこと。人並みに女性を愛することも、幸福にすることもできず、将来に禍根だけを残すのは目に見えている。

 父を恨むのはお門違いだとわかっていたが、それでも恨まずにいられない。父が遠藤美和子と結婚さえしなければ、悠が魔女のような女に魅入られることはなかった。親の事情はわからないが、どうして父から望まれもしなかった自分が、憎しみの怨嗟を買わなければならないのか……。


(責任転嫁もいいところだな……美月に言ったら、自分の馬鹿さ加減はどれほど高い棚に上げたの……とか返されそうだ)


 山積みになった書類を決済するため、昼食も本部長室で済ませている。

「あら、奥様の手作り弁当なんて、お幸せですね」

 そんなふうに茶化したのは秘書の川口だ。

 真や小太郎と同じように、美月は悠のために弁当を用意してくれた。思えば、手作り弁当なんて高校時代以来か。部屋で済ませた理由は仕事だけでなく、嬉しくもあり、少し気恥ずかしいという気持ちがあったからだ。

「ついでがあったので作ってもらったんだ。今日だけだよ」

「そんなことおっしゃらずに、毎日作ってもらえばいいじゃありませんか。ああ、そうだわ、本部長――間違っても、もう作らなくていい、なんて言ってはダメですよ。美味しかったよ、と言ってもらうだけで女は嬉しいものなんですから」

 主婦歴数十年の川口はそう言って悠に説教を始める。

「わかったわかった。肝に銘じておこう」

 苦笑して早々に降参する悠だった。



 忙しいが残業をするつもりはなく、十七時を過ぎたころには美月のことばかり気になり始める。定時には社を出よう。今夜こそは美月に桐生の件を話さなくては。悠がそう心に決め、ファイルした書類を自分で棚に戻していたとき、短いノックと同時に扉が開いた。

「申し訳ありません、本部長。お客様が……ちょっと、あなた!」

ゆうくん、久しぶり! 元気してた?」

 川口の横をすり抜け、小走りに部屋を横切り悠に抱きつく――遠藤沙紀だった。


「この方が本部長のお姉様だとおっしゃって……」

 困った表情で川口は悠と沙紀を見比べている。

「いや……この女は姉じゃない」

「では、警備室の者を」

「呼ばなくていい。私がすぐに追い返す。君は仕事に戻ってくれ」

 悠の言葉に川口は訝しそうにこちらを見ながら扉を閉めた。


「いやだ、酷い子ね。すぐにそうやって私を邪険にするんだから」

 秘書の川口と沙紀はそう歳も変わらないはずだ。だが、沙紀のほうが四、五歳、あるいはそれ以上若く見える。濃い化粧と派手な洋服、水商売を思わせるその姿は十年前に比べるとだいぶ変わった。あの当時は、派遣のOLにしか見えなかったが……。

「私から離れてくれ。貴様に触られると吐き気がする」

「あら、十年前は喜んでたじゃない。私が咥えて勃たせてあげたのは覚えてる? ああ、そういえば可愛い奥様にやっと会えたわ。あなたに子供の作り方を教えたのは私だってお知らせしたんだけど、何かおっしゃってたかしら?」

 沙紀は面白そうに笑いながら言った。


 大学時代や六年前は向きになって怒鳴り返した。何度追い払ってもやって来る沙紀に業を煮やし、『弟や妹に近づいたら殺してやる』と叫んで逆に訴えられたこともある。

 実際に訴状が取り上げられたわけではないが、立場的には充分なマイナスだ。

 無論、悠のほうから訴えたこともあった。度を越したストーカー行為で裁判所から接近禁止命令が出ても、彼女は無視する。警察を呼び、その都度事情を説明し、裁判所に確認を取って沙紀を逮捕してもらうのだが……この程度の犯罪で永遠に拘束できるわけもない。

 慰謝料や損害賠償を請求しても、定職を持たないため差し押さえる給料がない。固定資産も一切なく、『ない者からは取れない』と開き直っている。

 前科がつこうがお構いなし。夫や子供がいないので体裁など全く気にならない様子だ。

 彼女の母親は聡と離婚したときにもらった慰謝料などあっという間に使い果たし、金目当てで再婚した夫にも捨てられ、現在は細々とひとり暮らしをしているらしい。そんな母親のもとに押しかけ、娘をどうにかしろと言っても、嫌がらせにしかならないだろう。

 法的手段が一切の効力を発揮しない。

 沙紀は新手の耐性菌さながら、悠の人生に居座り続けている。対症療法として法律を駆使しても、抜本的な解決には至らないまま……十年の月日が流れていた。


「用件は?」

「冷たいことを言わないで。二年ぶりに、愛する弟に会いにきたんじゃない」

「私は弟じゃない。……用件は終わったな。なら、帰ってくれ」


 悠は沙紀の挑発に淡々と応じた。

 さすがにまともには取り合ってもらえないとわかったのだろう、沙紀は悠に背中を向け、部屋から出て行きかけた。


「ああ、そうだわ……奥様のナイトみたいに真くんが寄り添っていたけど……。あの子もいい男になったわねぇ。昔のあなたみたいに、素直そうだし」

「……言いたいことはそれだけか」

 悠は受話器を持ち上げ、

「警備の人間に社外まで案内させよう」

 沙紀から目を逸らした。


「紫ちゃんもすっかり大人になって。高二ともなれば、女は一人前ですものねぇ。十年前にお兄さんが家を出た理由、とっても聞きたがってたわ」


 下の妹の名前が出たことに、悠の理性は吹き飛んだ。

「紫に会うな! 貴様が言ったんだぞ。結婚して海外に逃げるなら、真や妹たちも巻き込む、と。私はどこにも行かない。逃げるつもりはない。正当な話し合いならいつでも応じる」

「そう言って東京からこんなとこまで逃げてきたくせに」

「誰のせいだと思ってる? 腹違いの姉をレイプ同然に犯して妊娠させた鬼畜だと、噂を流したのは貴様だろう……」

 悠は拳を握り締めたまま呻くように言った。


 たびたび訪れる不審な女。ときには警察沙汰にまでなっているのは事実だ。噂が噂を呼び、奇妙な尾ひれまでついて広まっていく。それを止める手立てなど、あるはずもない。

 ――金と名前で罪を揉み消した。そのせいで弁護士になれなくなった。父親にも家を追い出された。 

 悠の不名誉な噂は増殖する一方だった。

 それでも逃げることはできない。

『いいわよ、別にあなたじゃなくても。他にも弟たちがいるんだから。噂じゃない真実を話して、色々相談するわ。それとも、お母様とじっくり話し合ったほうがいいのかしら?』

 父との親子関係については法律で決着がついている。だが、沙紀はそれを認めず、執拗に纏わり付いてくる。

 幹部は承知しているとはいえ、社員ひとりひとりに説明して回るわけにもいかない。

 海外の出張を多くすることで対処していたが、それだけでは済まなくなり……。とうとう二年前、悠は西日本統括本部長としてO市への赴任が決まった。

 

 悠の態度に臆するでもなく、むしろ楽しそうに沙紀は答える。

「そんなこと知らないわ。私が噂を流したって証拠は見つからなかったんじゃないかしら? 人聞きの悪いことは言わないでちょうだい」

「ついでにもうひとつ言っておく。美月には何を言っても無駄だ。それに……もうすぐ離婚する。そうなれば、一条とはなんの関係もない女性だ」

「ふーん、どっちでもいいわ。私の望みは、お父さんに実子として認めてもらうことだもの」

「それは無理だと何度言えばわかる? 法的に決着のついていることだ」

「それが何? お金で捻じ曲げられた真実よ。私は信じないわ。絶対に信じない……死ぬまで、あなたから離れないわよ。それがイヤなら、お父さんに認めるように頼むのね。……あなたが東京に戻るまで、私もこの町に住むことに決めたわ。また、仲よくしましょうね」


 間違っているのは沙紀のほうだ。それなのに、積み上げては壊されていく虚しさに、悠はそこはかとない絶望を感じていた。


 

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