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愛は満ちる月のように  作者: 御堂志生
第4章 過去
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(8)父の告白

 沙紀の爆弾発言の数日後、悠は休日に父の事務所に呼び出された。

 都心にある一条法律事務所。所属する弁護士は父を除いて三~四人程度。もっと規模を大きくすることもできたが、父は自らが全体を把握できる範囲内の仕事しか引き受けてこなかった。だが、顧客には海外の大手企業も多く、日本国内においてはトップクラスの企業弁護士と評されていた。


『休日にこんなところにまで呼び出して悪かったな』


 父はすでに五十代、悠が生まれたときが三十五歳だったのだから当然ともいえる。だが末っ子の紫はまだ幼稚園。そのせいか充分に若々しく見えた。

 悠にとって父は、理想であり憧れであり、畏怖の対象でもあった。

 中学生のとき、父が再婚で、母と結婚したのは悠が三歳になる年だと知る。子供心に、父の悠に対する態度と、弟妹に対する態度に差を感じ……実の父は他にいるのかも、と悩んだことも。思春期あたりから親とはだいぶ距離を取るようになっている。だが、それでも家族を大切に思うことに間違いはなかった。

 このときまでは――。


『母さんや桜たちには聞かせたくない話だった……こう言ったら、わかると思うが』

 事務所に呼ばれることなど一度もなかった。それが呼ばれたということは……。予想どおりではあるが、最悪の結果であることには間違いない。

『すべて父さんのせいだ。本当にすまない』

 父の手には悠が沙紀に渡した中絶同意書のコピーがあった。

『じゃあ、本当なんだ。彼女は本当に父さんの……』 

『娘じゃない。彼女の母親と結婚していたのは事実だが……もし、私の娘なら、放り出すような真似は絶対にしない。美和子と別れても娘だけは引き取ったはずだ。それだけは……』

 悠は後ろめたさと父に対する怒りで、衝動的に叫んでしまう。

『僕のことはどうなんだ!? 僕が生まれたとき、父さんは他の女と結婚してたじゃないか? でも、母さんは父さんに逆らって僕を生んだ。それを知ったから、急遽結婚を取りやめにしたんだろう?』

 父は見る見る青ざめ『沙紀に聞いたのか?』とひと言だけ尋ねる。

『二十年前の新聞記事を見せられた……』


 沙紀の告白を聞いたとき、母にだけは知られたくないと思った。母は父に実子がいることを知らないはずだ。知っていれば、母の性格ならなんらかの形で姉の存在を悠たちに示したはずである。母を傷つけたくはない。そして……沙紀との関係を知られる訳にはいかない。

 悠は自分が用意できる金額をすべて沙紀に渡した。

 軽率な行為で命を与えてしまった我が子を、始末してくれるように頭を下げたのだ。たとえどんな状況であっても、死んでもそんな言葉を口にすることはない、と思っていた。悠の中にあった純粋な良心を、自ら手放した瞬間だった。 

 許されない罪を犯した。だが、血の繋がった姉の産んだ子供を認知することは可能であっても、子供の人生にとんでもないマイナスをつけてしまう。それも愛ではなく、過ちから生まれたとなれば……。

 だが、そこまで思いつめる悠を沙紀は嘲笑った。

 そんなに深刻に悩むことじゃない。悠の父は簡単に沙紀を捨てたし、妊娠して罠に嵌めた悠の母のことも、一度は捨てたのだから……。


『父さんは望んでなかったのに、母さんが勝手に僕を生んだのか? 本当に、母さんや僕を捨てて、他の人と結婚したのか?』

 泣きそうな悠に比べ、父は落ちつきを取り戻し、

『……そうだ。そのことに言い訳はしない。ただ、人生における最大の過ちだったと、今も思っている』

 冷たく言い切った。

『そうか……僕は過ちの結果な訳だ』 

『父さんを責めて気が済むなら責めればいい。だが、遠藤沙紀はこれを持って私のところにきた。大事な息子の未来を潰したくなければ金を払え、と』

『金なら……もう』

『数百万のはした金ではなく、私の実子として相続するはずの財産を寄越せと言ってきた。悠……おまえは罠に嵌められたんだ』


 悠はそのとき初めて、最初の妻、遠藤美和子との離婚騒動や“嫡出否認”の事実を聞かされた。



~*~*~*~*~



「沙紀は何度か父に会いに来たらしい。そのたびに説明しても受け入れようとしなかった、と。なんでも、一条の祖母が生前、彼女に金を渡していたみたいなんだ。そのことを曲解して、一条の金の力で事実を捻じ曲げられた。不幸はすべて父のせいだ、と思い込んでて……」

 

 沙紀は悠を嵌めるため、友人に取り入り利用した。

 だが、小岩も決して被害者ではない。沙紀の執着に嫌なものを感じながら、悠を嵌めることに加担した。女性関係に潔癖な悠を誘うため、恋人を紹介し、さらには経験を積むよう説得したのだ。『成績がよくて大人びた一条の慌てるところが見たい』小岩にすればその程度の遊び半分だった。

 それにまんまと乗せられた悠も悠だが、落とし穴は用意周到に掘られており、落ちるべくして落ちたというべきだろう。


「でも、お父様は脅迫に屈しなかったのね」

「……どうしてわかる?」

 思いのほか冷静な美月の返事に悠は問い返した。

「決まってるわ。あなたのお父様ですもの」

 悠には美月の言葉の意味がわからない。彼は沙紀に金を払い、すべてをなかったことにしようとしたのだ。

「それは……嫌味なのか?」

「違うけど、まあいいわ。でも、本当にあなたの子供だったの? DNA鑑定はした? 四十年前はともかく十一年前なら可能なはずよ」

「……いや……。生まれてからなら鑑定を受けると言われたが……」

 父に呼び出された日、本当の姉弟でないなら堕胎には同意したくない、と口にしたが……。父からもう手遅れだと言われた。

 それを美月に話すと、彼女は呆れたように首を振った。

「妊娠を盾にする女の決まり文句ね。堕胎は事実かもしれないけど、あなたの子供かどうかは……。避妊は?」

「それは……本当に聞きたいのか?」

「重要なことよ」

 あっさり返されては、妙にあたふたしている自分がさらに情けなく思える。

「使った、と思う。彼女が用意して……付けてくれた。終わって外してくれたのも向こうだよ。これで満足?」

「……至れり尽くせりね。でも、ティーンエイジャーならそんなものかしら」

 クスッと笑われ、自分でも信じられないほど意地の悪いことを口にしてしまう。

「いや、もともとマヌケなんだ。三十になっても、ピルを飲んでる、なんていう女の言葉を鵜呑みにしてるくらいだからね」

 直後、美月は身を翻した。


 一分後にはバッグを手に戻ってきて、呆気に取られる悠の前にピルシートを突きつける。

 その目には屈辱の色が浮かんでいた。

「これで安心してもらえたかしら? それともドクターの証明書も必要?」

 悠はピルシートを受け取らず、両手を上げる。

「わかった。降参だ。全部僕が悪い、だからこれ以上いじめないでくれ」

「いいえ……」

 美月は深いため息をつくと、ピルシートをバッグに戻し、悠の腕に触れた。

「笑ってごめんなさい。あなたをバカにするつもりじゃなかったの」

「君が謝ることじゃない。手を振り払われても……汚いと言われても仕方がないと思ってる」

「そんなこと……悠さん、それって誰かに言われたの?」

「……ああ、母にね」


 父は脅迫の事実を警察に報告した。起訴されなくても、本気を見せて追い払おうとしたのだろう。だが、そのことが母の耳に入り、母は沙紀の存在を知った。

 自分と出会うはるか前のことなのだから、話しておいて欲しかったという母と、すでに終わったことだと言い張る父。ふたりの間に亀裂が入り、少しずつ離れていく。教えてくれなかったのは実子だからではないか、と母が疑い始めたとき、沙紀は釈放された。

 親子でないことを認め、悠との関係を口外しないという念書も書かせた。にもかかわらず、沙紀はあっさり約束を破り、悠との関係を母に暴露したのである。

 それも姉弟と知った上で関係した。悠が望んだから応じただけなのに、妊娠させられた挙げ句、中絶まで強要されて……。ばれたら困るから脅迫罪で訴えるなんて。父親が父親なら息子も息子――『妹には手を出してないといいのだけれど』そんな言葉まで口にした。


「正直、父のことは諦めがつく。子供のころから感じていた疑問に答えが出たような気もした。でも母は……。沙紀の言葉は嘘だ、何も知らなかった、信じて欲しい――そう言って縋った手を振り払われたんだ」



『触らないで……桜と紫にも近づかないで……汚らわしい! 悠も、聡さんも、もう信じられない!』


 絶望に満ちた母の泣き声は悠の弱りきった心に直撃し、彼の価値観は根底から崩れ落ちた。




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