(6)初恋の小さな過ち
深夜零時を回っていた。
悠はそっと玄関の鍵を開け、中に滑り込む。一瞬、ほんの一瞬だけ、美月が真を選び、ふたりが愛し合っていたとしたら、自分はどうすればいいんだろう。そんな不安を覚える。夫として嫉妬心を露わにすることなどできない。悠にはその資格がなかった。
だが、室内はしんと静まり返っている。みんな眠っているようだ。
そのことに悠は大袈裟なほどため息をついた。
リビングの一角、閉まった襖を見たとき、その向こうにいる美月のことを思った。
美月が桐生本家の財産を相続した以上、すべての不安を完全に消し去ることはできない。だがもう、これまでほど怯えて暮らす必要はない。日本で暮らすことも可能……美月が独身に戻り、子供を産むとしても、ボストンなら安全に暮らせるだろう。
それを伝えて、一刻も早く彼女を自由にしてやるほうがいい。
だが……黙っていればあと一週間は一緒にいられる。悠の胸に姑息な思いがよぎる。
(セックスしたさに嘘をつくのか? どこまでろくでなしに成り下がる気だ!)
彼女の寝顔を見ようと和室に足を向け、襖に手をかけたところでやめた。
そのとき、リビングの窓にかかったカーテンが風に揺れた。そこはルーフバルコニーに出られる窓。悠の寝室からも出入りできるが、リビングからも可能なのだ。
悠がカーテンを除けると窓がほんの少し開いていた。
バルコニーの手すりにもたれ、美月が恋い焦がれるような表情で月を見上げている。
(このまま……月に帰ってしまいそうだ)
そんな愚かな想像に、胸が錐で突かれたように痛む。
「悠……さん?」
彼女はハッと驚いた顔をするが、たちまち眉間にシワを寄せた。
「帰ってこられるなら電話ぐらいしてくれてもいいんじゃない? 社長の呼び出しで大阪まで行くと聞いて、とんでもないことがあったんじゃないかと心配していたのに」
「ごめん。仕事で……色々と面倒なことが続いて。すぐに帰れると思ったのに、アテが外れて散々だったんだ」
悠はスーツのネクタイを緩めながら美月の横に立った。
「夕食ぐらいみんなで取りたかったんだけど、それもできなかった。本当にすまない」
「別に怒ってる訳じゃないわ。心配したのよ、って伝えたかっただけ……」
美月は手を伸ばし、悠に代わってネクタイを解く。そして、途中で手を止め、彼女はじっと見上げていた。
「ねえ……キスも、してくれないの?」
「……ふたりがいるのに?」
「そんなに見られるのが怖い? 形だけの夫婦じゃなくて、セックスしてるって知られたら困るの?」
美月の挑戦的な言葉に悠は息を飲んだ。
「十六歳の私に大人の分別を発揮してくれたことは感謝してる。でも、私はもうティーンエイジャーではないわ。何かを決めるのに、保護者の許可はいらない年齢なのよ。知らなかった?」
ネクタイの両端を引っ張られ、悠が身を屈めたとき美月と唇が重なった。
それがスイッチのように、悠の心は複雑な感情で満たされた。何かに駆り立てられる気分で彼女の腰を抱き寄せ、より深く口づける。それは互いに奪い合うような、刹那的なキスだった。
美月はシャツ越しに悠の身体に触れる。胸元に触れたあと腹部を撫で、脇腹を擦りながら背中に手を回した。胸に頬を当て、ギュッと抱き締める。悠は言葉もなく、彼女の髪に顔を埋めていた。
「悠さん……聞きたいことがあるの」
「何?」
「私、あなたのお姉さんに会ったわ」
胸元で聞こえる声は悠の心臓を揺さぶった。
恐る恐る美月から離れようとする。だが、美月のほうが悠を放さなかった。
「遠藤沙紀さんて方。前、姉がいるっておっしゃってたわよね? 三人で行った動物園で会ったの。知り合いの子供さんの付き添いって言われたんだけど……私には偶然だとは思えないわ」
美月の声は緊張を孕んでいた。
彼女の言うとおり、偶然ではないだろう。おそらく、悠の周囲を気づかれぬように徘徊し、タイミングを見て接触してきたに違いない。この分なら、あの無言電話の犯人も……。
「彼女は……君に何を言った?」
「正直に答えたほうがいいのかしら?」
言いよどむ美月の口調に、悠はほとんどの内容を察する。
「いや……わかった。もういいよ」
「それだけ? ちゃんと聞いて、否定はしないの?」
「君が信じたいものを信じればいい。どうせなんの証拠もない。今となっては水掛け論だ。ああ……ひとつだけ確かな事実がある。――僕があの女を抱いたのは本当だ」
早口で吐き捨てるように言い、悠は美月から離れた。
~*~*~*~*~
――大学二年の夏。
それまで一度も女性と付き合ったことのない悠に彼女ができた。友人の彼女の友だち、というごく自然な流れだった。紹介されて何度かダブルデートをして、初めてふたりきりでデートしたとき、別れ際にキスをした。
身体にも触れず、ただ、唇が数秒触れ合うようなキス。
あとから思えば十代の性衝動かもしれない。でも、あのとき初めて、悠は彼女とそれ以上の関係に進みたいと思った。
『でもさ……マホさん、年上だし。去年まで彼氏がいたから、バージンじゃないと思うぜ』
悠の友人、小岩豊の言葉だ。
小岩とは大学で出会い、父親が同じ弁護士と聞いて意気投合した。小岩の彼女が“マホ”の親友という関係もあり、女性関係に不案内な悠は彼になんでも相談していたのだった。
『というか……お前、童貞ってバレたら絶対笑われるって。そんだけのルックスで、なんで経験してないんだよ』
そんなことを言われても、だ。
悠の場合、別に親が厳しかったというようなことはない。門限もとくになく、小遣いにも不自由することはなかった。何がなんでも経験したければ、風俗を選ぶこともできたのだ。
だが、そのころまでの彼にとって女の子もセックスも興味の対象外だった。
『お前……それって異常じゃね?』
大きなお世話だ、と思ったが……。
実際に女性を前にすれば、どうしたらいいのか見当もつかない。両親の行為を耳にしたことくらいはある。それなりのAVを付き合いで見たことも。にわかに目覚めた興味は、彼の好奇心を若者特有の過ちへと導いた。
『知り合いのオネーサンがいるんだけどさ。あ、風俗の人じゃないぜ。ケータイサイトで知り合ったんだ。バツイチで、Hの相手を探してて、若い子が好きなんだと。手取り足取り腰取り、教えてくれるぜ。俺が頼んでやるよ』
小岩と同じ女性と……というのに抵抗はあった。
だが、小学生のころから大人びた容姿には苦労してきた悠だ。十九歳なのに、当たり前のように二十代半ばといわれる。そんな悠にとって、初めて心を揺らされた女性。彼女に嫌われたくない。その一念で悠はうなずいていた。
その女性は児島沙紀と名乗った。派遣の事務をしているとかで、派手な化粧はしていなかったが若々しく魅力的な女性だ。とても、ケータイサイトで相手を探すようには見えない。
『旦那は年上だったんだけど横暴でね。浮気はする、暴力は振るう、子供がいなかったから別れたの。もう、男はこりごり。でもエッチはしたいじゃない? うんと年下ならこっちが主導権を握れるし……なんでも教えてあげるから、しっかりオネーサンで練習するのよ』
二十代に見えたが、本当は悠よりひと回り年上と聞き、驚くと同時にホッとする。それだけ歳が離れているということは、沙紀にとって目的は本当に若い男とのセックスなのだ、と。
キスはしたくないと断ったら、沙紀は悠の純情さを褒めてくれた。
そして、初めて女性の躯を知り――それは地獄への幕開けとなる。




