(8)散りゆく桜
*最後の部分に性的なものを思わせる表現があります。苦手な方は飛ばして下さい。R15でお願いします。
ふたりが回転寿司の店を出るころには、閉店時間ギリギリになっていた。
片側二車線の道路沿い、街路樹に桜の木はなかったが、どこかから飛んできたのだろう。悠は目の前を歩く美月の髪にピンクの欠片を見つけ、手を伸ばした。
「え? 何?」
髪に触られたことにビックリした様子で、美月は振り返る。
「桜だ。昼間、髪についた訳はないから、風で飛ばされてきたんだろう」
「だったら、さっきのお店ね。私、悠さんより先に出たでしょう? 駐車場の奥に桜があって、近づいて見ていたの。きっとそのときだわ」
悠の指先から花びらを受け取り、美月はふうっと息を吹きつけ、宙に放った。
「君は好きだな、桜が」
その声は自分で思った以上に寂しげに響き、辺りに広がった。
だが、美月はそんなことなど気にしない素振りで、「ええ、好きよ」と笑って答える。
「僕は嫌いだ。目障りだよ。毎年、この時期になれば、誰も彼もが『桜、桜』と。梅や桃でもいいじゃないか……ハナミズキだって変わりはしない。どうせ、花見の名目で騒ぎたいだけなんだから」
口にするうちに苛立ちが増し、どんどん辛辣な口調になる。
(いったい、何をむきになってるんだ……)
悠が気分を切り替えて美月に話しかけようとしたとき、彼女は別の何かを見つけたらしく、そこに駆け寄っていた。
「素敵……中世ヨーロッパの教会だわ」
地方都市の住宅街にその教会はあった。中世ゴシック様式の建築で、聖人の名前がついたウエディング専用の教会と聞いている。大安の休日など、悠のマンションまで鐘の音が聞こえてくることもある。
吸い寄せられるように教会に近づく美月のあとを追い、悠もアーチをくぐった。
敷地に入ると二メートルくらいの高さに剪定されたウバメガシの生垣が、教会をぐるりと取り囲んでいた。美月はキョロキョロと辺りを見ながら、レンガの敷き詰められた通路を歩いて行く。
日本ではあまり馴染みがないが、キリスト教圏の教会、聖堂は誰でも自由に出入りできる場所だ。気軽に立ち寄り、祈りを捧げて立ち去る。日本人の感覚でいうなら、神社でお賽銭を投げて手を合わせるようなものだった。
美月も当然その感覚なのだろう。
だが、ウエディング専用教会と言われるここは、聖堂には鍵がかかっていた。聖職者が常駐していないので、解放できないのだろう。
しかも、今日は日が悪かったのか、教会が使われた様子もない。灯りもついてはおらず、人の気配もなく、全体的にしんとしていた。
「素敵な教会なのに、残念だわ」
「明日くればいい。結婚式があれば別だが、そうでなければ、見学させてもらえるだろう」
「夫婦で見学させて欲しいと言うの?」
「おかしくはないだろう? 結婚後に式を挙げる夫婦だっている」
そんなことを口にしながら、思い出していたのは両親のことだった。
悠の両親も入籍後に式を挙げていた。妹が生まれる半年前の日付で、挙式の写真が残っている。ウエディングドレスとタキシード姿の両親の真ん中に、三歳になるかならないかの悠も写っていた。
「ええ、そうね。うちの両親がそうだわ。父は最初も二度目も子供が先だ、と言われて……周囲から随分と冷やかされたらしいの。今の母は、結婚式はしなくてもいいって言ってたけど、父がケジメだからって。会社の関係者や親戚、お互いの家族も招いて、ちゃんと挙式と披露宴までしたのよ」
その話に悠は感心していた。
「君のお父さんならわかるよ。他の何より、家族が最優先というタイプに思える。正式にお披露目することで、順番が違っても妻にした女性の名誉を守りたかったんだろう」
何気なく言った言葉だった。
だが、次に美月が口にしたセリフは、悠の胸に後悔の痛みを与えた。
「昼間、言われたの。私たちはさぞかし素敵な結婚式だったんでしょうね、って。判事の前で誓って、結婚証明書をもらっただけ、なんて言えなかったわ」
言い訳ならできる。
教会で式を挙げることもできたが、拒んだのは美月のほうだ。クリスチャンではないが、神の前で偽りの愛を誓うことはできない、と。
遠い目をして教会の屋根を見上げている美月に悠は声をかけた。
「だったら……今度は本当の結婚をして、神の前で誓ったほうがいい。精子バンクなんて使わずに……好きな男の子供を産むのが一番だと思うよ」
(何を余計なことを言ってるんだ。僕が口を出すべきことじゃない。僕なんかが……)
そう思う反面、美月はノーと答えるはずだ、と思い込んでいた。いや、期待していたちというべきかもしれない。
ところが――。
「そうね、悠さんのおっしゃるとおりかもしれない。後悔する前に諦めることと、諦めなかったことで間違いを犯したとしても、後悔しないように努力することは違うわよね」
美月は視線を悠に移すと、ふわりと笑った。
「梅や桃が嫌いな訳じゃないわ。ハナミズキでも構わないのかもしれない。ただ、日本を思い出したとき、一番に思い浮かんだ花だから……きっかけは、たったそれだけ。それでも、わたしは桜が好きよ」
そんなふうに言い切れる美月が眩しい。そして恨めしく、焼け付くような嫉妬を覚えた。
「それは……誰かが君の考えを変えたのか? 言っておくけど、那智さんは君のものにはならないよ。彼はおそらく」
「悠さんが変えたのよ……」
悠の言葉を遮った内容に、驚いて息を飲む。
「セックスの気持ちよさを教えてくれたじゃない。男性に触れられることも、触れることも、素晴らしい経験ができるって知ったわ。精子バンクという方法じゃなくても、私にも子供が持てるかもしれない……ね? そうでしょ?」
後悔と嫉妬を上回る思い。
息が詰まるような苦しさと、胸が痛くなるような切なさ。
(そうだ。彼女の言うとおり、僕が望んだ。精子バンクなんて、やめさせたかった。ちゃんと恋をして、彼女に相応しい夫を見つけられるように、と。セックスに怯える美月に、抱き合う楽しさを教えられたら、なんて……)
悠はこのとき、心に浮かんだ美しい月をわざと否定した。心の目を閉じ、いいことも悪いことも見ないふりをして美月に手を伸ばした。
「ああ、僕もそう思う。今度はもっと危険なシーンを楽しんでみようか? たとえば」
彼女の返事を聞く前に抱き寄せ、口づける。
柔らかい唇を何度も食むように味わう。ささくれ立った悠の神経は、まろやかな吐息で蕩けてしまいそうだ。
躊躇っていた美月の手が、しだいに悠の背中に触れ……やがて、ぎゅっと抱きしめた。
五分もあれば自宅まで戻れる。こんなところで、もし監視カメラでもあれば……。チラッと浮かんだ理性の警告にまで目隠しをして、ふたりは本能のまま求め合った。




