2.3 何のために戻ったのか
「……ウィルフレッドさ、ま」
震える声が聞こえて、ウィルフレッドはアシェリーの耳元から離れる。目が合えば、その淡い青色の瞳が揺れていて、彼女の動揺が伝わった。
それでウィルフレッドは少し、冷静になれた。
「……すまない、急にこんな――」
顔を逸らして、ようやく彼女を解放する。
どうしようもなく苦しくて、呆然とした彼女にそれ以上何も言えず、ウィルフレッドは彼女から離れた。
心の中がぐちゃぐちゃで、ウィルフレッドは自分でも自分が分からなかった。こんなにも我を失う自分を、今まで想像したこともなかった。婚約者のいるアシェリーに、しかも、現時点では知り合って間もないアシェリーに、あんな風に思いを伝えるべきではなかった。
ウィルフレッドは会場の外へと急いだ。逃げた。そう言われても仕方がないと思った。
「待って! ウィルフレッド様!」
丁度会場から庭園に出た時、背後からアシェリーの声がした。早足で去ったウィルフレッドを追ってきたせいか、彼女は肩で息をしている。
「アシェリー嬢……」
何故、彼女が追ってくるのかが分からなかった。向き合えば、明るい月の光が、アシェリーの顔を照らし出していた。
アシェリーは胸を抑えて息を整えながら、困ったように眉を下げている。彼女はためらいがちに口を開いた。
「……さっき言ってくれたことは、本当? その、私を――」
「…………」
ウィルフレッドは答える代わりに、小さくうなずいた。
「もしかして、私のことを覚えていてくれたの?」
アシェリーのその言葉に、ウィルフレッドは無言で目を見開いた。アシェリーも記憶があるということなのだろうか。だがウィルフレッドがそれをアシェリーに尋ねる前に、アシェリーが続けた。
「私達の、聖ローエンベルクの加護の日、あなたは王都に来ていたでしょう?」
ウィルフレッドは、『聖ローエンベルクの加護』を八歳の時にこの王都で受けた。この国の子供達は、その時初めて自分の魔力の属性を知る。
アシェリーの言う『記憶』は、ウィルフレッドの経験した『記憶』とは違う。それを理解して、ウィルフレッドは、落胆が自分の体の中を真っ黒に塗りつぶしていくような気がした。
「……加護を受けに、確かに、父と一緒に王都に来た」
「あの夜、お祝いの花火が上がって、大聖堂であなたと話したわ」
「…………」
記憶を必死にたどっても、ウィルフレッドには八歳の頃のアシェリーを思い出すことはできなかった。
「……すまない、思い出せない」
正直にそう言えば、今まで困った表情ながらもどこか嬉しそうな様子であったアシェリーは、途端に悲しそうに視線を落とした。
「そうよね、すごく前のことだもの……」
「すまない」
アシェリーの表情を見て、もう一度謝ると、彼女は少し笑った。
「謝ってばかりね。もう謝らないで」
「……俺には、あなたとは別の記憶がある」
ウィルフレッドはつい、そう言ってしまった。言おうと思っていたわけではないのに、結局打ち明けてしまっている。アシェリーは不思議そうにウィルフレッドを見つめている。
「別の、記憶?」
「信じてもらえないかもしれないが、この舞踏会であなたと踊るのは二回目だ」
「……二回目? さっき確かに、二回踊ったわ」
「違う。二度目の人生なんだ、今は。俺にとっての」
「…………」
「王都で出会ってから、一年と半年位の記憶がある。王都で、それからヴェリタールで、あなたと過ごした」
しばらく沈黙が続いた。
アシェリーは混乱した様子だが、理解しようとはしてくれているようだった。しかし。
「あなたが嘘をつくような人だとは思っていないわ。だからあなたの言うことは信じるわ。でも……」
アシェリーは悲しそうな表情をしていた。
「……あなたの記憶の中の人と、私が、同じ人だと言えるの?」
「それは……」
思いもよらない言葉に、ウィルフレッドは言葉に詰まった。
「あなたが好きなのは、過去に出会った私。今、目の前にいる私とは、別の人ではないの?」
「…………」
そんなことはないと、きっぱりと言うことはできなかった。アシェリーの言いたいことも分かるからだ。
ウィルフレッドは沈黙し、結局彼女にそれ以上何も言えなくなってしまった。
「困らせてしまって、すまない。……正直、自分でも、何が起こっているのか良く分からない」
自分自身が分からないのに、彼女に理解して貰おうというのが、無理な話なのだ。ウィルフレッドは今になって、彼女に打ち明けたことを後悔していた。
「違うわ。困らせてるなんて、そんなことない。たけど、あなたの言う私に、実感がなくて。だって私はあなたと出会ったばかりで、だから――」
「アシェリー?」
彼女を呼ぶ声に、ウィルフレッドは急に現実に引き戻された気持ちで、声の方を振り向いた。アシェリーも同じだった。
アシェリーを探していたのだろうか。すぐ近くまで、セオドリックとテレンスが来ていた。
「……ウィルフレッド、何をしている」
二人の様子が、普通ではないことに気づいたのか、セオドリックが怪訝な顔をした。テレンスも驚いた様子で、こちらを見守っている。
アシェリーに心を打ち明けた以上、隠すべきではない気がした。ウィルフレッドはすぐに心を決めて、セオドリックをまっすぐに見つめた。
「今、アシェリー嬢に、伝えていました。あなたが好きだと」
「……何だって?」
「アシェリー嬢が、好きです」
「…………」
「おい、笑えないぞ。やめとけ、ウィルフレッド」
テレンスがいつになく青い顔をして、ウィルフレッドを止めようと動いた。
セオドリックはそれを制して、ウィルフレッドを見据えると、きっぱりと言った。
「僕とアシェリーとの結婚は、もう決まったことだ。思いはすべて、報われるとは限らない。諦めろ」
「……分かって、います」
セオドリックの厳しい視線と、厳しい言葉は、当然だった。
かつてセオドリックは、自らの定めを受け入れて同じ言葉を口にした。セオドリックはこうも言った。何もかもが、思い通りになどいかない。
「ウィルフレッド、とりあえず、一度落ち着こう。な? セオドリック殿下、ウィルフレッドを連れて帰ります。よろしいですか?」
「……分かった」
「行こう、ウィルフレッド」
「……失礼します」
テレンスと一緒に、ウィルフレッドは二人の側を離れた。
もしかしたらこれでもう二度と、アシェリーと話すことも、視線を合わせることもできないのかもしれない。
いつもアシェリーの幸せのことを考えていた。つもりだった。でも今日の自分の行動は、アシェリーを困らせただけだ。
ウィルフレッドには分からなかった。一体自分は、何のために戻ったのか。こんな風になるのなら、もう一度やり直したくなど、なかった。




