004
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放課後、保健室へ様子を見に行くと葵はぼんやりと窓の外を眺めていた。どうやら、大人しくしていたらしい。俺の見ていないところで暴れなかったようで何よりだ。
「……」
「どうした」
「別に、なんでもありません」
なんとなく、目の奥の闇がほんのり薄れているように思った。そして、代わりに真っ白だった冷たい肌に、僅かばかり桃色が差しているような気もした。
「上着、脱げば?」
「ひょっとして、私の初めてってここなんですか?」
「いや、そうじゃなくて。暑そうだと思ってさ」
「……違うんです。私はスケベな女じゃないんです」
「まぁ、今の勘違いは尋常の範疇だと思うがね」
こっちをゆっくりと見た葵は、最初はなんということのない顔をしていたものの、次第に顔を赤く染めていき、最後には俯いてベッドの端に座る俺のブレザーを指先でちょこんと摘んだ。
「多分、さっきのキスは一生忘れられないと思います」
「悪かったと思ってるよ」
「いえ、むしろ嬉しくはあったんですけど。なんというか、普通で満足出来なくなっていたらどうしようかと」
「そんな心配に意味はないって分かる時が、いずれ来てしまうものだよ」
「……やっぱり、大人ですね」
俺は葵が思っているほど大人というわけでもないのだが。今は何を言っても彼女が傷付きそうだから、黙って隣りに座っていることにした。
「聞いてもらえますか?」
「いいよ」
頷き、息を整えて彼女は語る。
「ゲームという尺度で考えるのならば、私はきっとバグっているんだと思います。深刻なエラーです。プログラムのクセに感情を芽生えさせて、あまつさえ暴走するくらい好きになってしまっているんですから」
「バグねぇ」
「与えられたキャパシティを超えて、ダーリンを好きになっているのだと思います。そのせいで、いろんな不具合が発生しているんです。こんなに好きになるはずじゃなかったんですから、対処方法だってないのでしょう」
俺の知ってる世界にも、似たような恋をしている奴は何人かいる。自分で自分を自覚しているだけ、葵はアノニマスよりもよほど理性的だと思った。
「ねぇ、ダーリン」
「ん?」
「恋ってなんなんですか?」
ふいに、遠くから船の汽笛の残響が届く。それが切れるまで、俺は考える時間を得た。ここで心理的な引用をして誤魔化すのは、なんとなく卑怯だと思ったからだ。
ここは、素直な気持ちを話しておきたかった。
「その点に関して、俺と葵に大きな差はないと思う。俺もバグまみれの人間だから」
「そんなことありません。ダーリンは特別です。ダーリンだけが、特別なんです」
「買い被るなよ、葵。俺はただのおっさんだよ」
「違います」
「……ふふ。怖いよな。自分を狂わせた男の正体が、何の変哲もないただのおっさんだってことを認めるのは」
いつからだったろう。自分の両親がただの人間であることを知ったのは。いつからだったろう。愛した女が、どこにでもいる普通の人間であることを知ったのは。
そして、その輪の中にいる自分も当然、尋常でしかない只の人間だった。特別なんてことはない。俺は、ひたすらに茫漠とした時間の中を漂う歯車の一つでしかない。
認められたのは、今の葵よりずっと後の歳のことだ。
「……ならば、なぜダーリンはこの世界に来れたのですか?」
不思議の国に迷い込んだアリスは、果たして特別な人間だっただろうか。むしろ、物語の核となる不思議な存在とは並でない者。彼女を誘った白いうさぎやチェシャ猫であるはずだ。
「つまり、特別なのはお前だよ。葵。お前が不思議の国の住人で――」
だから、四条葵こそが、無知な俺に恋を教えてくれる存在なのだろう。
「……私が、ダーリンに恋を教える役割ですか」
「そう思ってる」
「私がダーリンに。そうですか、私がダーリンに恋を……」
すると、葵は俺のブレザーを掴んで妖しく笑った。ディスプレイの向こう側に見ていたのとは違う、彼女の本当の笑顔だと確信してしまう。そんな、本能をむき出しにしたような笑顔だった。
「ならば、私が見つけた恋にダーリンを一生付き合わせます。元の世界に帰りたいと言ったって絶対に許しません。その時は、あなたの舌を噛み切ってでも止めてみせます」
「分かった」
どうやら、肯定されるとは思っていなかったらしい。葵は更に肌の色を染め、目の奥に一瞬だけ光を宿してから、しかし何かを思い直したかのように頭を振って俺を見上げた。
けれど、この男は嘘つきだから。
きっと、そんな事を考えたに違いない。
「では、レッスンその一です。恋とは手を繋ぐことです。今日これから放課後、ダーリンは私と手を繋いで歩きみんなに恋人同士であることを知らしめる必要があります」
「随分とかわいいレッスンだ」
「あっ!! また子供扱いした!! いいじゃないですか!! というか、ダーリンが私をそういう言葉で口説かなかったから思いつかないんですよっ!?」
「ごめんよ」
しかし、彼女は気がついているだろうか。
元々、俺は彼女を選んで攻略したこと。それすなわち、曲がりなりにも、俺の方が先に彼女を好きになっていたという事実に他ならないということを。
既に、俺に一つ、恋というものを教えてくれていることを。
「……子供だと思いたいだけなのかもな」
「え? なんですか!?」
「いや、なんでもないよ」
「はい、それだめです!! 一回口にしたんだからちゃんと伝わるまで言ってください!! 知ってますよ!! 男ってそういうとこありますよね!! レッスン2、カッコつけるより分かり合うほうが大切!! ですよ!?」
きゅ、急に真理突きつけてきますね。葵さん。
「……俺もビビらないで向き合おうと思っただけだよ」
「あれ? あれあれ? なんか、いきなりかわいいこと言うじゃないですかぁ。なんですか? ひょっとして、ダーリンってよしよしされたい側なんですかぁ?」
「まぁ、急にその距離感で来られるとウッとくるけどな」
「あぁ!! 恋ってムズすぎますよ!! なんなんですか、答えは一本に絞ってくださいっ!!」
それはこっちのセリフだと言いかけたが、どう考えても、葵に対する答えは一つしか無さそうだと感じてやめた。
……嘗て、ゲームに恋愛を求めようとした俺の本当の願いとはなんなのだろうか。
自分のやりたいことが分からないのは、果たして、見失ったからなのか。それとも、最初から無かったのかも分からない。ただ、正体の見えないものを漠然と欲しがる自分が、この上なく滑稽で仕方ない。
ならば、一度自分を切り捨てて、ただ目の前の女の子を幸せにするのがいいのかもしれない。
……それが、永遠とは限らないのに?
「ダーリン」
堂々巡りになりそうな俺の思考を、葵がピシャリと止めてくれた。救われた。それは、紛れもない真実だった。
「ダーリンは、私のことだけ考えていてください。あなたは色々なことを悩み過ぎます。レッスン3、もっとバカになろう。ですよ」
「バカになる、か」
「はい。シンプルに考えたほうが上手くいくことも、往々にしてあるものです」
なんだか、負けた気分だ。
けれど、存外、悪くない気分だ。
「帰ろう、家まで送るよ」
「いいです、ダーリンの家に帰るので」
「ちょっと、一人で考えごとがしたいな」
「ダメです。レッスン4、恋とは同棲です。本当は寂しがり屋なダーリンの側にいて、一緒にバカになる練習をしてあげます」
「……お前みたいな奴のこと、多分ヤンデレって言うんだよな」
「私のデータベースに、そのような言葉はありません」
せっかく鮮やかな色を宿した彼女の目が、またしても暗くなってしまった。
まぁ、広坂との浮気を心配させてしまった罰として受け入れよう。そうすれば、葵の寂しかった記憶も少しくらいは紛れることだろう。




