003
「……」
「……」
葵は、意外にも俺の手を振りほどこうとはしなかった。しかし、それはヒステリーではなく冷静に確実に広坂を葬ろうとしている証明に他ならない。
自分のことだから敢えて言うけど、俺なんかのことでそこまでムキにならなくてもいいのに。
「忠告しましたよね」
「俺にはな。広坂は、俺と葵の交際も知らないだろうさ」
彼女のキャラクターを忘れていた俺が悪い。そのセリフは、なんだか葵に孤独を思い出させてしまいそうで口に出来なかった。
「あら、世界中に祝福されていると思っていましたわ。だって、私はエンディングを迎えたんですもの。あの女、負けヒロインだからって僻んでるんです」
とんだブラックジョークだ。まさか、キャラクターがヒロイン論を語るだなんて。
「俺に興味なんて無いだろ。最初からあぁいう奴なんだ」
「そうでしょうね。だって、そういうふうに作られているんですから。彼女も、康平さんも、最初からあぁいう人たちなんです」
「おいおい」
「私は、その点についてとてもシビアに考えました。自分が何者なのか、どうして私だけが元のキャラクター性を離れて特異点なり得たのか。そのことについて理解しているつもりです」
「偉いと思うよ」
少なくとも、クリア時点では病んじゃいなかったしな。
「だから、帰ってきてくれたダーリンに当たり前みたいに接する奴が心から許せない」
冷たい手だ。
「ダーリンの愛を受けた私だけに、ダーリンを理解する権利があるんです。『仕組み』も分かってない女があなたに触れるなんて許されるはずがないっ!!」
まるで、氷みたいに。
「なぁ、葵って冷え性?」
「……は?」
「女の場合、血行不良やホルモンバランスの崩れが主な理由だけど、実はストレスや筋力低下でも悪化するんだ。だが、この冷たさは普通じゃない。行き過ぎだ。まさかタバコ吸ってる? ダメだろ、未成年の喫煙は」
「吸ってるわけないじゃないですか!!」
「へぇ、そう。よく見ると、小指と薬指の爪がギザギザだ。噛む癖があるね。いつからだ?」
「爪もダーリンが消えてからに決まってるでしょ!? こんな意味のわからない癖、最初から組み込まれるようなヒロインがどこにいるんですか!!」
「それって、この世界の何処かに冷え性とか咬爪症のプログラムがあって、葵はそれをインストールしたってことになるのかね」
「どこの世界にそんなプログラムがあるんですか!!」
「さぁ。個人的には、そんなもん作るメリットがないと思う」
「さっきから何を――」
「ならば、どうして葵にそんな癖や体質が後天的に備わったんだろうね」
俺は、葵の瞳に『怒り』という色が浮かんだのを見て少し笑った。
「きっと、俺がこの世界に来た時点でさ。ここはバーチャルでなく新しい現実になったんだよ。だから葵は人間だ。それでいいじゃない」
「……それを伝えるために、わざと怒らせたんですか?」
「ごめんね」
他に方法が思い浮かばなくて。
「……ダーリンに謝らせるようなことをしたあの女を、早く殺しに行かないと」
「気に入らないとかナメられたとか、そういう感情を剥き出しにしたっていいことないよ」
葵は、なにか言いたげに俺を見上げる。しかし、俺は珍しく真剣な顔をして女と向き合った。
「それだけ感情を昂らせるくらい好きにさせてしまったことは謝るよ、ごめん」
「ダーリンってすぐに謝りますよね、昔から」
「不思議だよな。言ったりやったりするまでは分からないのに、口にした瞬間、自分が失敗したって分かるんだ。もうほんの数瞬、俺も冷静でいられればいいのに」
彼女は黙り、ただ、どこか切なそうな顔をする。
「俺、一度特大の裏切りをかましてるからさ。葵が不安になって暴走する気持ちは理解してるつもりだ。その不安要素をなんとかしようとする行動力には、ちょっと尊敬だってしてる」
「……はい」
「でも、もう少し信じて欲しいな。俺はキミにしか興味ないってこと」
少し上を向いて言葉を考えた。
「あ、調子いいこと言ってるって思っただろう。眉毛の角度で分かるよ、葵の考えてること」
「……ズルいんですよ、ダーリンは。私のこと子供だと思って、高校生の恋愛じゃあありえないようなこと言ってるんですから」
「子供だなんて思ってないよ」
分かってる。
俺は今、嘘をついた。
「私が取り返しのつかないくらいダーリンを好きになっていってること、分かってます?」
「愛してくれることは嬉しいよ」
「……制御出来ない気持ちが、胸の内側からフツフツと沸き上がってくるんです」
首を傾げると、葵は暗い目の色のままで言葉を紡いだ。
「私が人殺しをしていない理由は、たまたま、ダーリンの元カノがこの世界にいないからというだけなんですよ。私は、あなたと記憶を共有している母親以外の女、すべてに憎悪を抱いています。ダーリンと愛し合ったという事実が許せないんです。殺したくなるんです。私がダーリンの初めてを貰えなかったことが。そうやって愛の言葉をくれる理由が。失敗したからこそ、こうして私を幸せにしてくれるってことが分かっていても……っ!! 分かっていても!! 分かっていても私が初めてじゃないっていう事実が、憎くて、憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて仕方ないんですよ!!」
……。
「えへへ。そういう憎しみを向ける相手と言えば、やっぱりこの世界でダーリンに節操のないことをした女に限るんですよ。私がこの世で最も憎んでいるゴミみたいな女は、あろうことかこの世に存在していないんですからッッッ!!!! 八つ当たりするしかないんですよ!!」
「そっか」
「だから、広坂玲美を殺すんです。殺して、この気持ちを鎮めないともうマトモじゃいられないんです。分かっていても嫉妬がやめられなくて、本当に苦しいんですよ」
俺は、葵が羨ましかった。
自分じゃどうしようもないような現実や相手を、それだけリアルに憎しみ、恨めることが。
それだけ本気になって、何かを愛せることが。
「深呼吸してごらん」
「その程度で私の気持ちは――んんッ!!?!?!!?」
俺は、これだけ言っても愛し過ぎる葵をキスで黙らせた。
高校生じゃ滅多に経験しないような、それだけで腹の下が熱くなるようなキスで黙らせた。
過去、彼女以外の誰かに教えてもらった術で黙らせた。
「……っぷはっ!! はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ、はーぁ……っ」
「どうすれば、葵が不安にならないで済むの?」
「は、はぇ?」
「何でもいうことを聞いてあげる。だから、教えて」
急激に温度を上げて汗ばむ葵の額を、右手の親指で拭って抱き寄せる。病んでいる女相手の行動として、これが正しいのかはさっぱり分からない。けれど、今までに一度だって誰にもしてあげなかった、相手を求める激しいキス。
こんな初めてでいいのなら、幾らでもくれてやろうと思った。
「う、うぅ〜」
「なに?」
「うぇ……っ」
唸るように低い声をあげてから、葵は沸騰したやかんみたいに顔をカンカンに真赤にした後でパッタリと気を失ってしまった。
「……」
その場しのぎだ。
これが、少しだって根本の解決に役立っていないことは分かっている。次回までは同じ方法が通用するだろうか。その次くらいまではいけるかもしれない。けれど、キスはいずれは必ず慣れて使えなくなる。俺は、向き合うことをせず、またしても逃げたのだろう。
「バカだな、俺は」
不意に、この期に及んでまだ、俺は自分が恋愛に本気ではないことに気がついた。
もしも、絶対に変えられないものだったらどうしよう。そんなことを考えると、俺は、やはり途端にすべてがどうでも良くなるような感覚に陥るのだった。




